集く靄
6月も下旬へと差し掛かる頃となった。
陽が昇る時刻も刻々と早くなり、
太陽が顔を見せる時間が長くなってきた。
眠たくなることはないが
紫外線が純粋に鬱陶しいと思い始める。
歩「…………。」
朝。
日差しはまだそこそこだが
昼間だと窓際の席はつらい。
席替えをしても
窓際の席だったことは
不幸中の幸いか。
そして今日も教室はがやがやと煩い。
これから登校する人もいるだろうし
もう少し喧騒は増すだろう。
全く、何をそんなに話すことが
あるのかといつも思う。
人間ってほんとよくわからない生き物。
そう、今日も頬杖をついて思う。
…あれから2ヶ月弱経った。
あれから…というのは、
私達が宝探しに巻き込まれてから
…ということ。
思えばあれは夢だったのか。
そう思いたかった。
何もない日が続けばそれでよかった。
何もない日に文句言いながら
渋々生きるくらいが丁度いい。
だが、夢ではなかった。
現に長束は姿を消し、
遺体として発見されることもなく。
嶺は明らかに精神を病み、
関場は関場で詳しいことはわからないが
長束がいなくなって以降時に
クラスの前を訪れることから、
心に大きな傷を負っていることは確か。
そんな状況から一転、今週火曜日から
なんと長束は戻ってきた。
戻ってきて初日、
クラスではお祭り状態。
部活の人やその他の繋がりの人が
一斉に長束の帰還を祝った。
そしてその熱りも昨日ごろには
徐々に冷めていき、
嶺や関場、長束など皆
本当に何にも無かったように
私の周りは動いていた。
あぁ、でも長束だけは
授業の内容が分からないと言って
大騒ぎしていたか。
近くにある関係の人からノートなり
プリントなりを借りて
多量の文字を書いていたのを思い出す。
休み時間も取り組んでいたものだから
根は真面目なのだろうということと、
相当な量なのだろうということは
薄々感じていた。
2ヶ月もあればそりゃそうなるか。
何もない、ただただ平和な日々が
戻ってきていたのだ。
…何にも変わらなかった。
4月の頃と、なんら変わらない日々が
手元に戻ってきたのだ。
…ただ、1つを除いては。
花奏「ーー?ーーーーー、ーーーー?」
…そう。
小津町が私のクラスに足を運ぶように
なったことを除いては。
小津町は近くにいた私のクラスメイトに
何かを聞いているようで。
絶対に私の席を聞いている。
無意識に溜息が出た。
濁った息はマスクによって漉され、
僅かに開かれた窓から風が吹き
すうっと教室に散布していった。
「ー、ーー。ーーーーーー。」
花奏「ーーーー、ーーーーー!」
周りがざわざわとしだす。
目に見えてと言うほどではないが、
教室の隅やら小津町の近くやらの
面倒くさい女子が
何やらひそひそと囀っていた。
1年が敬語もなしに話しているのもそう、
3年の教室にずかずか入るのもそう、
今まで人との関わりを絶ってた私に
急に絡んでる奴がいるって
思われているのもそう。
なのに小津町は微塵も気にすることなく。
そして頬杖をする私の前に
ポニーテールの毛先が揺れる。
目だけを動かして見上げると
にかにかとあの笑顔。
花奏「おはよ、歩さん。」
歩「…。」
花奏「席替えしたんやね。ぱっと見てわからへんかったわ。」
歩「…うざ。」
花奏「もー、そんなブルーな顔してると気持ちがしけるで?」
歩「煩い、帰って。」
花奏「いいやん、ちょっとくらい。いつも通りくらいはここいるで。」
教室が静かになることはなく、
喧騒はいちいち私の耳に届いた。
私の動向を伺うように
こちらをちらと見る奴もいた。
鬱陶しい。
そう素直に思う。
ただ、こんな日常も始まって
1ヶ月程経るからか、
視線は当初に比べて少なくはなっている。
あのレクリエーションの件は終わった。
もう終わったの。
あれ以上私達が関わる理由はない。
私が人と関わらないってスタンスを
ずっと守ってきた。
…。
…。
…先日あった裏山のことは例外として。
…。
私はそのスタンスを貫くと
心の中で誓っていた。
なのにこいつは全部壊してく。
もう人と関わる理由はない。
関わる利がない。
意味がない。
どうせ裏切られて終わりだろう。
信用するだけ無駄なのだ。
花奏「なーなー、最近元気してる?」
歩「…。」
花奏「あれ、歩さーん。」
歩「ほぼ毎日ここに来てんでしょうが。」
花奏「あはは、まあね。」
歩「…。」
花奏「その様子やと今日も元気そうで何より。」
喧しい。
なんで私に関わるの。
長束の方をちらと見ると、
こちらを気にする暇もないようで
ずっとペンを動かしている。
その真剣な目つきを見ているだけだと
優等生にも見えるのだが。
花奏「なぁ、放課後時間ある?」
歩「…はぁ。」
花奏「沈黙は了承とみなすで?」
歩「ない。」
花奏「よし、あるってことで。放課後教室に行くから待っててな。」
歩「は?」
花奏「だって歩さん帰宅部やろ?」
歩「今日バイト。」
花奏「ほんまに?私と居るのが嫌なだけちゃうん?」
歩「両方。」
花奏「そうかー。ならしゃあないなぁ。」
不意に舌打ちが流れ出るも
目の前のこいつは気にも留めない。
なんなら周りの同級生が
気にしている始末。
それ以降も小津町は
話しかけてくるものだから
適当に返していると
いつの間にか時間が来たようで、
あいつはぎりぎりまでここにいた後
すぐに戻って行った。
入れ違いで担任の先生が
入ってくる。
はぁ。
もういつもの日々に戻ったと思ったのに。
まだ、異常は続きそうだって思って
また頬杖とともに溜息が居候してた。
適当に授業を受けて
適当に昼休みを過ごす。
歩「…はぁ。」
志望校すら決まっていない私は
受験だ受験だと急かされても
全然焦る気にすらならなかった。
きっと私は専門学校に行くんだろうなと
ぼんやり考えるのみ。
母親が美容師をしていたものだから
自然とその姿は幼少期から見ていて、
いつか自分もああなるのだと
思うようになっていったっけ。
そしたら自然と進路は
決まってるようなものになっていった。
両親は好きなところに行けと
自由にさせてくれているから
存分その言葉に甘えようと思う。
思えばうちの家の教育方針は
大変驚くほど自由だった。
好きなようにやれ、
ただし人様に迷惑をかけるな。
子供の頃だなんて、
大人からの救助がなければ
やられたらやり返せだなんて
言っていたほどだ。
流石にその言い分は
子供ながらに疑問符が浮かんで
あまり実行はしなかったけれど。
…多分。
ほんと、好きなようにさせてもらってる。
バイトだって掛け持ちさせてくれた。
片方は本屋、もう片方は居酒屋。
それなのに、私がいいと思ったんだったら
それでいいと言うのだ。
なんならその居酒屋に
稀に遊びに来る始末。
それに、1人暮らしだってそうだ。
高校に入る前まで
引っ越しが続いていたので、
高校からは定住したいという思いが募り
行ってみたらまさかの快諾。
高校から今住んでいる場所に
1人暮らしを始めたのだが、
何とその翌年あたり、
家族が神奈川の方へと引っ越してきた。
理由は当たり前のように
父親の転勤だった。
それでも、一緒に住むという選択肢を取らず
1人暮らしのままがいいと伝えたら
よしとしてくれた。
寧ろ裏があるのではないかと思うほど
自由だったのだ。
そして、教育方針同様家族も自由なもんで、
お母さんは神奈川に積み続ける意思なのか
突如床屋を開いた。
美容院じゃなかったのには
きっと費用的な理由があったんだろうなとは
察しがついていた。
ある日実家に行ってみれば
3色のカラーがぐるぐふと回る
ポールを立てているものだから驚いた。
家をそのままお店にしたらしく、
観葉植物が丁寧に並べられていて。
お父さんだって自由人。
気が向けば突如として
山に登ったり写真を撮りに行ったりしている。
もう歳なんだから気をつけてと言っても
中々聞き入れてくれないあたり、
誰よりも少年なのだと思う。
そして、数年に1回は大怪我をするのだ。
ほれみたことかと茶化すのだが、
今回はたまたまだというばかりで。
