きみの背中に翼が見えた日、僕は最後の旅に出る。

「――なあ、真美。教えてくれないか? どうしてこんなふうになっちまったのかなぁ。僕はお前の……。その屈託くったくのない笑顔を守りたかった。ただそれだけだったのに!!」


『私はここにいるよ!! あのお稲荷さんのある神社でお兄ちゃんは約束してくれたよね。大人になったら必ず迎えにきてくれるって……』


 日葵ひまりに知りたくなかった現実を突きつけられても、まだ幼い真美の声は消えなかった。

 僕はたまらず両手で耳を押さえ、すべての幻聴を遮断する。

 ごくり、と生唾を飲み込む喉の音だけが頭の中で大きな残響になった……。


「陽一お兄ちゃん、気を確かに持って!! 過去から逃げるのはもう終わりにしようよ……」


 固くふさいだはずの指の隙間から、日葵の悲痛な叫び声が僕の耳に届いてしまう。

 その声に観念して僕はゆっくりと両手を降ろした。


日葵おまえもさぞかし満足しただろうよ!! これが過去に囚われた無様ぶざまな結果だからな。みっともない兄貴の姿が見られて面白かったか? もっと僕のことを笑えよ――!!」


 自分で勝手に作り上げたはずの真美の幻影まぼろし。それを一刻も早く消し去りたい一心で、僕はたった一人の大切な妹にむかって、最低な言葉を投げかけてしまう。

 一瞬で日葵の顔色が変わる。その絶望の色に僕は越えてはならない言葉の境界線ボーダーラインを遥かに逸脱いつだつしたことにやっと気がついた。


 あの神社で真美に投げかけた最悪の言葉と同じじゃないか!! 

 激しい後悔が僕の心を限りなく黒に近い蒼色ブルーで覆い尽くした……。


「……よ、陽一おにいちゃん、日葵もこんなことは言いたくはないよ!! だけど失った過去への後悔が強いほど本当の真美ちゃんに会えない理由わけがあることに気がついて!!」


 その場に崩れ落ち泣き叫ぶ妹の言葉に、はっ、として息が止まる。

 これまで日葵が守るように、こちらの視線からさえぎっていた真美の姿がはっきりと見えた。

 これは最悪のルートに向かっているのか!? 


 僕のなかの幻影真美はまだ消えない……。


 あの夏、村一番の柿の木。その頂上てっぺんからみた景色と同じ色だ。

 僕の原風景に焼き付いた群青のあお。そして照りつける暑い夏の陽射しが、その深い蒼色を明るい水色に変化させる。川面を吹き抜ける風が作り出す波紋とともに……。


 彼女がお気に入りだったワンピース。その狂おしいほどの懐かしい水色がシンクロした。

 大好きな幼馴染み。すべての夢から僕が醒めてしまったら、この女神像のある場所から、その存在は消えてしまわなければ絶対におかしいはずなのに……!!


 彼女はまだ存在していた。


 父親との思い出の南京錠を大事そうに抱えながら、防護フェンスの前で変わらぬ可憐な少女の姿のままで佇んでいる……。


「そんなことぐらい最初から気がついているに決まってんだろ!! 真美があの夏の日に僕の前から消えちまったことぐらい!! いや、消えたんじゃない。ああ!! はっきりと言ってやるさ、彼女は死……」


「陽一お兄ちゃんっ!! それ以上は言っちゃ、駄目っ――!!」


 日葵のつき刺すような鋭い叫び声に、僕の言葉は途中でさえぎられてしまった……。

 だけど、この湧き上がるような怒りを自分でも抑えることが出来ない。

 これは誰に対しての怒りの感情だ!? 真美か? 日葵か? 

 違う!! 哀れで救いようのない馬鹿な自分自身に対しての怒りに決まっている。

 そうだ、もう僕は真美を傷つけるとか余計な遠慮をする必要はなくなった。

 だって彼女は現実に存在しないのだから……。


「陽一お兄ちゃん、そのことは口にしちゃ駄目なの!! 今度こそ真美ちゃんと永遠に会えなくなっちゃうよ!! 本当にそれでもいいの……」


 日葵はいまさら何を求めているんだ!?

