人でなし
弥生奈々子
人でなし
夢咲叶、つまり僕のことなのだけれど、彼に対して何か特徴と言える特徴はなかった。特記事項がなかった。
特に記すことが見当たらない。
特にと言わずとも、記すことが存在しない。
どれほど脳を回転させ、記憶の引き出しを隅々まで探しても、白紙が黒く染まらない。
真っ白である。
世界を股にかける有数の御曹司というわけでもないし、世間を魅了するイケメン俳優でもない。
もちろんこの世を騒がす殺人鬼でもないのだ。
そんなどこまでも凡庸な僕を、それでもなんとか書き表すとするならば、夢咲叶ことこの僕は高校を中退している。自主退学である。
ある日を境に学校に行かなくなりそのままずるずるといった、なんとも面白みのない王道パターンである。
僕が学校に行かなくなった理由、いやきっかけは極々簡単なことであった。あれは文化祭準備期間のことだったか、僕が高校の頃、「モテる」と言えばバンドであった。そんな等式が立っていた。
高校の頃、なんて昔のことのように語ったが一年前の話である。何なら学校をやめていなかったら今でも高校生だ。その時の僕はスクールカーストにおいて最底辺であった。今思えばそれはそれで幸せな学校生活であった。教室の隅でイケてない男子数人で談笑するあの日々も、間違いなく青春だったのだ。
しかし現状に満足できなかった僕はスクールカーストの上昇を企み、ギターを購入して練習したのだ。身の程もわきまえずに。
スクールカーストの上昇、もう少し端的に言えばちやほやされたかっただけなのだと思う。その時僕には意中の人なんていなかったのだから。
所詮僕の中ではカップルやバレンタインは的屋の金魚すくいに過ぎなかったのだ。水中を悠々自適に泳ぐ、キラキラとした魚群に恋い焦がれていただけである。
とは言ってもこんなの年齢と彼女いない歴が、等号で結ばれた負け犬の遠吠えにすぎない。痛々しい若輩者の戯言だ。本当は今の言葉が全て後付けで一人に執着して撃沈するのが怖かった、弱輩者に過ぎないだけかもしれない。
本人の記憶が定かでない以上、神のみぞ知る事象である。
とは言え僕が全力を尽くしたのも事実だ。当時は友達がいなかったので(今よりはいた)どこかしらのバンドに入れてもらおうと色々と行動に移した。
楽器を持っている人の目の前でピックを落としてみたり(拾ってくれさえしなかった)、バンドTシャツやリストバンドを付けて登校したりだ。
気付けばクラスで、いや学校で僕は浮いてしまっていた。それに比例するように僕の心は沈んだわけであるが。クラスメイトの目を引くことに成功したが同時に普通に引かれていた。常時八十個の目が、僕の方を向いている事実に、こちらが目を剝きたくなった。
逆ギレもいい所だ。
だから僕は音楽をやめた。ついでに学校も。それからはどうにも視線が怖くて仕方がないので、ヨルシカ外出できないようになったのだ。
夜しか外出できない。吸血鬼に親近感を覚えないでもない。もちろん僕は吸血鬼でもない。鬼ではなく純然たる人間である。日光を浴びても死ぬわけではない。視線を浴びると死ぬかもしれないが。視線が死線となるわけである。
……ごめんなさい。
吸血鬼、ヴァンパイア、ドラキュラ――
ナイトウォーカー。
意訳すると夜這いになるのだろうか。思えば処女や童貞の血を好んだり、吸血で眷属を増やす――繁殖したり。思春期真っただ中の少年からすると、どうにも暗示的だと感じずにはいられない。
考えすぎだろうか。いや誤読も許容しよう。情報の読み取り方は自由だと、どこかの本で読んだことがある。それすらも誤読かもしれないが。
閑話休題。
というわけで今はニートというわけだ。ニートをよく毎日が日曜日だと形容するが、あれはいい得て絶妙である。ただ、それをいいもののように解釈する人間は、視野が狭いと言わざるを得ない。人間らしいと言われればその通りであるが。
毎日が日曜日ということは即ち、毎日が翌日来る月曜日に、恐れて生きるのと同義なのだ。この恐ろしさ、社会の歯車を一度でも経験したことのある者は、理解できないと口が裂けても言えまい。
月曜日が憂鬱だったことなど一度たりともない。