それから兄妹だってそう。
下に1人おり、そいつは
自分の好きな格好を貫き通しているし、
バイトして頑張って貯めたお金で
化粧水とか何やら品を買い揃えている。
私以上に化粧だとかファッションに詳しく
自由に自分を着飾っている。
それを見るにものすごく楽しいようで。
私は無彩色、特に黒が好きだから
そんなピンクだとかいう服の組み合わせは
本当に分からないけれど。
でも、本人が楽しいならそれでいいや。
歩「…あ。」
と。
脳内で1人で噂をしていれば
その姿が目に入った。
廊下を歩いているだけでも
随分と目立つ姿。
移動教室中だったが、
少し話しかけるくらいの
時間の猶予はあるだろう。
身長の小さいながらに
歩幅を広めて競歩する。
そして、軽く袖を引っ張るのだ。
刹那、スカートがゆらりと揺れた。
「わっ!」
歩「よ。」
声を上げたと同時に
こちらを振り向いた人。
それが私の兄妹、こころだった。
こころ「何々、びっくりしたぁー。」
歩「用事はないけど。」
こころ「珍しい、そんなこともあるんだ。」
歩「気が向いた。」
こころ「へぇ〜?何か悩み事でもあったの〜?」
歩「にやにやするな気持ち悪い。」
軽く腕を叩いてやる。
本当ならば頭でも
しばいてやりたいくらいなのだが、
何せこころは身長が170cmはある。
届くには届くのだが、
そこまで労力を使ってまで
叩こうとは思わなかった。
思えば、小津町とどちらが高いのだろうか。
同じくらいだろうか。
どうでもいいけれど、こんな話。
ふんわりと肩下まで伸びる髪の毛が
風に靡いたのか揺れていた。
夏前なもので、こころも私も
半袖の制服を身につけていた。
こころのすらっとした白く細い腕が
肌に気を遣っていると主張してくる。
こころ「わ、もー、あぶなーい。」
歩「あんたが悪い。」
こころ「酷いひどーい。」
歩「うるさ。」
こころ「そういえば今度いつ帰ってくるの?」
歩「あー…。」
こころ「あ、その様子、きっかけがないと帰らない感じだ。」
歩「いつかは帰る。」
こころ「なにそれー。」
歩「分かった分かった、夏休み始まる前とか1回帰るから。」
こころ「はぁーい。りょーかい。」
歩「言質取ってこいとでも言われたんでしょ。」
こころ「せーいかーい!LINEで言っても既読無視するしさぁ。」
歩「怠いし。」
こころ「もっと家族に愛情持ってよー。」
歩「はいはい。重い甘さは結構。」
こころ「家族愛だよ家族愛ー。」
歩「もう聞いたから。はい、早く授業にいったいった。」
こころ「話しかけておいてそれー?」
文句を垂れているけれど、
どうやら楽しそうに目を細めてはいる。
それを見て、とりあえずこころも
楽しそうには過ごしているみたいだった。
思い詰めすぎていることも
一見はなさそうに見える。
それならいいかと手放すように
背中を押してやった。
こころは何やらぶーたれながら
教室の方へと戻っていく。
そして私も授業のある教室へと
早歩きで向かった。
思っている以上に話してしまっていたらしい。
時間はあっという間に過ぎてゆく。
そのくせして苦いものばかり
落としてゆくものだから
心底うんざりしていた。
ちらと数人が私らのことを窺っていたのか
視線を感じたけれど、
結局はいつものことで済まされてしまう。
私ら兄妹は学校では
相当浮いてしまっていた。
悪い意味で学年では
名が知れていると言ったところ。
お互い、特にこころに至っては
好きなように生きているだけなのに。
そう思うと、小津町がどれほど
周りの人間とは違っているかが
顕著に分かるな。
歩「…あーあ。」
早く冬にならないだろうか。
***
学校が終わってからバイトまでは
なんとも微妙な時間がある。
家に帰るには短いし
すぐ行くには早すぎる。
だからいつもバイトでの制服と
夜中までバイトが長引いた時ように
普段着を所持して学校に来て
放課後時間を潰してた。
荷物が多くて肩が痛くなるのは
もう仕方のないことだと
割り切るほか無かった。
歩「いらっしゃいませ。」
今日は居酒屋のバイト。
昨日は本屋のバイトだったけれど、
そこで面倒な客が来たのを思い出して
うげっと嫌な顔をしてしまう。
嫌な顔は多少表に出ていたかもしれないが
思ったことは口には出してない。
私も流石にそこまで馬鹿じゃない。
そんなことを思い出していると、
ふとバイトでの先輩に声をかけられた。
「三門さん、注文取ってきてもらえる?」
歩「はい、わかりました。」
にしても今日はやたらと
客が多くててんやわんやと
店内を駆けていた。
金曜日だからというのが主な原因だろう。
ビールを運んだりオーダーを受けたり。
そこそこに慣れてきたんだなって
自分で感慨を受けるほど。
この鼻をつく煙草の匂いや
苦ったるいビールの匂いにも慣れた。
店主は思ったより良い方で、
私のことをわりかし早くに家に帰そうと
努めてくださったり、
時々賄いをくれたり。
高校生で1人暮らしをしていたというのも
大いにあるだろうし、
性別的なこともあるのだろう。
その仕事が終わる頃には
もう十一時を回りそうだった。
片付けが長引いてしまったのだ。
帰ったら十一時半だなって
そう目算をつけていて。
歩「…あ。」
冷蔵庫の中を想起して不意に
短く声が漏れた。
何にも入ってないんじゃなかったか。
私服を持ってきていてよかった。
この時間に制服で歩いている人は少ないし、
犯罪にだって巻き込まれる可能性が
高いような気がしている。
性別的なことは変えられないから
あまり変化ないのかも知れないけれど。
今から何か買いに行って
食べる元気はあるかと問われると、
そんな元気はないと答える。
明日の朝まで我慢しよう。
夜中の散歩の方が好きだけれど、
想像以上に疲れは溜まっているようで。
そうぐるぐる思考して、
今日は帰ろうと呆気なく思ったのだった。
歩「お疲れ様です。」
夜になり、店の灯りは
夜道をてらてらさせる。
店主が道の表まで出てくださって、
気をつけて、と一言かけられた。
一礼していつものように帰る。
今日は店に人が多かったのもあって
帰るのはいつもより遅いし
賄いは今回はなしでと言われた。
賄いについては毎回頼んでないけれど
いつも気にかけてくれる。
感謝の意は持つようにしてる。
でも、それ以上何もない。
あくまでビジネスとしての関係だった。
歩「…あっつ。」
夜だというのに生暖かい風が
顔面を覆うように流れてくる。
今日は風が強いこともあってか
髪が暴れるように靡いている。
少し前まで足元から冷気が歩み寄ってきて
ぴたりと私の芯に沿って
体全体を冷却していたのに、
梅雨入りだと報道されたあたりからは
その面影など消え失せた。
夜中なだけあって人通りは
既に少なくなっていて、
いつもならもう少し多いのにと
多少恨めしく思うほど。
数駅分電車に揺られ、
そこから徒歩で。
暗い夜道とは知らずのうちに
仲良くなっていた。
1人暮らしを初めてすぐの頃、
それこそ高校1年の頃は
夜中の散歩にあまり興味がなくて
夜の世界を知ろうとはしていなかった。
けど、バイトというきっかけがあり
夜を歩くようになって
悪くもないんじゃないかなって
思えるようになったのだ。
もちろん、悪そうな人らがいない
そこそこ明るいところは
通るようにはしてる。
偉いんじゃなくって面倒なことが嫌なだけ。
少しの間、生温い空気と共に移動していると
不意に見えてくる私の住むアパート。
3階建てで2箇所に階段、
そして何個かの扉。
ぼちぼちと光は点っているが、
既に消えているところもある。
夜だから妥当だろう。
もう眠っているのだろうか。
そうぼんやり思ってた。
誰かが家で待ってるって
どんな気持ちだったっけ。
遠く霞んで見えなくなっていることに
今更ながら気づいてしまった。
…かつん、かつん。
足裏とコンクリートの階段が
へばってしまう。
今日はさっさと横になろう。
眠れなくとも、休んでしまおう。
たまにはそういうことをしたっていいや。
そして上りきる頃。
歩「……?」