 消えた真美の面影に、狐憑きみたいにとり憑かれて、さんざん血迷ったあげく幻影まぼろしを作り上げた僕に目を覚ませと訴えて、現実を突きつけたのはほかでもない妹のお前なのに……。


「お願いだから、もう一度、思い出して……!! 陽一お兄ちゃんと真美ちゃんが子猫を連れて逃避行に出掛けたあの日から、そのあとの全ての記憶を!!」


 もう一度、あの日を思い出す!? 日葵のあまりにも真剣な口調に僕は圧倒されてしまう……。


「日葵、そこに答えがあるっていうのか!? お前がメールで教えてくれた真美との交換日記に書かれていた内容の他にも……」


 僕の問いかけに日葵はすぐに返答をしなかった。目を伏せながらしばし考えるそぶりをみせた後で僕にむかって大きく頷いてみせた。激しい海風が円形の通路を通り、二人の間を吹き抜ける。

 僕の妄想が作り上げた真美がやっと我に返ったのか、四角い南京錠から手を離し、僕たち兄妹のやり取りをタイル張りの白い床にへたり込みながら、呆然ぼうぜんと見上げている様子を視界の隅に捉えた。


「これまでの貸しをまとめて返して。なんてことを私は言わないよ。だけど日葵がお兄ちゃんにする最初で最後の命令わがままを聞いてくれないかなぁ……」


 そして日葵は赤いライディングジャケットの前で自分の両肘を抱えながら、子供の頃からふざけ合ってきた兄妹の僕にしか分からないお願いのしぐさをしてみせた。

 自分の胸の前で腕を組み両胸を押さえながら嫌々をする。おどけるようなそのしぐさの意味。このしぐさを恥ずかしがっていた日葵。本当に困ったときにしか僕にむかってやらなかったことを思い出す。

 いままで忘れていた当時の感情が、大人になった僕の中にふつふつと蘇ってきた……。


「あの村一番の柿の木に、高く登っていた馬鹿で向こう見ずな男の子。だけど誰よりも格好良くみえた私の自慢のお兄ちゃんに戻って……!!」


 子供の頃は持っていたはずなのに、いつの間にかなくしていた。その感情の名前は……。


 無謀ともいえる勇気だ!!


「お兄ちゃんが記憶から真美ちゃんを消し去ったあの日から、もういっぺん過去をやり直して!!」


 あの事件をきっかけに何でも僕に相談してくれた妹、そんな日葵が今日まで一人で抱えこんできたせつない想いが存在することに打ちのめされる……。

 兄妹が長い間培ってきた信頼のようなもの。以心伝心なんて月並みな例えよりも深い結びつきに感じられる。そんな妹の願いをもう一度だけ聞き入れてみようと僕は決意した。


「わかったよ、日葵。もう一度、あの日からやり直してみるよ。僕と真美が逃避行に出掛けた後で交わした言葉、いや、行動のひとつひとつまで思い出してみる。だけどこれは決してお前のためだけじゃない。僕が作り出した彼女へのせめてものだ……」


「陽一お兄ちゃん、真美ちゃんへの手向たむけって……!?」


 日葵の質問をあえて無視して、妹の肩越しにいる彼女にむかって僕はゆっくりと語り始める。


「なあ、僕の作り出した幻影の真美、聞こえてるか!? もういっぺんあの日まで戻りたいんだ!! だから僕に協力してくれないか? 消えるのはその後でも遅くないだろうからさ。それにに戻るにはお前の手助けが絶対に必要だから……」


「陽一お兄ちゃんは私の存在を信じてくれるの?」


 今まで黙っていた真美が、その場に立ち上がり僕にむかってあの困ったような表情を見せた、眉の動きもあの頃と変わらない。


「ああ、たとえお前が僕の作り出した真美まぼろしだとしても、立っているものはまみーぬでも使えって、亡くなったお祖母ちゃんも言っていたからさ!!」


「陽一お兄ちゃん……」


 真美は泣きはらしたその顔に、太平堂の白いたい焼きを貰ったときのような幸せそうな笑顔を浮かべる。


「……いちおう僕はカメラマンの端くれだから。撮影旅行には優秀なアシスタントが必要なんだ。真美、これは危険な撮影旅行になるかもしれない。その行き先はあの事件が起こった稲荷神社だ。聖地巡礼なんて生易しいもんじゃないぞ。それでもアシスタントとして僕に同行してくれるか?」


