Suicide&Melancholy

榎本 杠

Suicide&Melancholy

__例えばそれは、四季を彩る花々の色。雨とアスファルトの匂い。生命の象徴のような蝉の声。それから、枯葉のぱりぱりとした感触。

時の移ろいを示すようなその感覚が好きだった。


春とも夏とも言えない、季節が迷子になったような時季。僕は自室の小さな椅子に腰かけて、ただぼんやりとしていた。ベッドの脇に置いてある時計だけに音があった。


碧い栞、紅いビー玉。引き出しには色とりどりの宝物。


いつからこれらを集めていたのただろう。数日前かも知れないし、数週間前、いや、数ヶ月前だったのかも知れない。数年前ということも有り得るかも知れない。


詰まる所、まったく覚えていないし、どうでも良いことなのだった。


__ただ、長いながい夜を埋める、なにかが欲しかっただけなのだ。



***



"立ち入り禁止"と書かれた錆まみれの古い立札を横目に見ながら、僕はその扉を開けた。真っ先に僕を出迎えた突風は、快と不快のちょうど真ん中にあるような、なんとも言えない感覚をもたらした。いつの間にか上着に乗っていた何かの花びらを払いながら数歩。フェンス越しの小さな町を眺めた。


途中から階段で登ってきたせいで、少し息が上がっている。8階のビルの屋上。今この瞬間の僕の命は、花びらより軽い。


雲が夕日を隠した。あたりが少しだけ暗くなる。


ところどころ塗装の剥がれたフェンスに手をかけ、このままこれを飛び越えてしまおうか、と考える。フェンスはそれほど高くはない。飛んでしまえば、きっと、それだけだ。


「『しかしこの「すれば」は、いつまでたっても、結局「すれば」のままであった。』」


不意に、真後ろから声が聞こえた。そのフレーズは、確か。


「……芥川龍之介、『羅生門』」


「ぴんぽーん、大正解。ねぇ、やめなよ、飛ぶの」


振り返る。僕のちょうど1mくらい後ろに、セーラー服の少女が立っていた。セミロングの黒髪をまっすぐに下ろしている、整った顔立ちの少女だ。年齢は僕と大して差がないように思えた。恐らく17、18といったところだろう。


「……下人は生きるための『する』選択を決めかねていたんだ。僕に対して、その言葉は……何というか。下人に失礼だ」


僕がそう言うと、セーラー服の少女は、「あははっ」と声を出して笑った。気持ちの良い笑い方だった。


「きみ、面白いね。うーん、あれだ。『雨にもまけず、風にもまけず』、生きていけば、きっと良いことがあるよ」


「宮沢賢治、『雨ニモマケズ』。僕はそんな良い人間にはなれないよ」


セーラー服の少女は、今度は声を出さずに笑った。少し経った後、少女は僕を見つめ、口を開いた。


「私は、佐倉さくら。佐藤とか佐々木とかの佐に、倉庫とかの倉で、佐倉。きみは?」


「僕は__たちばな


セーラー服の少女__佐倉は、僕の腕をくい、と引っ張った。


「そっちは危ないよ。こっち」


引かれるままにフェンスから離れる。僕の腕をつかんでた腕はすぐに離れた。彼女はどこか満足げだった。


「あーあ。ここから飛べたらよかったのに。『ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん』ってさぁ」


冗談まじりに僕がそう言うと、佐倉は眉をひそめた。


「中原中也、『サーカス』。それ、ブランコの擬音語でしょ」


「似たようなものだよ」


「そうかなあ」


気の抜けたやり取りにどこか可笑しくなって、ふたりで笑った。再び夕日が差し込んであたりが朱色に染まった。生温い風が吹く。ここに入ってきたときと同じような風だった。でも、今は不思議と心地良いものに感じられた。


少しずつ闇に包まれていく景色が、時の流れを感じさせる。


「__もう、帰らないと」


ぽつり。呟くと、佐倉はにっこりと微笑んだ。


「うん、それがいいよ」


屋上のドアを閉める直前、佐倉は言った。


「またね、橘くん」


ひょっとしたら、明日もここに来ようと思っていたことは、佐倉にはお見通しだったのかも知れない。



翌日。例の扉を開けると、予想に反して佐倉はいなかった。なあんだ。肩透かしを食らったようで、少し悔しくなった。数歩。昨日と同じ場所へ。雲一つない快晴で、夕日が眩しかった。