不意に見えた人影。
誰かがいる。
いたのだ。
私の家の前のところから空を見てる。
…そういうことなら自分の部屋の
バルコニーとかでやって欲しい。
夜空を見たかっただけなのだろう。
うざいだなんて簡単な言葉ばかり
脳裏をよぎっていくのだ。
…あれ。
でもあの人…。
ぼうっとしてた時、
その人はこっちを振り返ってた。
…。
歩「……は?」
それが第1の感想。
純粋にそう、疑問符が浮かぶ。
花奏「…あ、歩さん!おかえりー。」
歩「…は?なんで…。」
なんで私の家の前にいるのか。
しかも今の時間は夜中であって、
道では人通りすら疎なのに。
なのに何故、小津町がここにいるか。
素直に気持ち悪いという
感情が湧き出てくる。
小津町は家に戻っていないのか
制服のままだしカバンも傍にあり、
そこには何かを入れた
ビニール袋もあった。
花奏「なんで、かぁ…ま、それは中に入ってから話すから。」
歩「中って…」
花奏「歩さんち。」
歩「ふざけないで!大体、なんでここが分かったわけ。」
花奏「あー…それは…」
歩「何。」
花奏「…別に、今言わへんでも」
歩「気持ち悪い。大概にして!」
つい声を荒げてしまうけれど…
…でも仕方のない事だと思う。
こんな勝手されて何にも言わないなんて
できる訳がない。
だって、住所のかけらすら
こいつの前では口走ったことないのに
何故、何故。
暑い。
そうだ。
今はもう夏、か。
花奏「…ふざけてなんかないねんで。」
歩「行動全部ふざけてる、ほんとやめて。」
…そう言っても、小津町の視線の強さは
揺るがず私の目を見据える。
何かを訴えるように。
訳がわからない。
なんなのこいつ。
私の平穏を全部、全部壊してくる。
刹那、きりりと
金属音が耳に鳴り響いた。
ドアの立て付けの悪い隣の家の音。
それに気づいた瞬間には
もう遅かったのだ。
「…どうしたの?」
歩「…れ」
…急に後ろから声がしたことに
ぎょっとして後ろを勢いよく振り返る。
聞き覚えがある気のする
歳を取った女性の声が
そっと背中を撫でるように
穏やかに刺さる。
そこにはお隣さんがいたのだ。
眠るまでだったのか
可愛らしいパジャマを身につけている。
歩「えっと……細谷さん…。」
…だったと思う。
確か、だが。
細谷「どうも、こんばんは。」
花奏「こんばんは、おばあちゃん。」
細谷「おぉ、元気がいいねぇ。」
花奏「えへへ、ありがとうございます。」
歩「こんばんは。騒いでしまってすみません…。」
細谷「いいのよ。仲良くねぇ。今夜は冷えるわね、今から帰るのかしら?」
歩「はい、そうな」
花奏「今来たばかりなんです。」
歩「…は?」
細谷「そうかい。外だと冷えるし、少し家の中に入れてあげなねぇ。」
花奏「そうですね、そうさせてもらおうかなって思ってます。」
歩「勝手に言わないでって。」
細谷「うむ。入れてもらいなさいな。」
なんて勝手なことを言うんだろう。
細谷さんもこいつも皆、
何故勝手に意見を…。
…。
…はぁ。
これまでの私もそうか。
一瞬内省しつつも
小津町の意見を推しちゃ駄目だと
すぐさま訴えかける。
そうする以外選択肢が
なくなっていくことが目に見えている。
花奏「じゃ、歩さん行こ?」
歩「…ちっ…。」
ものすごく小さく、
細谷さんには聞こえないよう舌打ちした。
仕方なくカバンから鍵を取り出すも
ほんとここまで鍵を
差し込みたくないことがあっただろうか。
細谷さんはにこにことこちらを見てる。
私達が家に入るまで見守るつもりだろう。
初めてお隣さんに腹が立った。
かち。
そうして扉が開くと
真っ暗な空間が待ち受けている。
いつもの風景だった。
花奏「わ、真っ暗…?」
歩「…入るなら早く入って。」
細谷「仲良くねぁ。」
花奏「はい、おやすみなさいおばあちゃん。」
歩「…おやすみなさい。」
細谷「あぁ、おやすみなさい。」
そう言って細谷さんは
すんなりと自らの家に戻っていった。
…私達の話し声で純粋に気になって
出てきただけなんだなと改めて思う。
特に散歩がてら外に出たら
私達がいた、とかじゃないってこと。
ほんとお節介。
過保護だってどうしようもなく
理解して溜息と靄が募る。
花奏「ええお隣さんやね。」
歩「いいから入れって。それか帰今からさっさと帰る?」
花奏「はいはい。お邪魔しまーす。」
歩「…。」
なんでこんなことになっているのか
全く理解できない。
家は私達が入るまで
からんと空白に塗れていた部屋は
私達が足を踏み入れたことで
じわっと温暖が広がる。
…1人暮らししてもう3年目。
私はこの生活に慣れてきてはいるけれど
小津町からしたら
驚きだったのかなんなのか、
不思議そうな顔をしてた。
1人暮らしだからその分部屋も狭い。
ワンルームって言うんだっけ、
部屋1つと、短い廊下にキッチン、
その反対側にユニットバス。
それだけの部屋。
この家に引っ越してきてから
家族を除いて誰かを入れるのは
初めてだった。
かち。
無機質を押すと明かりが漏れる。
カーテンを閉めていないのもあって
外からはここの部屋だけ煌々と
目に映るだろう。
靴を脱いでカーテンを
しゃらしゃらという音と共に閉鎖。
カバンは部屋の隅に置かせて、
洗面所で手を洗って、
それから話を聞こうと思った。
小津町は何故か声を発さなくなって
部屋をぐるぐると見回すだけだった。
きゅっと水道を閉める頃、
月は既に沈む軌道に
入ってしまっているだろう。
動くことのない煌々とした目が
壁に向けて視線を送っている。
その頭はいくつもあるけれど、
私はその生活に慣れきっていて
側から見れば狂気の沙汰
ということさえ忘れていた。
花奏「ひっ…な、なにこれ。」
歩「あー、マネキンの頭。」
私の部屋…と言ってもワンルームだけど…
そこには幾らかのマネキンの頭が
雑多に飾られてある。
ファッションで飾ってるわけじゃない。
もしそんな奴がいたら
あり得ないセンスをしてるし
馬鹿馬鹿しいの一言に尽きる。
マネキンらはどの頭にも
手入れの行き届いた鬘が被せられてた。
そのマネキンの近くに
両手で持てるほどの大きさの
淡白な箱が置いてある。
これだって日常の風景だった。
花奏「なんでそんなもの持ってんの、にしても数が多すぎるやろ。六…七個…?」
歩「なんでって必要だからに決まってんでしょ。」
花奏「え、歩さんってそういう趣味…?」
歩「な訳があるか馬鹿。」
花奏「って言ったってさ…。………?」
歩「…?…何。」
花奏「めちゃくちゃ丁寧に扱われとるね、髪。」
そう言って彼女は頭の並ぶ棚上から
視線を外すことなくじっと見つめてる。
けれど展示品の如く触ることはなく、
ただただ近くに行って
目をしばしばさせながら
見つめているだけだった。
それから部屋を見渡しに戻る彼女。
花奏「部屋も綺麗にしてるんやね。」
歩「いいから適当に座って。」
花奏「え?あ、うん。」
そう生返事が聞こえたと思ったら
彼女は丸いローテーブルの近くに
正座で座ってた。
緊張でもしてるんだろうか。
ここまで来ておいて。
歩「何その余所余所しさは。」
花奏「えっとな…歩さん、1人暮らしやったんやなって。」
歩「そうだけど。」
花奏「じゃあ、帰りが遅かったのは」
歩「バイト。」
そういっても返事がなく、
横目で確認してみれば
小津町はまだ部屋を見渡して
黙りこくってたっけ。
先に匂いのついたバイトの制服を
水に浸すことはやっておきたくて
小津町を放ってその作業に入る。
数分して戻ってもその場を動かず
姿勢もそのままだった。
人が来た時…昔、どうしてたっけ。
小学生の頃の記憶を
必死に辿ってみても
何も思い浮かばない。
否、何も浮かばないは嘘か。
°°°°°
美月「…帰らなきゃ。」
歩「え。」
美月「門限…」
歩「でも帰りたくないんでしょ…?」
美月「…。」
歩「ちょっと待ってて。」
美月「…?」
---
歩「みーちゃん!」
美月「何?」
歩「今日、泊まってもいいって!」
美月「え、泊まっ…?」
歩「そう!お泊まり会しようよ。」
