夏の夜に溶かす

koharu tea

第1話

 お洒落なランチは日々消耗し続けるOLの癒しの一つであったりする。お財布には優しくないものの、この小さな喜びを削れるほど私に心の体力は残っていないのだ。

 そう心の中で言い訳をして頼んだデリプレートには旬の野菜やフルーツを使った冷菜とメインのお肉料理が小綺麗に並べられていた。


「あーやっぱり桜と同じの頼むべきだったかも」


 私の前に運ばれたプレートを見るなり同期の由香が呟く。


「確かに桜ちゃんのが一番目を引くよね」


 由香の言葉に穏やかな声で同意する葵。彼女も私や由香の同期である。

 

 同期とはいっても全員中途で今の会社に入り、たまたま入社時期がほぼ同じだったというだけなので、厳密に言えば同期とは言わないのかもしれないが。入社時期の近さに加え三人の年齢が同じということもあり、私たちがこうしてランチを一緒にとる仲になるまでにそう時間はかからなかった。


「そんなことより、葵。同棲はどうなのー? 順調?」


 同棲の一言に一瞬私の肩が強張る。


「まだ一緒に住み始めて一ヶ月くらいしか経ってないからどうとも言えないけど……。まあ順調と言えば順調、なのかな」


 えへへ、と少し照れたように笑う葵。控えめな彼女らしい言葉だ。


 葵の彼氏である杉浦先輩は私と由香が所属する部署の先輩で、入社当時はなんだかんだとお世話になった。スラリとした長身に端正な顔立ち。やや細身ではあるが、整った顔や雰囲気ともマッチしている。言葉数の少なさから一見冷たい印象を持たれがちだが、実際のところは案外面倒見が良く、そのギャップに心を掴まれ彼を推す女性社員も少なくはない。社内一人気、とまではいかないものの、女性社員が集まる場ではよく話題に上がる男性社員の一人だった。


 そして当然のように、私もそんな彼に恋をしている。悲しいことに現在進行形で。


___


 結局その日の午後は、全くもって仕事に身が入らなかった。

 葵の同棲話は案外すぐに終わり、その後は由香が先日行った合コンでの失敗話で大笑いをしていたというのに。

 傷は思いの外深いのか、元々速くもない頭の回転速度は見事にペースダウンし、もう二時間近く資料を作っては消し、作っては消しの作業をひたすら続けている。

 今月は部署としてもそれほど忙しくもなく、今作っている資料も来週の水曜の会議までに完成していれば問題ない。急ぎで今日中に終わらせなければ行けない業務がある訳でもなく、既に定時上がりが確定しているような金曜の夕方は、本来もっと上機嫌で過ごしているはずなのだ。

 しかしこの絶妙にゆとりのある時間は、叶うことのない苦しい想いを湧き上がらせるのにはうってつけのようで、私の気分はどんどん下がっていく一方だ。


「具合でも悪いのか?」


 定時まであと一時間を切ったところで、斜め前から飛んできた声に顔を上げると、やや切れ長の瞳と目が合う。

 正直今一番会話をしたくない相手ではあるものの、私は出来るだけ冷静を装って返事をする。


「全然、そんなことないですよ。ただ資料が思うようにまとまらなくて」


 イライラしてたのが顔に出ちゃってましたかね、なんて取り繕うように笑うと、先輩はそうか、と呟いてこちらに赤いパッケージのチョコレートを差し出す。


「食べるタイミング、逃したから」


 そう言って私の机にお菓子を置くとそのまま他部署の方へと歩いて行ってしまった。

 慌ててその背中に向かってお礼を言うと、私は一つため息をつく。

 

 机に置かれたチョコレートに目を向けると、さっきまで私を支配していた苦しい感情が一気に溢れ出てくる。激しく波を打つ感情は、うっかり気を抜けば目から涙がこぼれるのではないかと思うほどで、負ってしまった傷の深さに改めて驚かされる。由香を含め同じ部署のメンバーは全員席を外しており、表情に気を遣う必要がないのが唯一の救いだが、一秒でも速くこの感情の波から抜け出したい。