小さな街を眺めていると、ガチャ、バタン、と扉が開いて閉じる音がした。僕はあえて振り返らない。昨日は、この音に気付かないほど考えに耽っていたのだろうか。


少しの沈黙。

この静けさは、居心地が悪くない。__そんなことを考えていると、突然、佐倉が口を開いた。


「『橘君。君は、よくやった。』!」


やけに勢いの乗った佐倉の声に若干面喰らいながらも、僕はお約束になってきた返答をした。


「太宰治、『織田君の死』」


「えー、これも知ってるのかぁ」


あれは確か、太宰が病死した友人、織田作之助を思って書いたものだったはずだ。友人とはいっても、数回会ったくらいだったらしいが。太宰と織田の関係は、今の僕達の関係と似ているような気もする__いや、それは考えすぎだろう。


「そもそも、僕はまだ飛んですらいないのだけれど」


「知ってるよ。きみが今日は飛ぶ気がなかったことも」


振り返る。吸い込まれそうな黒い瞳が、まっすぐに僕を見据えていた。何となく目をそらす気にもなれなくて、数秒間、じっと見つめ合う。意志の強そうな瞳だな、と思った。


佐倉はくるりとまわって背を向けた。


「ねぇ、きみはさ。昨日、どうしてここに来たの。どうして、飛ぼうと思ったの」


責めるような声色ではなかった。揶揄からかうようなものでも、純粋な興味から来るものでも、どうやらないらしかった。あえて言葉にするなら、慈しみ、といったところだろうか。色に例えるなら、桃色や蜜柑色のような。


僕は風に揺れる佐倉の髪の先の方を見ながら口を開く。


「『えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終おさえつけていた。』」


「梶井基次郎、『檸檬れもん』だね。つまり、鬱、とかそういうもの?」


僕は否定も肯定もしなかった。する必要がないと感じたからだ。佐倉はまたくるり、と振り返って、こちらへ向き直った。


「ねぇ、変なこと、聞くけど、いい?」


「変なこと、ってわかってるなら聞かなきゃいいんじゃないかな」


「きみさ、将来の夢ってある?」


「本当に変な質問だね」


佐倉は一言で表すなら、"変な人"だな、と思った。廃ビルの屋上にいる奴に、将来の夢を聞く人がいるなんて、流石に思わなかった。


人のプライベートにずかずかと入ってくるくせに、不快感はほとんど感じさせないのだから、佐倉は不思議だ。佐倉とこのまま会話を続けていたら、そのうち僕の今まで生きた17年と138日分を全て話してしまいそうだ。繰り返すが、嫌な感じは1つもしない。僕は存外、この佐倉という謎めいた人間が嫌いじゃない。


「あるよ。いや、あったよ、夢」


ため息をひとつ。観念した僕がそう告げると、


「ふぅん、何かな。……あ、そうだ。当ててみようか」


と、いかにも楽しげに笑った。3秒。佐倉はたっぷりと考え込むような仕草をした後、びし!とひとさし指をこちらに向けて、


「ずばり!きみの夢は、小説家でしょう!」


と、いかにも自信ありげに宣言した。僕は素直に感心する。


「へぇ。すごい。正解」


「いやぁ、ここまで話してたら流石にわかるよ。きみさ、最近流行ってるライトノベルとかじゃなくて、文学小説を書きたいんでしょ。日本の文学、やけに詳しいもんね」


「やけに、は余計だけど。……まぁ、それなりに勉強したからね。佐倉も、小説家に?」


佐倉も文学に詳しいようだった。ひょっとしたら、という希望を抱いて聞いてみる。


「あー、いや、これは私の趣味。小説も、詩も、好きなんだ」


「……へぇ、いい趣味だね」


「でしょ。日本文学は後世に残すべき遺産だよ」


「……そうだね」


僕が肯定すると、佐倉は嬉しそうにうんうん、と頷いた。


お互いのかつての夢も、趣味も、否定しなかった。それが心地良い。佐倉が数歩あるいて、僕の右隣に並んだ。もう少しで夕日が全て落ちそうだ。電線にとまった黒い鳥が、カァ、と気の抜けた声で鳴いた。


