異界の迷い人(現代、高校生編)

前篇 年下の彼、年上の彼女(※三人称)

 昔の夢を見た。あの懐かしい場所を、もう戻らない夏の日々を。過去の匂いに混ぜて、その空気を感じた。彼が目覚めたのは、そんな空気を感じる早朝。朝の光が温かい、いつもの午前六時だった。彼は枕元の目覚まし時計に手を伸ばすと、それが鳴り出す前に起きて、自分の上半身をゆっくりと起こした。「う、ううん」

 

 背伸びを一つ。それから、欠伸も一つ。欠伸は部屋の中に響いて、その家具類をそっと撫でて行った。彼は家具の一つから視線を逸らして、自分の隣に意識を移した。自分の隣では、一人の美しい女性が眠っている。「自分の隣に異性が寝ている」とは思えない顔で、その純粋な顔を光らせていた。


 少年は、その顔を見詰めた。顔の奥にある、純粋な光も見詰めた。彼は女性が朝の光に目を覚ました後も、年頃の少年らしく、穏やかな顔で彼女の顔を暫く眺め続けた。「お早う御座います、

 

 女性は、その声に微笑んだ。年上の余裕と、女性の愛情を込めて。その声に「クスッ」と笑い返したのである。彼女は胸の部分を少し隠して、少年の頬をそっと撫でた。「おはよう、

 

 少年はまた、その声に微笑んだ。彼女の声は、いつ聞いても美しい。


「朝ご飯にしますか?」


「うん、しよう!」

 

 女性こと、千早さんは毛布の中から出て、家のダイニングルームに向かった。少年こと、光も、彼女の後に続いた。二人はダイニングルームの中に入ると、穏やかな顔で今日の朝食を作り始めた。


 今日の朝食は、洋食だった。王道らしいトーストと、瑞々しいサラダ。そこに光お手製のハムエッグとヨーグルトを加える。飲み物は、千早さんの大好きなオレンジジュースだ。それらを作り終えると、テーブルの椅子を引いて、その上にゆっくりと座った。「それでは」

 

 二人は、互いの顔を見合った。いつも見ている互いの顔を、今日も変わらない笑顔を。テレビの音をBGMにして、その表情を確かめ合った。二人はそれぞれに自分の両手を合わせて、朝の決まり文句を述べた。「頂きます」

 

 千早さんは、食パンの端をかじった。光は、サラダのレタスにフォークを刺した。二人はそれぞれに速さは異なるが、今日の朝食を食べ終えると、自分の使った食器類を片付け、自分の身支度を整えて、いつもの会社に向かった。会社の中にはもう、彼等の上司が来ていた。


 二人は「上司よりも近所のおじさん」が似合いそうな男性に「お早う御座います」と言い、男性も二人に「ああ、おはようーね」と返して、(それぞれに仕事の確認や、準備等は行ったが)数行開始までの時間を過ごした。

 

 就業開始の時間に成った。彼等は仕事のミーティング、つまりは今日の担当エリアを確かめると、二人一組のペア(千早さんと光は、同じペアだ)に成って、会社の中から出て行った。会社の外は、晴れていた。二日前までは降っていた雨も、今日はその姿をすっかり消している。昨日の朝には残っていた水溜まりも、それを見付けるのが既に難しくなっていた。


 二人は会社の車を使って、所定の駐車場に向かった。駐車場の中には、社用車以外の車も停まっている。会社が契約を結んでいる車から、所有者不明の車まで。様々な車が、その場所に停まっていた。

 

 二人は車の中から出ると、自分の身なりをもう一度確かめて、担当エリアの中を歩き始めた。担当エリアの中は、静かだった。二人と擦れ違う人達は勿論、その前や後ろから歩いている人にも異変は見られない。皆、普通の感じに歩いている。


 一人暮らしの老婆には「お早う御座います」と話し掛けられたが、それも普段と同じなので、特に「怪しい」とは思わず、老婆に「おはようございます。今日は、良い天気ですね」と返して、彼女の前から歩き出した。「何かあったら、直ぐに教えて下さいね?」

 

