同情

「わたしは、逃げてきたんです。父さんが、急におかしくなってしまって……」


 眉根を下げたそいつは声を低くして続ける。


「数週間ほど前から、父がわたしの髪を鷲掴みにして振り回したり、顔に唾を吹きかけて笑ったりするようになりました。今までこんな訳のわからないことをしてくるなんて、一度だってなかったのに……」


 苦々しい日々を思い浮かべているのか、そいつの顔が苦しそうに歪んでいた。


「父さんといたら、私までおかしくなってしまいそうでした。それで父さんが来ないところへ逃げているうちに、皿がすっかり乾いてしまって……」


 へら、と自虐的な笑みを浮かべたそいつはうな垂れた。


 タカシは何故そいつの父は、急に狂ってしまったのだろうかと考えていた。妖怪も人間と同じように精神に病んで気が狂うということがあるのだろうか。

 ひょっとしたら妖怪の世界でも、それなりにストレスが蔓延っているのかもしれないとタカシは空想に耽った。


 妖怪の世界にもメンタルクリニックのようなものがあればいいのに……。

 タカシ自身、不眠症でメンタルクリニックに通っていたのもあり、自然とそんな考えが浮かんできた。


「おまえ、辛かったんだな……」


 身体、精神ともに衰弱しきったそいつに対し、沸々とタカシのなかに同情の念が湧き始めていた。とは言っても助けてやりたい気持ちが芽生えたところで、そう都合よく水など持ち歩いてはいなかった。


 駄目もとで水の代わりになりそうな物が入っていないだろうかと鞄を漁っていると、奥まった所に小ぶりの缶が沈んでいるのに気が付いた。

 そういえば三、四日ほど前に彼女が「ブラック飲めないのに上司が奢ってきた」と、缶コーヒーを押し付けてきたことを思い出した。


「コーヒーしか持ってねえんだけど……」


 タカシは缶をそいつの目の前に差し出してみる。


「なんでもいいんです。どうかそれを皿にかけてくださいませんか」


 泣き出しそうなぐしゃぐしゃの顔で缶コーヒーに手を伸ばすので、タカシは慌ててプルタブを引き上げた。

 頭の皿へコーヒーをなみなみ注いでやりながら、慎重に様子を伺ってみる。


「どうだ……?」

「ぁあっ、にがッ。にがい」


 口をパクつかせながら、そいつは急に泡を噴いて苦しみだした。

 そして皮膚が、黒――ブラックコーヒーの色へと変化していく。


 激しく身悶えする姿に居た堪れなくなったタカシは、赤子ほどの身体を抱き上げ、自分の家へと駆け出した。

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