「小説家、ね」


不意に、髪を左手で耳にかけながら、佐倉が零した。


「いいんじゃないかな」


ふわふわとした、曖昧な肯定の言葉だった。


なりたいもの、なりたかったもの、でも何度も否定されて、結局は諦めたもの。


__ある。いや、あったよ。夢。


たったワンフレーズに込められた微妙なニュアンスも、僕の感情でさえも、全てくれるような、そんな言葉だった。


「……ありがとう」


自然と零れた感謝の言葉に、嘘偽りはなかった。


「私は、何もしてないよ」


佐倉が目を伏せた。その表情に、瞳の色に、込められた意味を汲み取ることは、今の僕にはできなかった。


「暗くなってきたね」


「うん」


佐倉は一度きゅっと目を閉じて、すぐにぱちりと開き、微笑んだ。


いつもの佐倉だった。


「さあ、良い子は帰る時間だよ」


「そうだけど。佐倉は__」


「まぁまぁ。私のことは気にせずに、帰りたまえよ、少年」


どこか茶化すような佐倉の物言いにに少し引っかかりを覚えたものの、僕は渋々了承する。


「……はぁ。わかったよ」


「よろしい。私が見送ってあげよう」


そう言うと、佐倉は僕の肩を押して扉の方へ移動させた。


「じゃ、ばいばい、橘くん」


「……ばいばい、佐倉」


佐倉が小さく手を振っていた。夕日のせいで表情は見えなかった。



***



__私にとって屋上ここは、終わらない現実悪夢から逃れるための場所だ。


いつもの廃ビルの、屋上への扉を開けようとしたとき、なんとなく人の気配がした。店も事務所も入っていないこのビルがなぜ封鎖されていないのかは謎だが、それなりに高さのあるこの場所には、しばしば自殺志願者がやって来る。


__まぁ、私も例外ではないのだけど。


とりあえず刺激しないように慎重に扉を開ける。音はほとんど出なかった。案の定気づかれなかったようで、先客はフェンスの向こう側を見ているままだった。私と同じくらいの年齢の男の子だ。


実を言うと、この場所で飛ぼうとしている人を止めるのは、これが初めてではない。つい1週間前も、中3の男の子を止めたばかりだ。名前は何だったっけ……そうだ、教えてもらえなかったんだ。


結局、あの男の子は自分の名前を告げる前に、ここに来なくなってしまった。


いつもそうだ。勝手に救われて、勝手に傷つけて、傷ついて。人というイキモノは、ひとりの例外なく皆、自己中心的だ。


そうして、また私を置いていく。


私だって、救われたいのに。


どうか、この男の子が救われますように。

心のどこかではそう思っている自分に苦笑しながら、私は先客に声をかけた。



「『しかしこの「すれば」は、いつまでたっても、結局「すれば」のままであった。』」



ねぇ誰か、私を助けてよ。


もし、また救われないのなら。その時は、もう__



***



その日、いつもと同じ階段を登る僕を急かしていたのは、言いようのない不快感だった。


大げさに言うなら、世界が滅ぶか否かを自分の決断ひとつに託された主人公のような。


あえて安っぽく言うなら、それは"嫌な予感"と呼ぶべきである、不安とも、焦燥ともとれる、"何か"だ。


今、僕が何かを間違えたら、二度と佐倉に会えなくなる。曖昧なその予感は、一歩進むたびに輪郭を持った確信へと変わっていく。……だって、そもそも。


__こんな廃ビルに来る理由なんて、ひとつしかないのだから。


「……佐倉!」


無理な運動に悲鳴を上げる身体を無視して扉を開ける。


果たして。


僕の予感は。


__間違ってはいなかった。


「やぁ、橘くん」


こちらに背を向けたまま、佐倉が呟いた。間に合ってよかったと、少しだけ安心する。佐倉に近寄りつつ、二言目を紡ごうとして、気づいた。


佐倉はフェンスの向こう側にいた。


僅かな足場から一歩でも踏み出してしまえば、遮るものは、ない。


「いい、天気だね」


空を覆いつくす灰色を見ながら、佐倉は言った。その言葉には、淡い哀情の色。それでも、その奥にほんの少し混ざった、あたたかな安堵の色に気付かされて、僕はなぜだか泣いてしまいそうになった。