「うん、喜んで!! 陽一お兄ちゃんをアシストするよ!!」


「報酬は多くは払えないけど、それでもいいか?」


「私はお金も高いお洋服も何も欲しくない。陽一お兄ちゃんがいてくれればそれでいいんだ。でもね、ふたつだけ欲しいものがあるかな……」


「二つだけ? それはいったい何なんだ、真美」


「報酬は太平堂の白いたい焼きと、チョコプッキーでいいよ!!」


「真美、お前って安上がりな奴で本当に可愛いのな。仕事が済んだらお弁当と一緒にご馳走してやるよ。絶対に約束だ!!」


 僕は前にこの女神像を二人で訪れたときにも、彼女は同じ場所に立っていたことを同時に思いだす。

 僕は思わず上空を見上げ、巨大な女神像に視線を移した。

 白い女神像が見下ろすこの場所は、昔、この辺りの漁師が沖合の魚影を眺める見張りの場所として魚見塚うおみづかと呼ばれてるそうだ。

 この地区が出身で村に嫁いできたお祖母ちゃんから教えて貰った秘密がある。それはあくまで表向きな理由だと。

 その秘密を僕は真美にしか話していない。前回の逃避行で、この場所を訪れたときに彼女から聞いた南京錠の約束を教えて貰った引き換えに……。


 ガチャリ!!


 真美のいる場所から軽い金属音が聞こえてきた。音の方向を見た僕は思わず自分の目を疑ってしまう。


 彼女が手にしていたのはあの南京錠。すでに解錠してフェンスから外されていた。

 あんなに開けることを拒絶していた父親との思い出の四角い南京錠。

 その鍵を自らの手で開けるなんて……!?


「えへへっ、陽一お兄ちゃんが落とした鍵で勝手に開けちゃった。ごめんね。でも約束を守ってくれたお返しだから、私も精一杯の勇気を出したんだよ!! あの日の真美を思い出してくれてありがとね……』


 真美は、あの南京錠を開けても僕の前から消えなかった!!


「……お兄ちゃん、日葵からもお礼を言うね。あの日の真美ちゃんを忘れないでくれてありがとう!!」


 いつの間にか降りだした霧雨に、それぞれの髪の毛を濡らしながら目の前にいる二人が僕に与えてくれたは、泣き笑いのような表情と、ありがとうの言葉だった……。

 僕は大切な女の子二人から、こんなに褒められるようなことをこれまで何かしてきたのか?


 母親のいない僕は育ての親だったお祖母ちゃん以外に、親しい人から褒められることには慣れていなかった。今思えば自らの自己肯定感が異常に低かったんだ。

 だから小学生のころ、あの柿の木の下で僕を褒めてくれた真美の存在がとても嬉しかった。

 そして僕の最大のコンプレックスだった曲がった右腕も、彼女は大好きだと言ってくれたから。


 ねえ、真美、僕はまだ間に合うのかな……。


 突然、親父の影響でよく聴いていた古い曲のタイトルを思い出した。

 そのタイトルみたいに僕はもう途方に暮れない。


 ――そして僕は途方にではなく過去への追想に暮れはじめる。


 それと同時に僕の周りのすべての景色がゆっくりと歪み出すのが感じられる。

 あの小学校の複製レプリカのある施設で経験した感覚と同じだ!!

 違う場所に移動するときの前触れだと僕はこれまでの経験ですでに学習済みだ。


 「真美!! 最初のアシストを頼む!! トレーシーをこの場所に用意してくれ」


「分かったよ、陽一お兄ちゃん!! でもトレーシーちゃんで何をするつもりなの?」


 次の瞬間、女神像のある円形の回廊。僕たちの足元に敷き詰められたタイル状の建造材が継ぎ目からめくれて、その下にある黒い空間が顔を覗かせる。

 何もないはずの場所に突然、トレーシーの黒い車体が現れた。荷台中央のバッグはそのままだが、左右にあった荷物は減っていた。


「……な、何、これ!? 下の駐車場に停めてあったはずのトレーシーが、なんでこの場所に!! 陽一お兄ちゃん、いったいどんな魔法マジックを使ったの!!」


 日葵が突如、足元に出来た裂け目の空間を見て、勢いよく後ずさった、その顔には驚きの色を隠せない。


「ごめんな、日葵。今はゆっくり説明している時間はないんだ。お前にお願いがある。下の駐車場にお前が作ってくれたお弁当を入れたバッグを残してあるからサンマのTZRで回収してくれ、これからの僕たちの旅には荷物が少ないほうがいいんだ。