 ああもう、大人なのに参ったなあ。


 出来るだけ軽く心の中で呟くと私は再びキーボードに手をかけた。




___


 午後七時半。

 金曜日らしさを感じる繁華街を抜け、私は家までの道を歩いている。

 定時直前に会社へ戻ってきた由香にこの後社内メンバーで飲みに行くから一緒に来ないかと誘われたが、生憎社内の人と酒を飲み交わす気分にもなれず定時と共に足早に会社を後にしたのだった。


 うちの会社は始業時間が少し遅めの午前十時なため、就業時間もそれに合わせて午後七時となっている。入社したての頃は朝の時間にゆとりが持てることに幸せを感じていたが、今となってはなるべく早い時間に会社を出て夜の時間を充実させた方が幸せなのではと感じる。まったく、なんて無いものねだりなのだろうか。

 そんなことを考えつつ、ひたすら見慣れた景色の中を歩く。

 会社でじっと座っているよりも、こうして少しでも体を動かしている方が私は冷静を保てるらしい。会社で感じた苦しさが嘘のように、今はどこか一歩引いた目線で自分の感情を見ているような、どこか冷めた感覚が私の中にはあった。

 どうせ傷ついているのなら、今日はいっその事恋愛映画でも見ながらどっぷりと感傷的な気分にでも浸ってしまおうかと思っていたが、既に出来上がったサラリーマンが店で談笑しているのを見ると、なんだかこのまま家に帰るのが少しもったいなくも感じてくる。たまには外で一人飲みも良いかもしれない、どこか居酒屋にでも入ろうか、と考えたが、直後、私は居酒屋よりも今日の気分にぴったりな場所を知っていたことをふと思い出す。

 私は目の前の十字路を右へ曲がると、先程よりも速い足取りで道をまっすぐに進んだ。

 この通りに入るともうほとんど店はなく、住宅が静かに立ち並んでいる。私の住むマンションもこの通りに面しており、線路沿いにあった前の家とは全く違う、この静かな雰囲気が気に入っていた。

 通りを二分程歩くと、小さな店がポツリと現れる。レンガの壁にアンティークなブラケットライトが、まるでロンドンを思わせるような佇まいだ。


 Cafe&Bar No.9


 店先の立て看板にはそう記されている。

 この店には既に何度も訪れていて、私の密かなお気に入りの場所となっている。会社の周りにあるお洒落なカフェとはまた違った、ゆったりとした空気の流れる落ち着いた空間は、その場にいるだけで少しだけ自分を理想の大人に近づけてくれるような、そんな感覚にさせてくれるのだ。


 「いらっしゃいませ」


 ドアを開くといつもの様に店主の九条さんが心地の良い声で出迎えてくれる。


 「こんばんは」


 軽く会釈をしながら挨拶をすると、私はカウンター席に座る。

 どうやら店内には私以外に客はいないらしい。

 店内に流れる落ち着いたジャズがゆったりと空間を満たしているからだろうか、人のいない店内も不思議ともの寂しさは感じなかった。


 「マンデリンを一つお願いします」


 この店に来る度いつもお酒と迷うのだが、結局いつもコーヒーに落ち着いてしまう。店自体は夕方からオープンすることもあり、どちらかと言えばバーがメインなのかもしれないが、コーヒーやデザートの種類もそれなりにあることや、カフェとして利用している客も比較的多く見るため、私も毎回なんとなくコーヒーを頼んでいるのだった。

 ぼんやりと九条さんがコーヒーを淹れる姿を眺める。ただコーヒーを淹れていると言えばそれまでだが、どこかこの人からは所作に優雅さを感じるのだ。もちろん客前で作業をしている以上、そう乱雑な振る舞いはしないだろうが、動きの一つ一つに気品が漂っている。もしかするとそれは、この人の見た目も関係しているのかもしれない。整った中性的な顔立ちは、男性に使う言葉として果たして正しいものかは分からないが、まさに美人という言葉がぴったりなのだ。ただ単純に顔が整っているのであれば、美形と表すのが正しいのだろうが、それとはまた違う艶やかさ、みたいなものがこの人にはあった。