美月「でも私…何も持ってきてないし、それに…」
歩「帰りたくないんでしょ?」
美月「…!」
歩「大丈夫、私の服貸すよ。」
美月「なんでここまでしてくれるの。」
歩「だって、みーちゃんが本当の友達だから。」
°°°°°
…あぁ。
余計なことを思い出した。
歩「…ちっ…。」
本当に腹が立つ。
思い通りに行かないことと言ってしまえば
随分と子供のように聞こえるけれど。
徐にコップを2つ取り出す。
1つは私用、もう1つは客人用。
どうして客人用があったか
思い返してみること数年、
それは確か1人暮らしするとなった時
親に持っておいた方がいいと言われて
渋々持ってきたものだっけ。
水しかなかったもので、
そこに氷をいれてテーブルに置くの。
氷はコップを置くときの振動で
からんと空い音を立ててた。
花奏「そんなええんに。」
歩「ただの水だけど。」
花奏「優しいやん。ありがとね、歩さん。」
そういうと小津町はコップを
手に取って少し口につけていて。
夏のように感じた。
私は…後ででいいやと思って
テーブルに放置してしまう。
花奏「ごめんな。」
歩「何が。」
花奏「さっきも舌打ちしてたし、何の連絡もなしにきたんは悪かったなって思ってるんよ。」
歩「あー…舌打ちは半分あんたのせいだけど半分は別。」
花奏「…半分は私やん。」
歩「そ、あんたのせい。」
花奏「傷ついたわ。」
歩「言ってろ。」
口は動かしてはいるものの
どうもぎこちない時間が過ぎるもので。
私も足が疲れたし
とりあえずは対面するように
小津町の向かい側に座る。
座ると、いつも間にか動転していたのも
だんだんと落ち着いてきて、
思えば聞きたいことがたくさんある事を
思い出してた。
花奏「…疲れてるところ無理矢理お邪魔してごめん。」
歩「無理矢理なのはいつもでしょうが。」
花奏「でも、1人暮らしやった事とかこんな時間まで働いてたこととか知らへんくて。」
歩「もういいから。…ってか私が実家暮らしだったとしても家に帰る入ろうとしてた訳?」
花奏「うーん、そん時はそん時や。家の前で話すくらいにしてたかも。」
歩「…完全に細谷さんに背中押されたのが決定打でしょ。」
花奏「あはは、まぁね。」
例え実家暮らしだったとしても
細谷さんと会ってたら
結局家には上がらせてたのかも。
お隣さんは何て助言を
してしまったんだろう。
頭が痛くなってくる。
歩「…ってか、どうやって私の家を知ったの。」
花奏「あー…それはー…。」
歩「歯切れが悪いみたいだけど?」
花奏「ま、裏ルート的なさ、あるやん。」
歩「尾行?」
花奏「尾行してんのやったら歩さんより先に家に着いて待ってるのは無理やろ。」
歩「確かに。…尾行でもないのにわかった訳?私のクラスの人とかは知らないはずだけど。」
クラスの人らはもちろんのこと、
一年生の例のあいつも知らないはず。
…。
まさかね。
花奏「ま、ええやん、そんな深追いせんで」
歩「だ、れ、って聞いてんの。」
花奏「…聞いて追い出さへん?」
歩「聞こうが聞かまいが追い出す。」
花奏「えー、折角これこうてきたんに。」
そう言って近くにあった
レジ袋を鳴らすのだが、
不透明な袋のせいで
何が入っているかまではまるで
見当もつかなかった。
歩「どうでもいいから。誰。」
花奏「えーっと…先生…からやな。」
歩「…先生?」
帰ってきた言葉はあまりにも突飛なもので
拍子抜けしてしまう。
先生が私の住所を他の生徒に
ぬけぬけと教えたってこと?
何やってんの教師って。
あり得ない。
そう、毒がどんどんと吐き出されてゆくが
口には全てを出さないようにと
唱え続けているのだった。
歩「先生ってそんな簡単に個人情報を開示しちゃう訳ね。」
花奏「聞いたら教えてくれてな。」
歩「嘘つけ。」
花奏「ほんまに」
歩「なら週明けに先生に聞いて回るけど?小津町って人が住所聞いてきましたかって。」
花奏「…それは…困るねんけど。」
歩「あんたはいっつもそう。一旦嘘をつく。」
花奏「…見透かされても困るなぁ。」
歩「そんでもって踏み入れなきゃ答えないし、本当面倒。」
花奏「…。」
歩「まだ話す気にはなんないわけ?」
花奏「ならへん。」
歩「………はぁ…もういい。」
花奏「え。」
歩「もういい、聞かない。聞かないから出てって。」
花奏「えー、待ってや。」
歩「来ないで、邪魔。」
花奏「そんなぁ、毎日学校ではもう少し近いやん。」
歩「迷惑なの。」
花奏「相変わらず冷たい…。」
歩「家にあげてるだけ優しい方だと思うけど。」
花奏「あはは、それもそうやんね。
そう、呑気な声。
絶対私の言葉は彼女の耳を
貫通してそのまま通り抜ける。
というより、何でこいつと2人で
私の家にいるんだっけ。
本題を忘れかけていたことを
はっとして思い出す。
歩「どうやってここにきたのかは聞くのは諦める。」
花奏「うん。」
歩「で。それはいいとして結局何の用事でここまで来たの。」
花奏「あー…一緒に夜ご飯食べようと思って。」
かさかさ。
そんな喧騒を鳴らして
持ってきていたビニール袋を
持ち上げてこっちに見せてくる。
小津町は机の上に
丁寧に並べて見せてくるの。
近場のコンビニで買ったものなのか、
袋に入ったキャベツにハンバーグ、
あと米とお茶。
バランスはやたらといいことだけは
ぱっと見で分かった。
そして、キャベツ以外は2つずつ
用意されていて、こいつもここで
食べていく気だということも分かる。
既に時計の針は日付を越えようと
必死に蠢いていて。
歩「こんな時間だけど。」
花奏「歩さんがバイトやって知らんかったもん、予定なら8時くらいには食べとったんやけどね。」
歩「はいはい。んで、何。あんたもここで食べてくの?」
花奏「いいん?」
歩「やっぱ帰れ。」
花奏「えー頼むよ、歩さん。」
歩「はぁ?人の家に無理矢理上がり込んだ挙句ご飯まで食べてくのはないでしょ。」
花奏「入るなら入れって言ったの歩さんやん…。」
歩「何。」
花奏「ううん何にもー。私お腹すいたなー、ってことで今はお願いやて。」
手を合わせて、お願い、と
潔く頼み込んでくる。
何でそんなことを…
……そう思ってふと時計を見る。
…日付を、超えそう。
小津町は夜食べてないままなのだろうか。
制服のままだし、
通学カバンだって持ったまんま。
そしたら昼以降食べてないことになるし、
お菓子を買ってたならまだしも。
歩「…あんた、家には?」
花奏「ん?帰ったかってこと?」
歩「そう。」
花奏「学校から直でここきたで。」
歩「家に連絡は?」
花奏「さすがにしてるで。なんや、保護者みたいやな。」
歩「うっさい黙って。」
花奏「ちぇー。」
歩「あと、この机の上にあるもの以外で買ったものってある?」
花奏「え、買ったもの?ないで。そこにレシートあるやろ?」
小津町が指さしたのは
孤独に落ちたビニール袋。
中にはぽつんとレシートがあった。
ゴミと一緒に捨てるつもりだったんだろう。
それを拾い上げてみると、
本当に机の上にあるもの以外
買ったものはない。
花奏「私が先駆けして食べてるんと思ったんー?」
歩「…はぁ。」
どうしてこいつはここまでして
私にとっついてくるのだろうか。
不思議だった。
ほんとにうざいと思いつつも
完全に突っぱねることはできずにいる。
それは私の心構えがまだ甘いって
ことなのかもしれない。
とにかく、今回こんな夜中まで
ご飯をお預け状態にしてしまったのは
1割ぐらいは私のせいな気がして、
そのまま返すのも気が引けた。
丁寧に置かれたものをがさつに
手にとっていく。
ハンバーグと米。
長い間外にいたのだろう、
もうだいぶ温くなってた。
それからお皿を適当に取り出して。
花奏「…!いいん…?」
歩「このまま帰るの、嫌なんじゃないの。」
花奏「ありがとう、歩さん!」
多分とても笑顔なんだろう。
想像にた易い。
でも顔を見ることはせず
電子レンジへと放り込む。
その時、側に見えたポニーテール。
小津町がこっちに来ているようだった。
ちらと様子を伺うと、
