19

 目を覚ますと、天使が『戦場のメリークリスマス』をエレキギターで弾いていた。

 ……うるさいな。そんな歪ませるなや……でも上手いな、おい。

 天使の部屋に越してきて初めての朝だった。引越しの一部始終はこうだ。


 ぼくの部屋を燃やしたあと、必要最低限の荷物を持って、歩いて天使の部屋までついていった。飛んだ夜が思い出された。

 「着いたぞ」と天使が言うと、何の変哲もない、新しめの重層長屋だった。一階にある玄関ドアを開けると、そのまま階段だけが伸びていて、二階の部屋まで続いているやつだ。海まで続く川沿いの、広い道路に面してその家はあった。

 こんなところ住んでるのか? とぼくは思った。人のことは言えないが。

 お邪魔します……と、階段を上っていくとそこは別空間だった。

 巨大なアトリエになっていた。遠くまで広がっていて、ありとあらゆる芸術作品の工房と化している。照明はレトロな電球が垂れ下がっていて、暖色が部屋を包み込んでいる。外の見える枯れた木枠の窓もいくつかある。

 絵も彫刻も木工や天然石の工芸品も何でも置いてある。それからアンティークが立ち並ぶ。広いが、物があまりにも多くて、ごちゃごちゃした迷路のようだ。そして珍妙な道具類が台に置かれている。

 これも黄泉(よみ)の部屋、今はもうだれも住まなくなった部屋なのだろうか、とぼくは思った。

 そんなこんなで、そのアトリエの壁際に居住スペースをあてがわれた。

 「そこで寝るといい」と天使が言う。

 ……布団も何もないけど? と、ぼくが天使を振り返ってからもう一度そこを見ると、つつましいベッドが置かれていた。

 天使の寝床は物に遮られた遥か遠くにあって見えなかった。天使の部屋は、世界の崩壊とは無縁でいるようにすら感じた。


 こうしてぼくは天使の部屋に移り住んだのだった。そしてそこからは、どんどん日々はおかしくなっていった。


 ある晩カタカタカタカタ音がするなと思ったら、どうやら天使が椅子に座ってタイプライターを打っている。今どき珍しいなと思い、ぼくは後ろから覗いてみた。

 一見したところレトロなアルファベットのタイプライターで、英語なら多少読み書きできたぼくだったが、天使は何やら意味不明な文字の羅列を打ち込んでいる。アルファベットだが……たぶんヨーロッパの言語でもない。

 そしてその文字は、タイプされた順にじわじわ紙の上から薄れて消えていくのだった――。

 事ここにまで及ぶと、ぼくは天使といる時の超常現象の理解はもはや放棄しつつあった。

 それでも聞いた。……何の意味があるんだい?

 尚もしばらくカタカタいわせていたが、やがて区切りのいいところで手を止め、天使は答えた。

 「メッセージだ」と天使は言った。「コミュニケーションの中に人は存在する」

 はあ……、とぼくは言った。……どこと通じるの?

 「愛が」とまたカタカタ打ち出してから天使は言った。「呼ぶほうへ」

 ……ああ、その曲はぼくも好きだよ、とその時ぼくは返した。


 ある時、ぼくが買い物から帰ってくると、天使は部屋のごみを銃で撃って掃除していた。物騒な銃声音とともに、撃たれた粗大ごみは消滅して跡形もなくなっているのだった。

 ……ああ、こりゃまた何てこったいと、感覚が麻痺しきったぼくが聞くと、天使はブラックホールだのハドロン衝突だのと、訳のわからないことを言っていた。「撃つと次元が破れる」

 そして「それももう要らんだろ」と、ぼくの背後にあるかばんに銃を向けてくる。いや、いらんけども。

 「あれも」

 危ねっ。

 「これも」

 おい馬鹿っ。

 「どれも」

 いい加減銃をこっちに向けるなアホッ! とぼくはキレた。

 心外だなという目をして「言葉には気をつけることだな」と天使は言った。「事態を生み、責任が伴う」

 そして、「はじめに言(ことば)ありき」と言いながら、ぼくの観賞用の限定スニーカーに銃を向けていた。

 やめろぅ!


 またある時には、部屋の片隅にある天使の書棚を覗いてみたことがあった。すると思ったよりも彼の蔵書は少なかった。

 パウロ・コエーリョ。

 サン=テグジュペリ。

 ヘルマン・ヘッセ。

 天使は外国の本が好きなようだった。そしてぼくと違い、無駄な本は持たないようにしているようだった。

 知っている映画も何本か置いてあった。

 『ブレードランナー』

 『ラストエンペラー』

 『セブン・イヤーズ・イン・チベット』

 『マグノリア』

 『ショーシャンクの空に』

 ……そしてひっそりと『ベイブ』が置かれているのを見て、ぼくは笑いをこらえた。

 

 アトリエには、彼の描きかけの絵も多々置いてあった。知っている絵の模写もいくつか置いてあった。

 クリムト。

 ピカソ。

 ミレー。

 イギリスの方のミレー。

 それからシャガール。

 ぼくはそのシャガールの絵になんだか引かれるものがあり、画像検索で絵の題名を調べてみた。『オルジュヴァルの夜』といった。青く暗い夜に、天使と花嫁と、暗く夜と同化して目立たない青年が描かれている。そして金の牛がバイオリンを弾いている。なんだか胸に来るものがあった。


 不思議なことはまだまだあったが、挙げればきりがない。


 あるとき、天使の部屋の一角に、スノードームのような球体が飾られているのを見つけた。中はやけにリアルな縮尺をした砂漠で、真ん中にほんのちょっとオアシスが見える。しかし、中の世界では風が吹いて、砂の波紋や木が揺れているのだった。

 「世界を閉じ込めておく玉だ」と、眺めていたぼくの後ろから天使は言った。「おれは写真よりその方がいい」


 ケイコ、元気にしているかい。

 そして、思い出せないだれかも。

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