「お待たせいたしました」


 その声にハッとする。もしかすると無意識のうちにずっと九条さんのことを凝視していたのではないかと思うと、急に恥ずかしくなり咄嗟にコーヒーに手を伸ばす。


「あれ?」


 手を伸ばしたコーヒーのすぐ隣には、小さな皿に四角い形のクッキーが二枚置かれていた。


「試作品ですが、よろしければどうぞ」


「いいんですか? ありがとうございます」


 私は九条さんに向かってお礼を言うと、まずは淹れたてのコーヒーを一口飲む。しっかりとしていながらも角の立たない苦味と深いコクが口の中に広がっていく。コーヒーを一口飲んだ時の、緩やかに体の力が抜けていくようなこの感覚が私は好きだった。やはり今日はこの店に来て正解だったな、と思いながら目の前に置かれたクッキーに手を伸ばす。

 サクッと一口齧ると程よい甘さとバターの香りが口いっぱいに広がり、思わず顔がほころぶ。


「おいしい!」


 ポロリと出た本音に九条さんはニコリと笑う。


「お口に合ったようで何よりです」


 クッキー自体の美味しさやコーヒーとの相性の良さは勿論ではあるが、でもそれ以上に、そっと差し出された好意が美味しさを倍増させているように感じる。当然その好意は特別なものではないにせよ、傷ついた心をほんの少しだけ明るく照らしてくれる気がした。弱っている時こそ、距離のある人間からの優しさには沁みるものがあるな、と。


「平日いらっしゃるのは珍しいですね」


 カウンターに並ぶリキュールを並べ直しながら九条さんは私に話しかける。


「今月は仕事も結構ゆっくりしていて。今日も早く上がれたのでせっかくだし美味しいコーヒーでも飲んで帰ろうかな、と」


 ここに来た経緯としては大分端折ったものの、まあ嘘ではないなと思いつつ私はそう答える。


「そうでしたか。忙しいとつい見落としがちですけど、一息つく時間は思いの外大切だったりしますよね。ぜひゆっくり充電していってくださいね」


 そう言うと、並べてあったリキュールの瓶を一本持ち、九条さんは店の奥へと歩いて行った。


 それから私は今日の出来事やお盆休みのことをコーヒーを飲みながらぐるぐると考えていた。カフェインの効果なのか、今日の出来事を振り返っても多少の憂いを感じる程度で会社にいたような感情は巻き起こらなかった。

 いくら考えたところでまだ完全に吹っ切れてはいないし、それどころかこの感情をどうするのか目処も立っていない。いや、本当はどうするのかを考えることさえも避けているのかもしれない。明確な答えを出すというのは、思っている以上に体力を使う。いつかは向き合わなければいけない感情を、うやむやに溶かしながらも、今はそれでもいいやと思える程には感情を立て直すことが出来ていた。

 時折九条さんと会話をしながらコーヒーを飲んでいると、気づけば一時間以上経っていて、店内には私の他にも客が数名、各々お酒やコーヒーを楽しんでいた。


「ありがとうございました、お気をつけて」


 その声に私は会釈をし、席から立ち上がる。コーヒーを飲んだにも関わらず、なぜか体が軽くなった気がして、再度、今日ここに来たのは正解だったなと思い返す。案外私は単純だ。

 ドアを開ける直前、入口付近にある小さな棚がふと目についた。そこにはいつも雑貨と共に販売用のコーヒー豆が数種類置かれている。しかし今日はコーヒー豆の横にラッピングされた見覚えのあるクッキーが二つだけ置かれていた。


 ドアを開けると、夏独特の生ぬるい空気が身を包む。じっとりとした空気は気持ちの良いものではないが、夏の夜はどこかワクワクする気がして昔から好きだった。

 想い人に相手がいる以上、ワクワクするような展開は残念ながら期待できそうにはないが、それでもまた当然のように訪れる月曜日を、受け入れて走り抜くことは出来るだろう。


 



 




 






 

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