 それに後で三人でゆっくり食事にしたいからさ」


「何だか、今日は驚くことばかりだけど、さっきの会話を聞いていたから日葵も協力するよ。無事お兄ちゃんと真実ちゃんが戻ってきたら、太平堂の白いたい焼きとチョコプッキーも追加してあの柿の木の下で三人でお弁当を食べようね!!」


「日葵!? お前には真美が見えていないんじゃなかったのか? どうして僕の幻想が作り出した真美が言ったことまで分かっているんだ……」


「最後まで人の話を聞かないのは、陽一お兄ちゃんの昔からの悪い癖だよ。私は真美ちゃんが存在しないなんて一言も言っていないから。ほら、送ってくれた記念写真を見てよ……」

 そう言って日葵が差し出したスマホの画面に写っていたのは……。


「幼い真美じゃない……!? これは夢の中で一緒に暮らした成長した真美とまったく同じ姿じゃないか? どうして記念写真に大人の彼女が写っているんだ!!」


 そこにはあの山道で月明かりに照らされながら、僕にむかってあの海の見える洋館で暮らしたときと同じ微笑みを浮かべた真美の姿が写し出されている……。


「……そうだったのか。 僕はもう一つだけ心の封印を解いていなかったんだ。大人の真美はずっとそばにいてくれたのに、幼い真美の幻影を重ねて真実を見ていなかった」


「そうだよ、私にも真美ちゃんの姿が見えるから、子供のころとよく似た水色のワンピースがよく似合う素敵な女性になった大人の真美ちゃんが!! やっと会えたんだ!!」


「……ひまわりちゃんも私の存在を認めてくれるの?」


「あったりまえでしょ!! 最初から親友のまみーぬちゃんを疑ったりしないから……」


「ううっ、ひまわりちゃん……!! 真美もね、ずっと会いたかったんだよ」


 お互いにあだ名で呼び合う二人。止まった時計に新しい電池を入れたみたいに、すべての歯車が動き出す瞬間を僕は目撃しているんだ。

 こみ上げてくる感情に包まれて、この場所を立ち去り難くなってしまった。

 感動の再会に水をさしたくないな……。


「……真美ちゃん、それ以上私に近寄らないで!!」


 日葵がその場にそぐわない意外な言葉を発した。


「ひまわりちゃん、なんで、真美が近寄っちゃだめなの!?」


「積もる話はあとで帰ってきてから、ゆっくりとガールズトークしようよ。真美ちゃんは陽一お兄ちゃんの専属アシスタントなんでしょ? お仕事を優先して!!」


「ひまわりちゃん……。わかったよ。絶対に約束だよ!! 真美とお話し、いっぱい、い〜っぱいしようね!! そのがーるず、とーく?」


「うん!! まみーぬちゃん、ウチでお泊り会しなくちゃね、一日じゃあ足りないくらい喋りたいことがあるから!! 」


 日葵の気持ちが痛いほど理解出来た。本当はこの場所で真美を抱きしめたかったのだろう。だけど彼女の姿は……。


 僕からみても幼い真美の姿は、抱きしめれば消えてしまいそうなほどはかなげに見えた。それは比喩ひゆでも何でもなく、この空間に存在を維持していることがとても困難に感じられた。