そんな人だけ僕に石を投げなさい。
不安感と毎日一緒に同居していると、落ち着かずそわそわしてしまう日も当然ある。実を言うと今日がその日である。そんな日は気ままに散歩をするのだ。
僕の散歩ルートは大体同じだ。方向音痴だからあまり歩き回ると、迷ってしまうからというのが一番の理由として挙がる。また、絶対に通りたい場所があるというのも大きな理由だ。
お気に入りポイントというやつだ。
散歩に出ると決まって僕は神社へと向かう。大きな神社というわけでも、絢爛な神社というわけでもない。寂れたただの神社である。恐らくとうの昔に神様なんて、いなくなっているんじゃないだろうか。
空っぽだ。
それでもここがお気に入りポイントなのである。というのもこの神社は通学路の脇道にある神社なのである。高校在学中は一度も気付くことがなかった。
当てもなく散歩をしているとき偶然気付いたのだ。それ以来学校をやめた後の僕の象徴的場所だと、勝手に認識しているのだ。
別に何をするわけでもない。
神社の周りをぐるりと歩いて、小銭を賽銭箱に投げ入れる。いつしかそれが習慣となっていた。
ふと空を見ると月が出ていた。満月だろうか。少し雲がかかっていて、定かではない。雲のかかった月を見ていると昔の友人の言葉を思い出す。
「中の見えないスカートほど魅力的なものはないよね。私なんて女の子がスカートをはいているだけで、ドキドキしてしまうよ。風になびくと尚更だ。中身なんておまけに過ぎない。見えてしまうと価値なしと言ってもいいほどだ。月に叢雲花に風とはよく言ったものだよね――」
当時は言葉の誤用を素っ気なく指摘したが、雲のかかる月を見ると少し意識が変わる。なるほど、全て見えないからこそ想像で補完して、より美しく見えるということか。果たしてあの人間がそこまで考えて、話していたかは諸説あるところだが、今となっては確かめる術もない。
神社を後にした僕はもう一つのお気に入りポイントへ足を向ける。
それは人気のない裏道にある無人の廃ビルである。鍵が開いているところを偶然発見して以来、屋上から街を見渡すことで散歩の終わりとしているのだ。
ここから街を見渡すといつも考えることがある。神様の視点ってこんな感じなのだろうか。我ながら幼稚であると思うが神社の後に来るからだろうか、不思議と考えてしまう。もしもこれが神様の視点だというならば、どんなに辛い人がいても、どれだけ苦しい人がいても、助けが来ないのは仕方のないことなのだろう。神様からしたら、僕達や僕達の想いなんてものは、水中を蠢くボウフラのようなものに、過ぎないのかもしれない。
湿っぽくなってしまったか。いけないな。
実を言うとこの散歩には一つ、気分転換の他に理由がある。その理由というのがなんとも青臭く、痛々しく、薄ら寒い、つまるところなんともつまらない理由なのだが。
正直公言したいものではない。
しかし「旅の恥は掻き捨て」なんて言葉もある。締めとしてお話ししよう。
非現実的な現象に連れ去られたかった。奇妙奇天烈な怪奇現象でも、最近流行りの異世界転生でもいい。
なんでもよかった。
日常が崩れ落ちてほしかった。僕が当たり前とする、常識という名の偏見を粉々にしてほしかった。
突然美少女が表れて「こんな狭い箱庭で何をしてるの?」なんて言葉をかけてほしかった。
でも待つのも限界だ。
もう懲り懲りだ。
結局最後まで僕は普通の存在でしかなかったし、今まで築き上げた偏見は常識のままだった。
「事実は小説よりも奇なり」や「一人一人が特別な存在」なんて気休めにすらならなかった。
電波に乗った大噓だった。
あれほど来るなと呪った明日が魅力的に輝き始める。
もう太陽に怯えなくていい。
もうあの視線を向けられなくていい。
もう両親の喧嘩する声を聞かなくていい。
「さよなら」
某月某日、某所にて僕は自分を殺した。
朝になると死体が見つかり、初めて死が観測されることだろう。
吸血鬼でも殺人鬼でもなんでもなかった僕は、ついにこの日、二つの鬼になることが出来たのだ。
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