第3話

 夜のとばりが街に降りる。

 大都市とはいえ、わざわざ夜の時間帯に出歩こうという者は少ない。

 だが漆黒が世界を包んでからがの者にとっては、恒陽輝く白い世界よりも住み心地よい世界でもあった。


「同じところにある物体は汚れていく。それは水も空気も――人も、その精神も同じ」

 椅子に腰かけ、窓を眺めながらそう言った女性は、自慢の紅い長髪がさらりと流れることに満足を覚えていた。

 彼女は外など見ていなかった。


 気障ったらしいその仕草を見ているだけでいらいらしてくる。この女はまったく仕事をこなしていないのだ。


「貴女のお仲間とやらはどこぞの半狼にやられたそうですが?しかも警察に拘束されて、いらぬことまでぺらぺらと喋ったそうで……」


「お仲間ではなく、はした金で雇った日雇いです。せいぜいカネの出所、その憶測ぐらいしか喋ってはいないでしょう」


「憶測?」涼しげな顔で流れるように言い放たれた言葉に、烈火のような激情が心に湧き上がるのを感じる。


「それどころではない!取引場所を喋られたら、奴らはここまで辿り着く可能性まであるんだぞ!」


 言葉が口をついて出てくる。この女、犯罪者としてはプロという話だったが、裏社会におけるルールに疎いのか?


「辿り着く、といえば。巷では貴方様の噂で持ち切りでしたね。ご存じでしょうか?〈絡繰夜叉〉ルヴァル・デイルード卿?」


「ぐ………」猛烈に吐き気がこみ上げてくる。強く歯噛みして胃を抑え、唾液を飲み下す。


「おやおや、顔色がよろしくないようで。大丈夫ですか?」


 冗談ではない。たかがあんなことで、あの狂った穀潰しごときにしてやられるとは。


 それもこれも、すべてこの女のせいだ。

 自分のたゆまぬ努力と誠意によって勝ち取ったはずの財と権力が、あらぬ場所へと拡散していってしまう。

 だが、今はこの元凶たる忌まわしき暗殺者気取りの女をも利用せねばならない。使える手札はありったけ投入しなければ、この窮地を脱しきれないだろう。

 優雅な鳥が天の彼方へと飛び立つように、ゆったりと背筋を伸ばし、顔面に微笑を浮かべる。


「……大丈夫です。ご心配をお掛け致しまして、申し訳ございません」


「ひどい汗のようで、お腹の具合がよくないのですか、デイルード卿?『自室』に戻り、休まれてはどうですか」


 どこまでも優しい声色で、三日月のように歪んだ笑顔から発せられた言葉には些かの温かみも存在しなかった。

 この場合の『自室』――というのは、この街で後ろ暗いことを行った議員連中のセーフハウスのことだからだ。

 わざと口にしたのだろう。追われる身となったことをこれ以上なく意識させてくる。


「いえ、それよりも新たにお願いしたい事がございます」

「聞きましょう」

「アーロス・リークフォン」なぶるようにゆっくりと、忌まわしき名を言った。


 かつては子飼いの犬程度の親しみは持っていたが、今となっては心の中で何度刺殺したか分からない。


「顔はご存じですよね?」


「ええ、まあ」


 女はつまらなそうに応えた。おそらく、予想できた事態なのだろう。

 いちいち癪に障るが、今この時はわずかばかりも顔を曇らせてはならない。意志の力で感情をねじ伏せ、依頼を口にする。


「彼を見つけ出し、即刻、殺害していただきたい」



 殺人鬼との交渉を終えて外に出ても、外は未だに真夜中だった。漆黒が街を包み込み、何もかもが黒く染められていた。

 だが、魔動灯によって街の要所を白い光で照らし出され、表通りともなれば魔動街灯が点々と存在しているため、本当の漆黒に包まれているわけではない。


 通りの向こうから怒声が聞こえる。

 闇に紛れて道行く紳士から金品を強奪しようという短絡的なチンピラが、巡回の警邏達に捕まって抵抗しているようだった。

 そしてその背後、そのずっと向こうに見える大きな建物は都市の中心たるグランドターミナル駅がライトアップされている。昼よりもむしろずっと派手に見える、巨大な街の象徴だ。


 ルヴァル・デイルードはこの街の夜が好きだった。

 今こうしている瞬間でも、『壁外』で活動しているような冒険者、あるいは哀れにも寒村で生まれ育った者達はこうした庇護下に置かれていない。

 そうした者達は穢れた蛮族によって殺されて喰われるか、あるいはそうならないように息をひそめて生きるしかないのだろう。小さな刃ひとつでも傷ついてしまうような人族に、外の世界は厳しすぎる。


 夜の暗闇の中で、人間という種族は視界が利かず、逆に蛮族どもは暗闇を見通す能力を持っている。

 悪夢のような魔物が存在しているこの世界で、まさにこの光景は人族が己が一生という糸を編んで造ってきた歴史に他ならない。


 そして偉大なる文化の足元には、さっきのような暗殺者気取りの守銭奴もいる。

 仕方のないことだ。そしてああいった連中には使い方を弁えさえすれば悪くない手札となる。

 あまり力のない家で生まれ育った私は、特にそうだ。力のある連中の足元を掬い、そしてのし上がるためには少しばかり原始的な武器が必要になる場面もしばしばある。

 代議員連中も、元老院も、私がいかに有能で、都市の行く末を憂いているか、全く理解しようとしていない。


 この狂った街には、私が必要なのだ。

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