大人になっても、僕たちは。

夏秋茄っ子

第1話 これは日常

 ……今日も疲れた。

 俺は社員証をカバンの一番小さなポケットにしまいながらエレベーターに乗り込んだ。

 古く年季の入ったエレベーターは今にも落ちそうで、錆び付いたワイヤーの擦れる音を鳴らしガタガタと小さく振れながら一階へと下ってゆく。いつか落ちてしまうのではないだろうかなんて入社した当時は不安に思ったものだ。

 古いのはエレベーターだけではない。うちの会社は昭和初期には既に今の名前で商売をしていて、前身は更に前から操業しているらしい。それもあって事務所を置くこの建物もかなり古く、幾度となく改修工事を繰り返しながらも今でも大切に使われている。


「泉。終わりか?」


 入社から部署は違ったが、ずっと面倒を見てくれているベテランの上司がその薄暗い喫煙所に一人でタバコを吸っていた。


「お疲れ様です。今日は朝から注文が見えていたものですから」


 古い職場だからなのだろうか、この嫌煙ブームの世の中、敷地内には未だに喫煙所が数か所残っている。

 時刻は午後6時を回ろうとしていた。日が昇る頃から働き始めて仕事が終わる頃には大体この時間になる。だから俺の帰宅時間は至って平均的で、別に早く仕事が終わった訳ではない。

 俺の仕事は営業職だ。子供のころの夢と全く違った業種であるが、今の仕事はお客さんを含めて人間味のある人が多く、なんだかんだ俺は今の仕事を気に入っていた。

 上司はタバコを口に咥えたまま手招きしてきたので、俺は頷いて胸ポケットから煙草を取り出す。


「販売——苦戦しているんですか?」


 俺はタバコに火を付けながら質問する。失礼に聞こえる質問かもしれないが、うちの営業はそれぞれが違う商材を扱うため売れる売れないは季節やタイミングによって違うので他の商材の状況を把握するためにこういった聞き方をするのはよくある事だった。

 まぁ売れてますか? でなく苦戦とネガティブな言い回しをするのは世の中景気が良くないからである。


「いいや違うよ。お前も知っているだろ? あの最後に注文出してくるところだよ。今日は大きい注文が来る予定だったから慎重に動いてただけ。これを吸ったら仕事を片付けるよ」


「そうですか。なら良かったです」


 そう言うと、その上司は最後の一吸いとばかりに深く根元まで吸い込んで、ぐりぐりと灰皿に押し付け火を消した。

 事務所に戻る背中に先に上がりますと挨拶したが、上司はこちらに振り返ることなく片手を上げた。

 俺は一人喫煙所に残される。自分から誘っておいて置いてくなよ、と別にそんな悪態をついたりなどしない。

 

 大きく伸びをすると、肩と背骨の辺りがボキボキと音を鳴らす。

 俺はこの音を聞くのが好きだ。凝り固まった身体がほぐれる気がするし、凝った分だけ頑張ったような気になれるから。

 もしこの音を人事評価に加えてくれれば、俺はこの音だけで相当の評価が貰えるだろう。なんてね、――帰るか。

 今朝の記憶では冷蔵庫の中には納豆と卵くらいしか入ってなかった気がする。でも今日はなんか疲れたから、スーパーに寄ってから自炊しようとは思えなかった。

 やけに長く感じた冬が終わり、日に日に日が伸びてくることに喜びを感じながら俺は家に向かって歩き出す。

 カモがいなくなったな。可愛いし意外に種類多くて見ているだけで面白かったのに。

 いつもの帰り道。音もなく静かに流れている川を横目に見て、昨日までは気にしていなかった川の変化に気が付いた。

 夏に見る事の出来ない鳥たちが姿を消していたことに、俺は意外にも寂しさを感じていた。

 帰るなら帰ると言って欲しいものだ。まだ帰っていない呑気な鳥がいたら「別れの言葉はなしか?」とでも言ってやるのに。……俺、勝手すぎるだろ。

 日が伸びたとはいえ、それでも夕方になると少し肌寒い。両手をポケットに入れて少し猫背。

 俺はコンビニに寄り、いつものタバコの番号を頭の中で復唱しながらレジに並ぶ。袋が必要か聞かれて、貧乏性の俺は断った。

 袋にも金が掛かるこの時代になるとは考えてもみなかった。

 もし今から過去に戻る事が出来たのなら、昔の自分に話したいことはたくさんあるけれど、袋が有料になった事とストローが紙になりつつある事も話さなければならないと思う。

 もう、ストローでポッキーを作れなくなる日はそう遠くない。らき〇すたでもあったあの日常的なシーンを見て理解できない子供が学校に通うのか……。

 そんな事を考えている間に、自分のマンションまで帰ってきた。

 うちのエレベーターはぼろくない。それはくたびれた俺を静かに運んでくれた。

 

 北海道に住んでいた時からの癖で、俺は自宅に鍵をかけない。俺は別にお金持ちではないし、泥棒だってこんな貧乏くさい部屋からは何も期待しないだろう。そもそも、金になるものは基本的に身に着けているので部屋にあるもので良いのなら勝手に使ってくれればいい。

 ——それに、俺の部屋には規則性も法則性もなく現れる警備隊がいるから大丈夫。


「おっ、ハルが帰ってきたぞ」


「おかえりハル君。上着預かるよ」


「お疲れ。冷蔵庫に入れといたビールがそろそろ良い感じに冷えてると思うぜ」


 革靴の紐を緩めようと玄関に腰を降ろしている間にも、何やら部屋の中でドタバタと音が聞こえる。

 まさか、何か壊したりしていないだろうな。


 そう――これはよくある日常だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る