第5話 絵里とエンドレスエイト
カーテンの隙間から差し込む日差しが鬱陶しくて、あたしは目が覚めた。
本格的な夏が始まる準備の済んでいないあたしは衣替えをしておらず、長袖のパジャマの下はじんわりと汗をかいていた。
今年の梅雨は例年と比べると短いらしく、梅雨という梅雨を実感する間もなく週間天気予報はすっかりと晴れマークが並び、近所の公園に咲く紫陽花も強い日差しに当てられて野生のドライフラワーと化していた。
仰向けのまま無理に手を伸ばしてカーテンを開けると明りを付けなくてもいいくらいに部屋は明るくなり、これではますます汗をかいてしまうと、あたしは嫌々ながらベッドを離れる事にした。
「……頭が痛い」
起き上がると立ち眩みに似たような感覚の後、鈍い頭痛がした。眩しい日差しは煩わしく、あたしの水晶体、更には網膜を通り越して脳の裏側まで鋭い剣で突き刺したかのように痛みが響いた。
いや、光なんだからライトセーバーか。
昨日の記憶は曖昧だが、恐らく沢山お酒を飲んだのだろう。あたしは晩酌でこうなるまで飲まない。
まぁ、あたしもそこまでお酒に弱くない。
シャワーを浴びて、朝ごはんを食べ、お皿を洗ったり散らかった服を洗濯機にぶち込んだりしているうちに頭痛も少しづつ収まってきた。
ルーティンに従いコーヒーを淹れたが、一口飲んで水道に流した。どうやら昨夜のあたしは胃が荒れるまで飲んだようで、何度か飲もうと試みたものの香りそのものが今日は不快に感じたので諦めた。
仕方なくマグカップを濯いで水道水に入れ直してからテレビをつけると、ニュースは梅雨明けの話題で持ちきりだったが、どれもあたしの興味を惹くに値せず、ただ何となく眺めていた。
一足早く海で遊ぶ若者がインタビューされていて、面白可笑しく答えようとして空回りしている。
やがて時間は進み、いつ頃切り替わったのか天気予報からおすすめの夏野菜特集に代わっていて、これもまた何となく眺めていると、そろそろ誰かから電話が掛かってくるような気がした。
ほらね、机の右端に置いていたスマホはチャットアプリでお馴染みの通知音で鳴るとバイブレーションを始めた。
「英雄か、よっす」
「おう絵里、昨日はお疲れ様」
昨日? あぁ、確かに一週間頑張って黒板の前に立ったからな。オウムの様にあたしも同じ言葉を繰り返す。
「で? なんかあったっけ」
「いや、昨日の時点では今日の話はしていないな」
「悪いけど、昨日の事をよく覚えていないんだ。朝、目を覚ましたら頭が痛くて酒を飲んだってだけはわかるけど」
「お前は結構飲んでいたからな。だけど、その感じだと今はもう大丈夫みたいだな」
「そうだね。今は胃が荒れているくらいで頭痛も治まってきたよ」
「じゃあ新横いこうぜ。11時に改札前で集合な」
時計を見る。この時間なら普通に準備して出れば十分だ。
「わかった。あまりあたしを待たせるなよ」
「お前にそのセリフは言われたくねぇけどな。じゃ、またな」
慌てることなく家を出て、タイミングよく来た電車に乗り込み十五分も揺られていると新横浜駅に到着した。少し早く着いてしまったが、改札を抜けるといつもの柱に英雄が立っていて、あたしと英雄は難なく合流した。
あたしが珍しく遅刻しなかったのは、同じようなことを最近した気がしたからで、それに妙な既視感を感じたものの新横浜で遊ぶのはよくある事だったので気に留める事はなかった。
ハルと鈴乃の姿がなかったので英雄に聞いてみると、一応声はかけたけれど「今日は気分じゃない」と断られたそうだ。
いつもの様に公園までの道中にあるコンビニで水分とグミなどお菓子を買ってから目的地に向かう。
何をするのか、その問いの答えはスケボーである。これを今の今まで明言しなかったのは、あたし達が外に出て遊ぶと言ったらだいたいスケボーだからだ。
買い物の後、スケートパーク(舗装された路面を利用するストリートスポーツを行う専用の施設)に到着する。
ウォーミングアップの後、フラットトリックの練習とスケゲーをしたり、セクションの練習と、互いに交代交代でトリックをしてはその度に指摘し合った。
夕方になり、足もそろそろ疲労が溜まりミスが目立つようになった頃、あたし達は帰り支度を始めた。
たくさん汗をかいたので、トイレの前の水道で頭から水を被り汗を流す。隣の英雄は高さのあるセクションでのトリックに失敗して肘を擦りむいて出血もしていたので、着替えの服に血が移らないようその個所を重点的に流している。
スケボーという基本的にコンクリートの上で行うスポーツの性質上、こういった怪我は日常茶飯事の出来事だが、今回は出血も多く、傷口を流すと血と混ざり真っ赤に染まった水が排水溝に流れ、微かに香る鉄の匂いがした。
ただ、出血の割に意外と傷口が浅いのは整備されたパークのお陰である。
汗と血を流した英雄はシャツを脱ぎ上半身を晒す。昔であればあたしも外でシャツを着替えていたけれど、流石に二十歳を越えてそんな真似を出来る訳もなく。トイレの中で綺麗なシャツに着替えた。
横浜駅に戻ったあたし達は、頻繁に通っているメキシコ料理店で夜ご飯とお酒を飲んだ。スポーツの後のご飯とお酒はやけに美味しくて、良く進み、結局三時間ほどそこにいた。
疲労と酔いのダブルパンチ。ふらふらとした足取りで自分のマンションに帰ると、偶然にも入り口の前でハルと出会う。
ラフな格好と片手にトートバッグ。スーパーにでも行くのだろう。
「随分と元気よく遊んできたみたいだな。明日、大丈夫かよ」
ハルはあたしの恰好を上から下へゆっくりと視線を落とし、冷ややかな目とため息交じりに言った。
確かに疲れはあるが、家帰ってゆっくりとお風呂とストレッチをすれば問題なくないか、次の日の事を気にするなんてハルもすっかりおっさんみたいな思考になってしまったものだ……。遊びに準備も体力もいらんだろ。
次の日。またしてもうんざりとするような眩しい日差しで目が覚めた。今日は酒が残っているような感覚はなかったが、酷く疲れていて身体が痛かった。
あたしはカーテンを開け、シャワーを浴び、コーヒーを淹れてからテレビをつける。
「——関東の天気です。本日、月曜日の天気は」
まだ半分寝ぼけていたあたしは椅子から飛びあがる。
……今、なんと?
あたしは慌ててスマホを手に取った。
7月12日 月曜日。
月曜日? 今日は日曜日じゃないのか。時刻は7時20分、いつもであれば家を出る時間だった。
あたしは急いで着替えを終わらし家を出て、原付もびっくりするような速度で自転車を漕いで学校へと向かった。
なんとかホームルームに間に合わせ、冷房の効いた教室で悠々と登校してきた教え子たちをぼさぼさの髪で出席を取ると皆に笑われてしまった。
一時間目に授業の入ってなかったあたしは職員室の机でぐったりとして、未だ半疑の気持ちで自分のスケジュールアプリを開く。
10日の土曜日。スケジュールアプリにはこう書いてあった。
新横スケボーからの飲み、と。
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