「何の冗談?ねぇ、」


こっちに戻ってきてよ。


その言葉は、音にはならなかった。僕より先に、佐倉が呟いたからだ。


「__『恥の多い生涯を送ってきました。』」


「太宰治、『人間失格』。失格だなんて、そんな、」


そんなこと。


「『自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。』」


そんなこと、言わないでほしい。


自分のことではないのに、胸がちくちくと痛くなった。佐倉の言葉を全て理解できるわけではない。きっと、僕が佐倉について知っていることなんて、1割にも満たない。


それでも佐倉を助けたいと思う。__たとえそれが、ただのエゴだったとしても。


本当に気持ちを自分の言葉にすることが苦手で、不器用な人。僕たちは、まるで鏡に映った自分のようにそっくりで、理想と現実くらいかけ離れている。


突き詰めていくと、僕の"本音"は意外とシンプルだった。


救いたいんだ。救われたから。


数歩。佐倉のすぐ近くまで歩いていく。ぴしゃり、と水たまりが音を立てた。


「佐倉」


「なぁに、橘くん」


佐倉がゆっくりと振り返った。透き通った黒い瞳は、なにかに耐えるように揺れている。それは、きっとこの世のどんなものよりも儚く、美しい。

車の音も、鳥の声も、消えていた。


世界から、僕たち以外がいなくなったみたいだ__なんて陳腐な表現が頭をよぎった。


ありふれた言葉だって、存外、悪いものじゃない。


伝えよう。自分の、言葉で。


「僕、小説家になることにしたよ」


「……」


佐倉が虚を突かれたように目を丸めた。そりゃそうだ。僕は今、昨日の佐倉に引けを取らないほど変なことを言っている。


もし、僕の言葉で、佐倉を止めることが出来なかったら。そんな想像に、背中がじわりと冷や汗に濡れた。とくん。心臓が脈打つ。


「佐倉に一番に読んでほしいんだ。僕が書いた小説を」


佐倉が、僕の夢を、肯定してくれたから。

もう少しだけ、頑張ってみたいと思えた。


佐倉は何も言わなかった。でも、このまま僕が話していてもいいのだと、その瞳が伝えてくる。


「こっちに来てよ。そしてさ__」


僕はぎこちなく笑った。不器用な笑い方かもしれない。それでも、佐倉になら伝わる、と、僕は心のどこかで知っていた。


「僕と、友達になってよ」


フェンスの向こうの、セーラー服の少女に手を差しのべる。


「あはっ」


不意に、佐倉が笑った。一番最初、僕達が出逢ったときみたいな、含みのないそれだった。


「あはははっ!なぁに、それ、プロポーズ?」


「……」


思わず頬が熱くなる。勢いに任せて結構恥ずかしいこと言ってないか?僕。穴があったら入りたい。


「そんなに熱烈にプロポーズなんてされちゃったらさぁ」


佐倉が僕の手を取る。「よっ」なんて声を出しながら、軽々とフェンスを乗り越えた。


「受けないわけには、いかないじゃない!」


にっと佐倉が笑う。心底楽しそうだった。安心とか、恥ずかしさとか、その他諸々の気持ちの整理がつかなくなって、僕は思わずその場にへたり込みそうになった。


「……プロポーズなんかじゃ、ないよ」


「ふふっ、そうだねぇ。友達になってよ、だものねぇ」


「……うるさい」


「録音でもしておけばよかったなぁ」


「それは本当にやめてください」


「でもね」


佐倉の声が1トーン低くなった。


「嬉しかったのは、本当だよ。ふふっ、これで私は橘くんのファン1号だね」


照れくさくなって、僕は目をそらした。


「ありがと、ね」


それは、何に対する感謝なのか。聞くのは野暮だと思った。


雲が少しだけ切れて、空の一部分にだけ光がさしていた。確か、天使の階段とか、そう呼ばれているものだったはずだ。ひどく幻想的な風景だった。


「次は、屋上ここ以外で会いたいね」


「そうだね」


佐倉が僕の視線を追いかけるように正面に移動して、「はい」と右手を差し出す。


「よろしくね、橘くん」


僕も右手を出して、佐倉と握手した。


「よろしく、佐倉」


握った手は、少しだけ暖かかった。


END

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