 二人はまた、自分達の正面に向き直った。彼等の正面には、穏やかな景色が広がっている。日本の下町を真似した様な景色が、その空気と共に広がっていた。二人は「空気」の中に潜む異臭、「景色」の中に隠れる違和を探して、ある時には年相応の冗談を、またある時には仕事の悩みを言い合った。「『楽しそう』って始めた仕事だけど、何か」

 

 そう笑ったのは、町の空を見上げた千早さんだった。千早さんは歩くのに疲れて来たのか、公園のベンチを指差して、少年に「座ろうよ?」と促した。「仕事の休憩も兼ねて」

 

 光は、その言葉に頷いた。彼自身は別に疲れていなかったが、彼女が如何にも疲れていそうだったので、それに「分かりました」と頷いたのである。彼は千早さんがベンチの上に座ると、近くの自動販売機に行き、二人分の飲み物を買って、彼女の所にまたも戻った。「どうぞ、ミルクティーで良かったですか?」

 

 千早さんは、その質問に頷いた。そのチョイスは、(彼女としては)最高だったらしい。彼女は少年の手からミルクティーを受け取ると、嬉しそうな顔で缶の蓋を開け始めた。「ありがとう」

 

 少年も、その言葉を喜んだ。自分のセンスが正しかった事も含めて。光は彼女の隣に座ると、自分の缶ジュースを開けて、午前の風に「気持ち良い」と微笑んだ。「此処の季節は、穏やかだから良いですね。向こうの季節よりも、ずっと和やかです」

 

 千早さんは、その言葉に微笑んだ。微笑んで「うん」と俯いた。彼女は自分のミルクティーを一口飲んで、正面の景色に視線を移した。彼女の正面には、公園の噴水が建っている。


「甲野君」


「はい?」


「甲野君はどうして、その姿を選んだの? 本当は」


「皆と同じにしたかったからです。あっちの世界に居る、友達と。二人は……向こうの世界では、十五才に成っていますから。二人が十五才に成っているのに」 


 光は一つ、息を吸った。胸の高鳴りを抑える為に。「変ですよね? ボクはもう、普通の人じゃないのに。『普通の人と同じに成ろう』としている。面倒な手続きやって、年齢操作の自由権を得ている。周りの人達からすれば、とても不自然な事でしょう。死人に歳は」

 

 千早さんは、その先を遮った。「そこから先は、聞かなくても分かる」と思ったらしい。


「気持ちは、分かるよ。私だって……もし、生きていたら」


「千早さん」


 今度は、光が黙った。彼もまた、彼女の気持ちが分かったからである。


「ボク達は、生きた人間に助けられた。生きた人間の、鞍馬天理に助けられた。彼の持つ、才能に逝かされて。今の時間を得ているんです。そこから先は、『自分の意思だ』としても。彼が導いてくれた事に変わりはない。ボクは」


「天理君じゃない。でも、それで良いんじゃないかな?」


「え?」


「天理君の様には、成れなくても。甲野君には、甲野君の力がある。甲野君にしかない才能がある。私は、平凡な人間だけど。人柱だった甲野には、私にはない沢山の魅力がある」


 光は、その言葉に胸を打たれた。特に「沢山の魅力がある」の部分、此には思わず泣き掛けてしまった。光は溢れ出る感情を抑えて、千早さんの横顔に目をやった。彼女の顔は、空の様に澄んでいる。「千早さん」


 千早さんは、その言葉に微笑んだ。宝石の様な瞳を光らせて。


「うん?」


「ありがとう」


 千早さんはまた、彼の言葉に微笑んだ。今度も、宝石の様な瞳を光らせて。


「うんう。私も、色々な人を悲しませたから。私が大事に思っていた人達も。だから、今度は」


 そう言い掛けた瞬間だった。彼女はベンチの上から立ち上がって、ある方向を指差し始めた。彼女が指差す先には一人、光と同い年くらいの少年が立っている。少年は何かに怯えているのか、不安そうな顔で自分の周りを見渡していた。


 千早さんは、その光景に眉を上げた。光も、彼女と同じ違和感に気付いた。二人は互いの顔に視線を移して、その眼光に同じ物を感じた。


「あの子は」


 多分……。


「『迷い人だ』と思う。


 二人は互いに頷き合って、少年の所に走り寄った。

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