腕まで捲っていて何やらやる気の様。
花奏「なんか手伝えることある?」
歩「迷惑だから座ってて。」
花奏「あ、このお皿って使って大丈夫?」
歩「話聞いてた?」
花奏「うん。歩さんが出したお皿ってハンバーグ用やろ?」
歩「そ。」
花奏「ほら、キャベツ用にって思って。あとは…ドレッシングって冷蔵庫よな?」
歩「勝手にしないでもらいたいんだけど?」
花奏「心配せんでも大丈夫や、そんなぐちゃぐちゃにはせんよ。」
歩「嫌って言ってんの。」
花奏「頼ってや、こんぐらいのことやしさ。」
ごぉーっていう電子レンジの鳴き声が
私達の会話を一旦止めてくる。
そこでまた思い知る。
私の家に、私以外の人間がいるって。
とた、と冷蔵庫の扉が開く。
別に冷蔵庫を見られて
恥ずかしいとかいう感情は
全く持ってないけれど。
けれど、パーソナルスペースが
なきもの同様になっていくのが
嫌なだけだった。
…。
そのはずだ。
小津町はじっとしていられないのだろうか。
ハンバーグと米を温めていると
冷蔵庫を開くためにしゃがんでいる
小津町の声が聞こえる。
花奏「お、あった。青紫蘇ドレッシング…これであっとる?」
歩「ん。」
花奏「よかった。…なぁ、歩さん。私が今日来てなかったら夜ご飯食べんつもりやったろ?」
歩「何で?」
花奏「冷蔵庫、調味料くらいしか入ってたかったから。」
歩「あそ。」
花奏「さてはバイト遅くなったからいいやって感じになったなー?」
歩「どうでもいいでしょ。」
花奏「んなことないよ。ちゃんと食べんと体調悪なるでー?」
歩「そうなる前に食べてる。」
花奏「ちゃんと3食食べや?」
歩「ほんと、保護者はどっち。」
花奏「保護者というよりは…栄養士的な視点からやない?」
歩「うるさ。」
きりれ。
きりれ。
変な音のなる機械だと思うことは
もうなくなっていた。
さっと電子レンジから取り出して
簡単に皿に盛り付ける。
机に戻ると、仕事が早いことに
既にキャベツが盛られた皿があり、
ドレッシングも置いてある。
花奏「うーん、いい匂いやー!」
歩「あんま煩くしないで、夜中だし。」
花奏「あはは、ごめんごめん。嬉しくなっちゃって。」
歩「ここが木造の家じゃなくてよかった。」
花奏「ほんとやね。ほら、はよ食べようや。」
座ってと催促される。
ここは私の家のはずなのにね。
コンビニでこれらを買った時に
ついてきたであろう割り箸を取り出して
ぱきっと割る、その音声。
それが、2つ。
花奏「いただきまーす!」
歩「…いただきます。」
……変な感覚だった。
いつもは1人 が当たり前で
疑問すら抱くことはなかった。
それこそマネキンの頭が並ぶ中
何にも気にせず過ごしてきた。
それに、家族が来たのは
引越しの手伝いの時以降は
年に1回あるかどうか。
多くは私の方から実家に帰っていた。
だからなのだろうか。
家の中で2人で食べるご飯が
異様に見えた。
いい意味なのかなんて、
私には判断出来ないの。
花奏「んんー、ハンバーグあったかぁ!身に染みるわ…そして美味しい!」
歩「…。」
花奏「ね、そう思わへん?」
歩「…ん。」
花奏「あれ、反応薄いやん。」
歩「大体いつもこんな感じでしょうが。」
花奏「あはは、そうやったかも。」
歩「あんた、いつもこんなに煩くして食べてんの?」
花奏「どうやろ、でも美味しい美味しいって無意識に言ってるかもしれへん。」
歩「何それ。」
花奏「だって本当のことやし。逆に歩さんは静かに食べてるん?」
歩「独り言言いながら食べるのは頭おかしいでしょ。」
花奏「不思議ちゃんではあるなぁ。テレビもつけんの?」
歩「偶につけるくらい。」
花奏「そうなんや。ドラマとか見るん?」
歩「ニュースだけ。」
花奏「あ、私と一緒やん。」
歩「そ。」
花奏「意外やった?」
歩「ま、ちょっとは。」
花奏「えへへ。テレビとか全然分からんくってさ、去年特に見てないし。」
歩「受験でってこと?」
花奏「そうそう。」
歩「随分と熱心なことで。」
花奏「それまでを頑張ってこなかった分つけが回ったんや。それを戻すのに精一杯…って感じかな。」
歩「ふーん…。」
花奏「でも、そっかぁ。」
歩「何が。」
花奏「歩さん、1人暮らしかぁ。」
歩「しみじみ言わないで気持ち悪い。」
花奏「だって高3になってから急に家を出たなんて考えづらいし…普通に考えたら高1からやろ?」
歩「そう。」
花奏「高一から1人暮らしかぁ…。」
歩「今のあんたくらいの時にはここにいるって感じ。」
花奏「ん、あぁ…そっか。…んじゃ、私だって今からしようと思えば」
歩「あんたには無理。」
花奏「えー、何でやー!」
今日のご飯は、やけに箸が進むのが遅い。
こんなのはいつぶりだっけ。
どれだけ想起しても、
家族と以外ではなかなか思い出せない。
…それこそ。
それこそ、あいつ………くらいだろう。
°°°°°
美月「歩ねえ歩ねえ!」
歩「うん!」
美月「ここ、ここにしようよ、毎日ここに来よう!」
歩「それめちゃくちゃいいね!」
美月「でしょ、それでね、秘密基地を作ろう!」
歩「秘密基地…!」
美月「そう、私と歩ねえだけの秘密基地!」
°°°°°
…嫌なことを思い出した。
嫌なことばかり思い出す。
それは、友達に酷似した存在が
久しく目の前に存在しているから。
あいつ以来の出来事だから。
かっ、と米をかきこんでた。
食事中も小津町は
ずっと話しかけてくるもので
適当に遇らっても意味なくて。
こいつには絶対
1人暮らしは無理だなって
確信してる自分がいた。
気づけば食べ終わっていた。
こんなこと、今までなかったのに。
流石に食べてる時の記憶くらい
あったのに。
時間が早く過ぎる様に感じるのは
楽しいと思ってるってことだって
テレビか何かで見た。
ちょっと悔しかった。
花奏「ご馳走様!これ、洗って捨てとけばいい?」
歩「私がするからいい。」
花奏「もー、洗ったり捨てたりするくらいやるって。家上がらせてもらったんやしさ。」
歩「…そ。」
花奏「うむ、素直でよろしい。」
私が持っていたお皿や空になった容器を
すいすいと取っていく。
それから、私の水道代とかを
多少は気にしてるのか
洗う時には栓を閉めていた。
…疲れた。
まず思ったのはそれだった。
またテーブルのあたりで座り込む。
背をベッドに預けると、
きしぃと居心地が悪そうに音を立てた。
…他人の香り。
ほんと、不思議。
小津町とはほぼ顔を合わせていた
…と言うよりかは顔を合わせられていたし
香りだってマスクをしていても
届いてくる日はあった。
他人の香りなんて早々気にならないのだが、
毎日となるとそうでもないのかもしれない。
段々と覚えつつあるのだろうか。
本当に嫌だと思う。
そう思うように暗示をする。
するしかなかった。
距離を経て上から声がする。
花奏「洗ったお皿、元の場所に戻しとくで。」
歩「覚えてんの?」
花奏「ま、大体は。違ったらごめんな。」
歩「…そしたら後で直しとくからいい。」
花奏「ん、分かった。」
しゃー、と水の音。
真夜中に響く水音は
何故だかとても落ち着いていた。
時計の針はいつの間にか
1時へと近づい…
歩「…え、あんたそういえばさ…。」
花奏「ん、どうしたん?」
歩「えっと…ここまでどうやってきたわけ?」
花奏「学校からなら電車しかないやろ。」
歩「じゃあ質問変える。…あんたって家この辺り?」
花奏「あー…。」
歩「何そのあーって。」
花奏「聞いちゃうかーって思ってな。」
歩「…?」
花奏「ま、本当のこと言うんならここからはだいぶ遠いな。」
歩「…そ。」
花奏「そもそも歩さんの家、学校から離れすぎなんよ。」
歩「あんた、家はどこの方なの。」
花奏「えー、言わないかへん?」
歩「住所を知ったルートは聞かないであげたんだけど?」
花奏「それもそうかぁ。せやな、学校を中心として歩さんの家とは反対方向に少し、くらい。」
歩「真逆の方なのになんでわざわざ。」
花奏「だーかーら、一緒に夜ご飯食べたくって。」
歩「意味分からな。」
花奏「ま、ええやん。」
