8
翌日、ぼくは病院に来ていた。きのう、医師にまた来てくださいと言われたからだった。
本当にぼくの頭は空っぽなのか……、それともすべてはまやかしなのか……。
しかし案の定、謎は究明されなかった。ぼくは頭を木魚のようにぽくぽく叩かれるだけで、あらためて診てもらっても特段意味はなかった。
その帰りがけに、病院内で急患がオペ室に運ばれていくのを見た。ぼくと同世代とおぼしき若い男性が、ストレッチャーに乗せられて緊急搬送されていった。付き従う医療スタッフの会話は、冷静かつ職業的で手慣れていた。きっと、よくあることなのだろう。その後ろを幼い女の子が追っていった。
よくあること。だれにでも降り注ぐ。
そして仕事の後、ぼくは集合場所に指定されたファミレスに行った。きのう組んだバンドの打ち合わせが開かれるからだった。
ケイコが来て天使も揃い、三人でデザートのガス臭いマンゴーを頬張りながら、今後の段取りを決める。
まずはケイコの身の上話を聞いた。
ふだん写真館で勤務する彼女は、自分の歌いたい歌を作詞作曲しては、ライブハウスで披露している女の子だった。ケイコはトミー・ヘヴンリー・シックスや、ミッシェル・ガン・エレファントに憧れていた。
「客前でやるのがたまんないの」とケイコは言う。
ライブで歌うその瞬間になれば、嫌なことをすべて忘れられるという。しかし、以前の彼女は、精神が安定しないことが多かったようだ。他人に傷つけられたり嫌なことがあって塞ぎこむと、ケイコは自分を傷つけた。
物理的に。
ある日、捨てられた男の置いていったギターで、スリーコードの曲を通して弾けるようになったとき、彼女にはまったく違う世界が開けた。そしてケイコは、ギターと一緒に歌う歌の中に「生きている感じ」を得たのだった。
ケイコは恥ずかしながら一度駅前で歌ってみてからは、人前で歌うことに味をしめた。さらなる脚光と、やり場のない感情の捌け口を求め、ライブハウスのステージにも立つようになった。
スポットライトに当たる機会が増えるにつれ、ケイコの感情の起伏は激しくなっていった。彼女は躁鬱(そううつ)状態に陥った。
鬱(うつ)からは歌って抜け出せたが、逆に昂(たかぶ)りすぎた状態からケイコは元に戻れず苦しんだ。高まっているときの、頭のオンエア状態がいつまでも終わらない。ウワンウワンと鳴り続ける。
するとケイコは、音楽関係のアングラな伝手(つて)からシンナーなどダウナー系の薬物について知り、それに依存していった。こうして彼女は再びぼろぼろになってしまった。
ある夜シンナーがキマり、あ、このまま逝けるかもと思ったケイコは、包丁を手に新しい傷をつくった。痛くなかった。その場にへたり込み、やがて床に広がる血。恍惚としてくる。
「はあーこうして終わっちゃうのかー」
とそこへ、だれかがドアを開けて入ってくる。自分の家かのごとく澄ましてすたすたとやってくる――。
「やあ」と、暗い部屋で光りながら天使が言った。
「……あ、天使さん」と朦朧(もうろう)としたケイコが言った。
こうして二人は出会った。
「……お迎え?」とケイコが聞く。
目だけで微笑む天使。「まだ」
「……何の用?」と消え入りそうになりながらも訝(いぶか)るケイコ。
天使は尋ねた。「君はまだ立ち上がれそうかい?」
「……」ケイコは無言だった。
「立ち上がりたいかい」
「……」
考えた末に、ケイコは「はい」と返事した。
天使は「そうか」と言って目で微笑みながら、ゆっくりと瞬きをした。
「…近々(ちかぢか)バンドを組みたいんだが」と天使が言う。「お手はすいているかな」
「! いま手がこんなんなっちゃって……」とケイコが見せると、手首の傷は塞がっていた。
「ほっ…!」と、ぎょろ目をさらに引ん剥(む)くケイコ。
目だけで微笑む天使。絶妙な沈黙が流れる。
「バンドではできれば歌と一緒に…」と天使が言いかける。
「はい歌えます!」とケイコは食って答えた。
「よし」と天使は言った。「では今からオーディションを行う」
すると天使はベッドに立てかけてあったアコギをケイコに手渡した。
「リクエストは何にします?」と逆にケイコが聞き、ふむと考えた末に天使は答えた。
「『ゲット・アップ・ルーシー』」
ケイコは複合的な理由で医者には通いたくなかった。金銭的にも、自分が恥ずかしいという気持ちからも。
しかし死ぬ間際、自分は何がしたいと真剣に考えたとき、彼女はあらためて人に歌を聴かせたいと思った。こうして彼女は今、最後のぎりぎりの命を燃やしているところだった。
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