あの約束の場所に帰ろう……。

「――真美っ、しっかりしろ!! いまお兄ちゃんが身体を温められる場所まで連れて行ってやるからな、それまでは我慢してくれ!!」


 背中に感じられる彼女の身体はとても冷たく、押し付けられた胸はまるで呼吸をしていないように思えて僕は半狂乱になりながら真美の名前を呼び続ける。真美を背負ったまま本殿横にある集会場の建物を目指して僕は走っていた。先ほどまでの天気雨は既に止んでいるが、雨に濡れた境内の玉砂利が滑って何度も転びそうになってしまう……。


「ま、真美っ、返事をしてくれ!! 陽一お兄ちゃんだよ。僕の声が聞こえないのか!?」


 こんな結末を絶対に望んでいない!! 彼女の中から負の感情は全部消えたはずなのに……。僕の大好きなあの笑顔を見せてくれた瞬間、すべてが巻き戻り上手くいったと思ったのは間違いだったのか!? 


「お狐様よ、約束をしたんじゃないのか!? 大人の真美を守ってくれるって!! 命まで持っていくなんて僕は聞いていないっ!!」


 泣き叫んだって仕方がないのは自分が一番良く分っている。だけど声を上げずにはいられなかった……。


 走る僕の身体の上下動に合わせて肩越しの真美の頭が力なく前後に揺れる。過去を変えて彼女を救い出すなんて最初から無理だったのか!? 急速に背中で消えていく生命のともしびが、まるで消えかけたロウソクのように思えて最悪の結末を覚悟した。見えざる神様の気まぐれに僕たちは踊らされていただけだったのか!?


「まみっ、死ぬな!! 僕を残してお前は逝っちまうのかよ!? そんなことは絶対に許さないぞ。ちくしょう、僕たちは結婚する約束じゃなかったのか!? 約束を守らない奴は針千本はりせんぼんを飲まなきゃ駄目って言ったのは真美、お前なのに……!!」


 先ほどまで僕の肩にまわしていた彼女の腕が力なくほどけた。一番信じたくない最悪の結末を突きつけられ、これまで自分の中に張りつめていた緊張の糸がぷつりと切れた……。


「あ、ああああ、ま、真美っ!! まみっ!! 戻ってこい、頼むから返事をしてくれ。今すぐ針千本はりせんぼんでもマンボンでも飲んだって構わない。だからお願いだよ、僕を置いていかないでくれ……」


 取り返しのつかない現実に打ちのめされて、その場に膝から崩れ落ちてしまった。こみ上げる嗚咽を抑えることが出来ない。背中に感じる身体の重みが何倍にも感じられ、さらに残酷な追い打ちを僕に仕掛けてくる。


「……おいっ、聞こえているか、お狐野郎!! 境内の何処かに隠れているんだろう!? 僕の無様な姿を見て楽しんでるのか!? お前は絶対に良い神様なんかじゃない。いますぐに真美を生き返らせろよ!!」


 鬱蒼うっそうと辺りを取り囲んだ木々の枝が風に揺れる音だけが境内に響き渡った。あれほどうるさく鳴いていた蝉の声もまったく聞こえなくなった……。


「ちくしょう、何のために僕はここまで来たんだ!? けっきょく真美を救い出すことは出来なかった!! それどころかもっと最悪の結末じゃないか。なあ、誰か答えてくれよ……」


 どす黒い虚無感が全身を支配する。ぬぐっても消えない群青の蒼にむしばまれた瞬間、やっと理解した。ああ、これは絶望の深い青色だったんだ……。過去の記憶を消されてもなお断片的にこびりついた残滓ざんし。たとえループを何周して過去をやり直しても無駄なあがきだと僕の深層心理が警告しているサインだったに違いない。


「……なっ!? ま、真美っ!!」


 不意に自分の首筋に何かが動く気配を感じて、もしかして彼女が息を吹き返したんじゃないか!? そんな僕の淡い期待はすぐに打ち砕かれてしまった。


「ミャア、ミャア!!」


「なんだ、お前か、驚かせるなよ……」


 上着の胸元に入れていた子猫か!? 安堵と落胆がない交ぜになる。こちらのあごを子猫がざらざらとした舌で舐めてきた。小さな頭を懸命に持ち上げながら涙の軌跡でぐちゃぐちゃになった僕の頬まで舐める勢いだ。そのまま器用に爪を洋服に引っ掛けながらよじ登った子猫の行先は……。


「まるで眠っているみたいだろ? でもごめんな。お前を大切に可愛がってくれた真美はもういないんだ。せめて彼女の言うとおり名前を付けてやれば良かったな。ムギって名前。それなのに僕は、何でそんな簡単なお願いを聞き入れてやらなかったんだろう……!!」


 僕の肩越しにうなだれたままの真美の横顔はとても穏やかで、眠っているだけだと思い込みたかった。だけど子猫が彼女の頬をいとおしそうに舐める仕草にもまったく反応しない。


「もう遅いかも知れないけど君が付けてくれた名前で呼ぶよ。……なあムギ、僕と一緒に行ってくれないか。あの約束の場所に真美を連れて」


「ミャア、ミャア!!」


 そうだ、無駄だと分かっていても最後にやらなければならないことが残っている。子猫の頭をそっと撫でて自分の懐に入れてから上着のジッパーを閉じた。見据える視線の先に映る風景は稲荷神社に到着した時のような消失を解いていた。に続く道がはっきりと見渡せる。まるで長いあいだ不在だった飼い主の到着を待っていた忠犬のように、相棒のトレーシーが大きな赤い鳥居の向こう側で僕と真美を無言で出迎えてくれた。



「トレーシーもお前の到着を待っていてくれたみたいだ。真美、僕と一緒に帰ろう……」


 村一番高い柿の木の下に真美を連れていこう。きっとその場所で彼女の魂は待っているんだ。そう、僕が来るのをいつまでも待っているはずだから……。


 一歩、また一歩、境内の玉砂利を踏みしめ雑念を払うように前だけを見据えた。力なくうなだれたままの真美の右手に自分の左手を重ねる。彼女の手は氷のように冷たくこわばったままだった……。ゆっくりと開かせた指先からこぼれ落ちた何かが軽い音を立てながら鳥居下の石畳に転がった。


「何だ、これは!?」


 真美は手の中に何を大事そうに握りしめていたんだ……!?


『――陽一お兄ちゃん、私の声が聞こえている?』



 次回に続く



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