歩「んで、1時近いけど帰りは?」
花奏「あ…電車ってもうないか。」
歩「さぁ。」
こんな遅くまでここにいて
家の人とか心配しないのだろうか。
さっきの話の脈略からして
小津町は1人暮らしではないわけだし。
明日が休日でよかったけれども
流石に夜遊びが過ぎるし、
一応この時間で外を歩くと
法的にもアウトである。
充電器に繋いでいたスマホを
手に取ると、ぷつっと線が離れていく。
起動して時刻表を調べてみると、
0:39のが最後で、次の電車は4:51発。
これが終電を逃すって事かと
ひしひしと感じている。
歩「もう終電ないみたい。」
花奏「流石にそうよな…。」
歩「どーすんの。」
花奏「どうするも何も、あてがあるからその人に泊めてもらうかいな。」
歩「そ。」
確かにこいつのことだし
新学期早々友達なりなんなり
作ったんだろう。
その人はたまたまこの近くだった、とか。
ならやっと面倒事が終わー
花奏「ってことでよろしく、歩さん。」
歩「……は?」
花奏「一晩だけ。」
歩「あてがあるって…私ってこと?」
花奏「うん。この辺に住んでる知り合い、歩さんしかおらへんもん。」
歩「は?ふざけないで。」
花奏「ふざけてへんよ。迷惑はかけんからさ。」
歩「家に上がり込んでる時点で迷惑なの。」
花奏「ま、そう言わずに。」
歩「ほんとやめて。」
花奏「外で寝ろって?補導かかるでそんなん。」
歩「警察来ないから外出て。」
花奏「嫌や、こんな事で停学とか退学なったらほんまに嫌や。」
歩「あんたのことだしクラスの友達とかいんでしょ。」
花奏「おるけど家まで知らへん。それにこんな時間に押しかけて泊めてくれるほどやないし!」
歩「私の家は宿じゃないの。」
花奏「泊めてくれるくらいには仲良くなったんちゃうかなーって思ったんやけど?」
歩「吐き気がするからやめて。」
花奏「そう言わずに!歩さん、お願い…駄目?」
歩「…。」
花奏「分かった、水道代のこと考えてお風呂は控えるしお手洗いは外で済ます、どうや。」
歩「そこまでしなくていい、気持ち悪い。」
花奏「ってことは?」
歩「なんでそうなるの。」
刻々と時間だけは過ぎていく。
明日は休日な上バイトもなし、
久々のオフだったわけだけれど。
それでも嫌だと心が言っている。
泊まり会じみた事になるのは
本当に嫌だけれど、
これで問題になって私の責任になるのも
気が引ける。
面倒。
…両者とも面倒だが、
どちらかというと後者の方が
実際起こった時面倒ではある。
………。
……仕方ない…のか…。
歩「……布団はないから。」
花奏「へ?」
歩「客人用の布団なんてないっつってんの。」
花奏「あ、ありがとう、歩さんっ!」
歩「煩い。」
部屋には小さいテレビと
ベッドとテーブル、あとマネキンの頭。
それ以外だと…クローゼットの中に
少々服が入ってるくらい。
何にもないと形容してもいいような部屋に
何故か彼女が泊まることになった。
歩「…早くお風呂入って。」
花奏「でも」
歩「でもとか言うなら10分で出てこれば。」
花奏「…!…ほんま、素直やないんやから。」
歩「そこにバスタオルあるから勝手に使って。」
花奏「うん、ありがとう。でも、先に歩さん入ってや。」
歩「は?」
花奏「そしたら10分で出てこなくちゃならないっていう時間制限ないしな?」
歩「意味不明。」
花奏「ま、冗談やて。とりあえず私は後でええよ。」
歩「遠慮してんの?あんたらしくない。」
花奏「あれ、気い遣ってくれてるん?」
歩「…ちっ。」
私らしくない。
そう、思った。
いつものようにがさつに
タオルを取ってお風呂に入る。
ユニットバスだから、
洗面所のところで鍵を閉めて。
いつもはこの鍵なんて
そうそう使うことはないんだけれど、
今日は小津町がいることを思い出して
かちっと音を鳴らす。
唯一の安静な場所。
そのはずなのに。
…しゃー…。
そう水が滴る間もー
花奏『お湯加減いい感じー?』
歩「…。」
花奏『あれ…聞こえてへんか……おーい、歩さ』
歩「うっさい、聞こえてるから。近隣の人に迷惑でしょうが。」
鍵をかけたドア越しから
喋りかけてくる。
水の音の方が音源は近いながらも
それに負けず劣らず小津町の声も
ここに響いてくるようだった。
花奏『あはは、ごめんごめん。』
歩「…。」
花奏『今日、ほんまにありがとうな。』
歩「…。」
花奏『……。』
歩「…ねぇ。」
花奏『ん?』
歩「なんで私だったわけ?」
花奏『どういうこと?』
歩「…なんで私にだけこんなに突っかかってくるの。他にも、2、3年や1年の奴もいたでしょ。」
花奏『突っかかってくるなんて言い方の悪い……ま、それは置いといて…だから、なんで私か…って?』
歩「…そ。」
花奏『せやな…ひと言で言うなれば…うーん…。』
別にひと言じゃなくても
簡潔であればいいんだけど。
うーんと言葉を切って以降
誰もいなくなったトンネルのように
深々と静寂が佇んで。
私がお風呂に入ってる音のみが
しばらく踊り狂い続けた後、
ふと、小津町が口を開いてた。
花奏『……恩人だから。』
歩「は?」
花奏『だから、恩人やからやで。』
ぼんやりと思う。
でも、どれだけ考えても
ぱっとくる覚えはなくって。
…いや、ひとつ。
ひとつだけあるか。
…。
私と小津町が初めて
出会った日のことを言っているのだろう。
しばらくお湯にあてられて、
全てを流してくれるような気がしていたのに
今日は、今日だけは何故か
蟠りが抜けていかない。
どうしてなんだろう。
また、疑問だけ漠然と表現して。
花奏『歩さん、いつもこんな時間までバイトしとるん?』
歩「今日は延びただけ。」
花奏『…そっか。』
歩「なんで。」
花奏『だって、学校ある日は朝早くに出んといかんやろうし…ちゃんと寝てるのかなって。』
歩「ほんと心配性すぎ。」
花奏『そりゃ心配するやろ。』
少しばかり真剣味を帯びてた。
何故なのだろう。
いつもならへらへらしながら
あはは、そうなるに決まっとるやろ。
…とかいうはずなのに。
馬鹿馬鹿しい。
そう思う。
そう思ったけど。
……けれど。
花奏『私…歩さんのこと何にも知らんのやもん。』
歩「…。」
花奏『…歩さ』
歩「私、ショートスリーパーなの。」
花奏『へ…?』
歩「だから2時間寝れば平気。」
花奏『はえ、凄いなぁ。』
歩「…。」
花奏『ちょっと…いや、だいぶ羨ましいな。』
歩「え?」
花奏『だってさ、人より時間が多いからたくさん使えるやん?』
歩「いらない、そんなの。」
花奏『…えへへ、歩さんならそういうと思った。』
歩「は?」
花奏『歩さん、後悔はあろうとも真っ直ぐやもん。』
歩「…。」
その声は…
…私にはシャワーの音で
しっかりとは聞き取れなかった。
けれど、何か憂いてるんだなって
何となく感じてしまった。
夜だからだろう、
小津町が大人しく見えた。
きゅっと栓を閉める。
すると途端に体が冷え出すもので、
すぐにタオルに身を包む。
言葉では表しづらい
心地よさと気持ち悪さに包まれて。
ふと思えば彼女の声は止んでいた。
鍵を開けて扉を開けると、
扉付近にはいなくって。
着たばかりの服にだんだんと
体温が染み込んでいく。
部屋を見ると、テーブルの前に座った
小津町がいた。
…何かを持ってる。
それがわかった時、
私は小さく声が出てしまって。
歩「……何それ?」
花奏「ん、歩さんもうお風呂出たん?」
気の抜けたような声を出しているけれど、
目はぎょっとして大きく見開いた後
ゆっくりと戻っていった。
そして、もっていたものを
そっと手で掴みブレザーの
ポケットへとしまい込まれた。
歩「……ん。」
花奏「そっか。」
ぽたぽたと襟に落ちていく滴。
髪を乾かしてないからか、
それともちゃんと拭かなかったからか。
どちらも両方。
…それは間違いなくって。
花奏「ちゃんと髪乾かさな。」
歩「いい。」
花奏「もー、風邪ひ」
歩「それ、何なの?」
花奏「…それは今度な。」
歩「まただんまり?」
花奏「いつか話すわ。」
歩「この言葉、信用できると思ってるわけ?」
