42 本の妖精

「では、夏休みには本の読み聞かせの会を開くことにします」


 自治会の会合でそう決まり、私はちょっと困ったなと思った。

 なぜなら私は読み聞かせというのをしてもらったことがないからだ。


「小さな頃、お父さんやお母さんに読み聞かせをしてもらったことを思い出してやってもらえば簡単だと思います」


 自治会長が得意そうにそう言うが、読んでもらったことも読んであげたこともない私にできるんだろうか。


「やってもらったことないの?」

「ええ」

「へえ、学校でもそういう時間あったし、みんなあると思ってた」

「ううん、ないの」

「そういえば私もした記憶がないわね」


 遊びに来ていた母もそう言う。


「そうなんですか」

「ええ、何しろ気がついたら自分で読んでたから」

「え、なにそれ」


 夫が驚いてこちらを見る。


「よく分からないけど、気がついたら本を読んでたみたい」

「字の勉強とかせずに?」

「ええ」

「そんなことあるんですか?」


 今度は母に尋ねる。


「本当なのよ。気がついたら近所の年上の子たちにまで読んであげててびっくりしたわ」

「へえ」


 私は本の好きな子供だった。

 それも本さえあればいいという本の虫レベルの。


「その分ちょっと内向的で心配はしたけどね」


 母は昔のことのように言うが、今も人前で話すのは得意ではないし、人前で何かをやったという経験もほとんどない。


「だから人の前でそんなことできるとは思えなくて」


 思わずため息が出てしまう。


「自分が読んでるつもりで読んでみれば」

「それでちゃんと聞いてくれるかしら」

「それより、なんでそんなことすることになったの?」


 母が気がついたように聞いてくる。


「夏休みには親が仕事で家に一人になる子がいるでしょ? それで家にいる人が交代で公民会に当番で行くことになったの」

「へえ」

「うちは私が専業で、まだ子供がいないからぜひって。時々子供の様子を見るだけならと引き受けたんだけど、まさかそんなことまでしないといけないなんて」


 またため息が出る。


「じゃあ顔見知りの子ばかりでしょ、大丈夫じゃない?」

「そう言われても、みんなの前で声を出して本を読むのよ?」

「でもそれだけのことだし大丈夫なんじゃないの?」


 夫がそう言って笑うけど、「それだけのこと」がどれだけ重くのしかかっているか。


「とにかく決まってしまったのだから、なんとか練習してみるわ」


 それから時間を見つけては絵本を持って声を出して読もうとするのだが、目で文字を追えても口に出そうとするとなかなかうまくいかない。


「そういえば国語の音読も苦手だったなあ」


 嫌なことを思い出してしまった。

 授業中にいつも当たりませんようにと小さくなっていて、それでも当たると冷や汗をかきながら必死で読んだものだった。


「なんだかますます嫌になってしまったわ……」


 そうこうしているうちに夏休みになり、明日はいよいよ当番の日となってしまった。


「うん、前よりよくなってるんじゃない? 大丈夫だよ」

「そうかしら」


 夫に聞いてもらったのだが、自分ではあまり進歩したとは思えない。


「声も小さいし、棒読みになってしまうし」

「仕事でやるわけじゃないし、子供たちだってそんなに真剣に聞いてないだろ? 時間つぶしのつもりでやっておいで」


 そしてとうとう当日になってしまった。


「では、今から本を読んでもらいます。お願いします」


 今日は運悪く自治会長と一緒に当番になってしまった。

 元学校の先生だとかで、結構いろいろ厳しい人なのだ。

 つっかえたり、読み間違えたりしたら後できっと何か言われるんだろうなあ。

 

 ますます憂鬱になりながら絵本を持って子供たちの前に座る。

 心臓がドキドキして声が上ずりそうだ。


 パラリと絵本を開くが、


(どうしよう、なんだか文字が記号みたいでうまく読めない……)

 

 本を開いたもののなかなか読み出さない私に子供たちがざわざわとし、自治会長は厳しい顔でこっちを見る。


(どうしよう、誰か、誰か私に読み方を教えて、助けて)


 心の中でそう叫んだ時、


(あ……)


 絵本の文字と文字の間から、蝶々のような小さな羽の生えた子供がふわりと浮かんで出てきた。

 目でこちらを見てにっこりし、大丈夫よと心の中に話しかけてくれた。


 その途端、文字の一つ一つがまるで音楽のようの頭の中に流れ込み、自然に口から流れ出ていた。

 

 楽しい場面は楽しく、悲しい場面は悲しく、抑揚をつけて流れ出る物語に、子供たちも目をキラキラして夢中になってくれた。


「……ということでした、おしまい」


 わあっと歓声があがり、パチパチと拍手の渦が公民館に広がる。  

 自治会長もニコニコして手を叩いている。


 思い出したのだ。

 私に本を読むことを教えてくれた妖精のことを。

  

 まだ何が書いてあるかも分からない絵本を広げて、どうしていいか分からなかった私に、今日のようにふわふわと妖精が現れて読み方を教えてくれたのだった。


 すっかり忘れていたけれど、きっといつも本を読む時にはそばにいてくれたのね。

 そして、あの時のように読めなくて困っている私のことを助けてくれて、また読み方を教えてくれた。


(ありがとう、そしてまた会えてうれしかった)


 本のページに目を落とすと、文字と文字の間がキラキラと光って喜んでくれているようだった。

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