花奏「思ってへんで。」
歩「あそ。」
花奏「歩さんに任せる。」
歩「……。」
花奏「そういやあさ、みんな戻ってきてよかったよな。」
歩「あ、話そらした。」
花奏「ええやん少し付き合ってやー。」
歩「面倒。」
花奏「愛咲さんも戻ってきたし羽澄さんも麗香さんもみんな。それに美月も。」
歩「…そーですね。」
花奏「ほら、教室に羽澄さんや麗香さんが見にきてたやん?」
歩「ん。」
花奏「悲しい顔せえへんねんで、みんな。ほんまによかった。」
歩「そーですねー。」
花奏「ほんまに聞いてへんやろ。」
歩「うん。」
花奏「何でそんな無関心やねんー。」
歩「他人だし。」
花奏「じゃあ、私がおらへんくなってもつーんってしてるん?」
歩「つんとしてる気はないけど。」
花奏「してるやん。」
歩「はいはい。」
花奏「んで、どうなん?」
歩「あんたも他人でしょ。はい、この話は終わり。」
花奏「えー寂しいこと言わへんでよー。」
歩「さっさとお風呂入ってきて。」
花奏「はぁーい。」
服はそもそもの話サイズが違うので
どうしようもなかった。
身長差はどうしても埋められない。
小津町がお風呂に入ってる間も
あいつから話を振ってくる上
返事をしなかったら
私が返事を返すまで呼んでくる。
そんな訳で鍵のかかった扉を背に
床に座ることにした。
花奏『いいお湯やねー。』
歩「水道代。」
花奏『はいはい、急ぐから待ってな。』
歩「…。」
律儀。
だけど呑気。
そんな声色は直では見えなくて。
もうそろそろ2時が近づく。
夜中がだんだん更けていく。
夜の世界が深くなる。
そんな、懐疑の闇。
歩「あんたは眠くない訳。」
花奏『任せてや、オールは得意やねん。』
歩「そんなの特技にしても仕方ないでしょ。」
花奏『あはは、そうかも。でも結構3日3晩寝ないで耐久レースとかしたんよ?』
歩「馬鹿なことばっかり。」
花奏『馬鹿は余計やなぁ?』
歩「…。」
花奏『歩さーん。』
歩「何。」
花奏『ありがと。』
歩「気持ち悪い、何突然。」
花奏『えへへ、素直に言っただけ。』
歩「…そ。」
そういえば、夕食代返してないや。
後でしっかり返さないとな。
こつんと、ぼんやり天井を見上げる。
花奏『ふぅー、明日が休みでほんとよかったぁ。』
歩「…もはや今日だけど。」
花奏『あ、そうか。あはは。』
歩「家に突撃なんて聞いたことない。」
花奏『私も初めてした。』
歩「ほんと、いい迷惑。」
花奏『そう言いつつも全部受け入れてくれてるやん?』
歩「そうせざるを得ない状況にしてるのはどこの誰。」
花奏『あー、責任転嫁しようとしとるな?』
歩「9割はあんたが悪い。」
花奏『む…厳しい割合やな。』
歩「あそ。」
そこできゅっと音がする。
もう少し経ったら出てくるだろう。
そう察して私はベッドの方に
重たい腰を上げた後移動してた。
次に見た彼女の姿は、
私と同じように若干濡れた髪、
それに先ほどと同じような格好。
制服のシャツとスカートを
身につけていた。
花奏「いいシャワーやったー、ありがとね。」
歩「ん。」
こうして思うと、
やっぱりこいつは背が高いのもあり
すらっとして見える。
足が長い。
それに出るところは
ちゃんと出てるっていうか。
モデルみたいっていうのが
一番当てはまるかも。
しなやかにしとしとと髪が揺れる。
花奏「歩さん、髪乾かさんの?」
歩「私はすぐ乾くからいいの。」
花奏「そういうこと言ってると髪傷むで?」
歩「はいはい。それよりあんたの方が乾かさなかったら髪傷みそうだけど?」
花奏「ぐ…でも」
歩「使えば。ドライヤー。」
花奏「ええん?」
歩「好きにして。」
花奏「何から何までありがとうな。」
歩「準備せず泊まるって言った時点で大お世話になる事はわかりきってたでしょーが。」
花奏「あ、確かに。」
そう言って洗面所にあった
ドライヤーを取り何故か
私の目につく場所で乾かしはじめた。
変なやつ。
素直にそう思う。
歩「いつもそうやって乾かしてんの?」
花奏「へ?」
少し声を張ったが聞こえていなかったらしく
かちっと電源を切る動作が目に入る。
歩「…いつもそうやって乾かしてるのかって。」
花奏「あー…ん?立ち位置ってこと?」
歩「そ。」
花奏「全然。こんな奇行せんよ。」
歩「はぁ?じゃあなんで。」
花奏「歩さんが近くにいるんやなーって思いたくってさ。」
歩「やめて、馬鹿馬鹿しい、気持ち悪い。」
花奏「あはは、ぼっこぼこに言うやんけ。」
それからまたぶおーっと
風圧に髪が揺れる。
かしゃかしゃと混ぜるように
髪を乾かす彼女。
それが妙にもどかしかった。
暫く眺めてたけど、
どうも気にくわない。
そう思っていたら、
不意に小津町の後ろに立っていた。
それに気づいた彼女は
ドライヤーを切ってこっちをみてたっけ。
髪はまだまだ濡れそぼっていた。
花奏「…?どうしたん?」
歩「ベッドを背に床に座って。」
花奏「へ?急になん」
歩「いいから。あと、ドライヤー貸して。」
花奏「え、あ、うん…?」
小津町は戸惑いながらも
私の言う通りベッドを背もたれにして
床に座ってた。
床には小さなカーペットを敷いてるから
微妙に冷えない心地よさ。
コンセントの位置を変え
もう一度ドライヤーをつけれるようにした後
ぐっと力を入れてベッドの上に乗る。
いつもとは逆で今は私の方が目線が高い。
彼女の旋毛を見ることなんて
ないだろうと思ってた。
歩「ん…もう少し前に行って。」
花奏「こう?」
歩「そ。それくらいで。」
それから、マネキンの頭の並ぶ隅にある
なんとも淡白な箱。
中にはハサミなり櫛なりが
丁寧に並べられている。
使い慣れてる櫛を手に取って
また、彼女の背中に向かう。
かち。
ぶおーと突如なり出す騒音。
そしたら小津町の髪がふわっと
春風にあおられるように靡く。
距離が近いのもあり、
声を張ったこいつの声が聞こえてくる。
花奏「乾かしてくれるん?」
歩「あんな雑な乾かし方、見てて腹が立ったから。」
花奏「えー、そんな?」
歩「振り向こうとしないで、乾かしてんだから。」
花奏「はーい。」
髪の毛が長いのもあって
座ると床についている。
小津町に言って正座してもらって
やっと髪の毛が宙に浮くの。
花奏「うぅ…足痺れるやつや。」
歩「我慢して。」
花奏「はーい…。」
歩「にしてもなんでこんなに長いの。」
花奏「髪?」
歩「それ以外ないでしょ。」
花奏「ふむ、確かに。」
歩「で、切らないの?」
花奏「うん。」
歩「ヘアドネーションってやつ?」
花奏「なんやそれ?」
歩「髪を寄付するの、何センチか以上っていう条件付きで。」
花奏「へぇ、そんなのがあるんや。」
歩「その様子、理由は別っぽいけど。」
花奏「せやで。」
歩「ヘアドネーション以外でここまで伸ばしてる人あんまみない気がする。」
花奏「私は…うーん…そうやなぁ…。」
歩「言いづらそうな時大体録でもないし。」
花奏「わ、酷いなぁ。」
またくるっと頭を回してくる。
滑らかな鎖骨がちらと見える。
髪が軌道から外れて光散らかる。
少しほっぺたを膨らまして
むすっと、でも嬉しげにこっちを見てた。
歩「だからこっち向かないで。」
花奏「分かった…。」
しょぼんとした声色。
でも、どこかに歓喜色。
ふと思い出したかのように
前までの話題を持ち出すの。
喋っていない空白から逃げるみたいに。
歩「髪って長いと手入れも大変だけど伸ばしてんの?」
花奏「うん。…短くいうと…私が勝手に約束やと思い込んでるだけのことがあるんよ。」
歩「約束?」
花奏「せや。「ポニーテール可愛いから明日からもずっとこのままでいて」って言われてん。」
歩「何それ迷惑。」
花奏「あはは、でも感謝してるねんで。」
歩「ふーん。だからって伸ばし続けなくてもよかったじゃん。」
花奏「これでも1回切り揃えてんで。」
歩「切り揃えるって…それほぼ意味ないじゃん。」
花奏「そうかもしれへんねー。」
歩「ま、なんかの拘りなんですねー。」
花奏「あー、興味なさそう。」
歩「興味ないからね。」
花奏「冷めてんなぁ。」
歩「煩い、いつもでしょうが。」
かち。
そう音を鳴らすと、
目の前にはさらさらと長髪。
毛先の方は少しけばけばしていたけど
思ったよりはお手入れしてたみたい。
さっと手で掬ってみると、
指の間から水みたいに
するりと逃げられてしまう。
歩「はい、終わり。」
花奏「ありが…って、めちゃくちゃさらさらやん!」
歩「静かにして。」
花奏「だって凄いんやもん!」
歩「うるさ。」
花奏「乾かし方1つでこんなに違うんか…。」
歩「そ。」
花奏「さすが、未来の美容師さんやね。」
歩「は?」
花奏「ちゃうん?」
もう注意する必要がない為か
くるっとこちらを向いて
くりっとした視線をぶつけてくる。
髪を下ろしたこいつの印象は
やっぱりどこか違っていて
とても大人しそうに見えた。
見た目だけ。
中身はとてつもなく煩いが。
そんなやつが、素朴な疑問をぶつける如く
私を見つめていた。
その手には自分の髪をひと束握って。
歩「…知らない。」
図星。
完全に。
だから適当に遇らったけれど、
へー?と小津町はにやにやしながら
こっちを覗き込むように見てくるもんで、
うざいから距離を取るよう
側頭部を思い切り押した。
むこうと謎に力を入れてくるから
意味ないようなものだったけど。
人の熱。
ドライヤーの熱が家を作って
そこに住み込んでしまったかの様。
花奏「んあー!なんやなんや、予想を言っただけやんかー!」
歩「その後のにやにやが気持ち悪かったの。」
花奏「酷いなぁ、でも当たりは当たりやろ?」
歩「はいはい。」
花奏「まぁでも、乾かし方といい部屋といい大体の人は分かると思うけどな。」
歩「そう?」
花奏「うん。マネキンに被せてる髪の毛だって丁寧に扱われとるし。」
改めて棚の上に並べられたそれらをみる。
つい先週練習に使った覚えがあった。
実家が美容院。
それが1番の理由で、
それ以外の理由がなかった。
幼い頃から何となく、
あぁ、私はここで働くんだって思ってた。
中学の頃とか少し手伝ってて、
そこから本格的に
職にしようと思ったんだっけ。
そんなだった気がする。
でも、強い憧れがある訳ではない。
あくまでただ家業を継ぐ。
たったそれだけのこと。
花奏「なんで美容師さんになろうと思ったん?」
歩「実家が美容院なだけ。」
花奏「へぇ!いつでも切ってもらえるやん。」
歩「そんな頻繁に切るか馬鹿。」
花奏「でも、気の向いた時に出来るってええやんけ。」
歩「へー、そ。」
花奏「わ、これありがたみを知らずに今まで生きてきたやつや。」
歩「生憎、その通りで。」
花奏「贅沢やなぁ。んじゃあ、その実家のお店に就くん?」
歩「ま、その予定。って、あんたには関係ないでしょ。」
花奏「関係あるよ。それに歩さんのこと知りたいもーん。」
歩「うざい、私は嫌。」
花奏「私は聞きたい。」
歩「意見の相違により今日は就寝。」
花奏「なんじゃそりゃ。」
歩「はやく寝ろ。」
花奏「はぁい。」
布団から降りて櫛を元の場所に戻したり
ドライヤーを仕舞ったりしてから
小津町の様子を見てみると、
カーペットは小さいながらある為か
床で寝ようとしていた。
6月の夜はまだ冷えていて、
窓辺からすうっと息を
吹きかけられてるみたいに冷気が回る。
そんな中制服姿の彼女。
歩「そこで寝んの?」
花奏「歩さんが嫌じゃなければやな。」
歩「あそ。」
花奏「ここで寝てええ?」
歩「好きにして。」
小津町は床に寝転がって
横を向き足を少しばかり曲げて
眠りにつくようだった。
カーペットは引いてあるとはいえ
硬い床ということに変わりはない。
そこに、ベッドの上にあった
いくつもあるクッションを
何個か当てるように投げてやった。
花奏「わっ!?」
歩「何。」
花奏「それはこっちのセリフや。」
歩「ご自由にお使いください。」
花奏「え…?」
歩「枕代わりでもなんでもご自由に。」
花奏「歩さん…!」
ぺたぺた。
靴下を履いていないから
そんな感触が足裏でする。
その足は迷わずベッドからは
離れるように進んでいくの。
いつの間にか髪は乾いていて
ふわふわと宙を舞っていた。
漂っていた。
花奏「え、ちょ、どこいくん?」
歩「先寝て。」
花奏「歩さんは」
歩「やることやったら寝る。」
花奏「…うん、分かった。ありがとうな、歩さん。」
この音は呆れたように
でも嬉しそうに鳴っていた。
何をしてないって、
匂いが濃くついてしまったバイトの制服を
乾していなかった。
別に明日してもよかったんだけど、
小津町と同タイミングで布団に入るのが
どうも気持ちが悪くて
…いや、気持ちが落ち着かなくて
今乾そうって思った。
洗剤と一緒に浸してたからか
ふんわりと洗剤の香りがする。
一気に搾って、
それからユニットバスのあるところに
ハンガーを使って引っ掛ける。
終わってから部屋に戻ると、
小津町は壁側を向いて寝転がってた。
表情はもちろん窺えない。
寒かったのか、クッションを
きゅっと握っているように見えた。
あの長い髪は散らさないようにか
まとめて自分の方に寄せていて。
変なところで気を遣う、
または変なところで空気を読む。
なんなんだろうとまた漠然とした
疑問を振り払って布団に潜った。
ぴ、とリモコンのボタンを押して
電気を消して。
真っ暗。
私は勿論小津町には背を向けてる。
小津町も然り。
花奏「なぁ、歩さん。」
歩「……。」
花奏「まだ寝てへんやろ?」
彼女にしてはやけにトーンを落としてる。
夜だからか。
それとも真っ暗な部屋だからか。
どちらにせよ、彼女も私も包まれているのは
底のない黒ということのみ。
花奏「…今日な、めちゃくちゃ楽しかった。」
歩「…。」
厳密にいうと今日はまだ2時間半ほどしか
経っていないが。
寝て起きたらだんだんと朝日が
昇り始めるところを拝めるだろう、
そんな時間だった。
花奏「友達とご飯食べて、夜中まで話して、一緒に寝てさ。」
全部あんたが強制的に
させてきたことだけど。
…そこでふと、少しの沈黙。
喋りっぱなしのこいつにしては
やけに不思議な間の取り方で、
何を悟ったか固唾を飲み込んだ。
それから短いが時間をあけて、
少しばかり遠くで声がした。
花奏「…………こんな私のことを、助けてくれてありがとね。」
歩「………。」
それはとてもとてもか細くて、
夢の中に溶けてしまいそうなほど
薄く細く事切れそうで。
掴もうともがいた手で千切ってしまいそう。
そんな脆さを感じた。
助けただなんて感覚は
私には微塵もなかった。
ただ、ただ普通にしただけ。
恩人とかなんとかとも言ってたけれど、
私は本当に納得はいっていない。
歩「小津町、あんた…。」
不意に、振り返ってしまう。
何を思ってさっきのことを呟いたのか。
どうしてそんなに消えそうに言うのか。
花奏「…………すぅ…すぅ……。」
…けれど、小さく寝息をたてているだけ。
つい先程まで声を発していたとは
思えないほどの寝つき。
多分、流石に、寝たふり…だろう。
そうは思ったけれど、何しろこんな時間だ。
すぐに寝入ってしまっても不思議はない。
それに最後の言葉…
もしかしたら寝言だったのかもしれない。
夢に1歩浸かってしまって
発せられたものなのかもしれない。
見えるのは縮こまった背中だけ。
なんだか、やっぱり消えそうって言うか、
あれだけ煩くしてた奴が
ここまで静かに眠っていると
嘘のように感じてしまう。
繊細…と言うのだろうか。
私の瞳には硝子の少女のように
いつの間にか映っていたみたいで。
……それはなんだか癪で
ふいと元の方を見る。
歩「やっぱオールとか絶対無理なタイプでしょ。」
返答はない。
きっともう暗闇の中だろう。
あ。
お金、返すの忘れてた。
明日は絶対に返さなきゃ。
そこまで考えると、待っていたかのように
大きな口を開けて睡眠が迫ってくる。
私の事なんて興味ないくせに
毎日2時間だけ纏わり付かれるの。
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