 彼女の身体の一部はその着ている水色のワンピースの素材のごとく、透けて見えるようになっていたんだ……。


 時間がないのは誰の目からも明らかだった……。


 彼女にこれ以上、負担を掛けまいと僕は心のなかで誓った。

 そしてトレーシーをこの場所まで安易に移動を頼んで、彼女の能力ちからを浪費したことをとても後悔した。

 幻影の真美が消えてしまったら、以前僕が仮説を考えたように他の場所にいるはずの実際の真美にまで影響が及んでしまうはずだ……。


「さあ、陽一お兄ちゃん、はやく行ってあげて、あの神社で真美ちゃんが、たったひとりでをして待っているから」


 ひとりかくれんぼか、本当に長い長い隠れんぼだ。

 真美は普段からじゃんけんが弱いくせに。いつもみたいに彼女が鬼の役でいてくれたらどんなに良かったか……。


「最初からこうすれば良かったんだよな。真美にあんな能力ちからがあるって僕が最初から受け入れておけば、お猿さんと事故を起こしそうになることもなかったのにな……」


「陽一お兄ちゃん、それはルール違反だよ。ゲームにならないじゃない」


「ゲームって!? まさか、真美、お前は最初から……」


「そうだよ。お兄ちゃんがいつ真実しんじつに気がつくか、真美とあの県営住宅で再会したときから。そう、最初からゲームは始まっていたんだよ……」


「お前こそ、本当に意地悪な奴だな……」


「だってぇ、陽一お兄ちゃんは昔からもったいつけて、いつまでもゲームを始めない性質たちでしょ、だから真美が先手を打ったの!! それにバイクで一緒にお出かけもしてみたかったから……」


 なんだ、最初から手のひらで転がされていたのは僕のほうだったのか。

 やっぱり敵わないな。ゲームの達人は真美だ。

 敵に回したら厄介だが、味方アシスタントにつければ百人力だ


「真美、用意はいいか? ちゃんとヘルメットのあご紐をしめて、僕にしっかりと掴まっているんだぞ!!」


「陽一お兄ちゃん、いったいこんな高い場所からトレーシーに二人乗りして何をするつもりなの!?」


「僕にまかせろ!! 昔から最後はド派手にいくのが漫画でも映画でもお約束だろ?」


「ええっ!? だってこの場所からは断崖絶壁の海か、急勾配の長い階段しか見えないよ!! 私が高所恐怖症じゃないから良かったけど……」


「僕が昔から高いところが大好きなのは、お前も知っているよな?」


「うん、と煙は高いところが大好きだって、おばあちゃんにも良く言われていたよね」


 そうだ、僕はその高いところが好きな何とか馬鹿だ!!


「僕も鬼じゃない、こうみえても女の子には優しいんだ。断崖絶壁の海にトレーシーでダイビングは選ばないよ。こっちのルートを選んであげるからしっかり腰につかまってろ!! 振り落とされないようにな!! ちょっとした、荒馬ロデオ走行だから……」


「ええええっ!? 結局はトレーシーで急な階段をくだるんじゃない!! それって女の子に優しくないよ、陽一お兄ちゃん!!」


「真美!! 発進するぞ!! 舌を噛むから黙っていてくれ。お前はあのお稲荷さんのある神社を思い浮かべてくれればいい!! 僕のアシストを頼んだぞ……」


「わかったよ、お兄ちゃん、あの夏の日の神社だね。そしてお口を閉じなくちゃ!!」


 トレーシーのバックミラー越しに、真美が自分の口に片手でファスナーを閉めるしぐさをしているのが映った。よし準備万端だ!!


「陽一お兄ちゃん!! 真美ちゃん!! 絶対に日葵のもとに元気な姿で帰ってきて!!」


 トレーシーの甲高い排気音で、日葵の言葉がかき消されると困るので、右手のアクセルをいったん全閉にする。


「いってくるよ、日葵。僕はもう過去から逃げないから安心してくれ」


「陽一お兄ちゃん、絶対に怪異お狐様なんかに負けないでね……」


 僕は言葉のかわりに、トレーシーのアクセルで二回返事をした。

 まるで爆竹がはぜるような破裂音、二サイクル車特有の高周波な排気音だ。

 そしてそれが出発の合図にもなった……。


「……いくぞ!! 真美!! 後ろにのけぞらないで僕にしっかりしがみついてお前の身体の重心を預けてくれ」


「こ、こうかな?」


 真美が僕の背中におぶさるように上半身を預けてきた。この丸太で作られた長い階段をトレーシーで下るには前輪を持ち上げたウイリー走法で、乗り切らなければ無理だ。そしてこの下り勾配で発生する加速、その運動エネルギーを利用して、少しでも真美の跳躍に掛かる負担を減らす狙いがある。

 僕だけバランスを取れても後ろの真美が重心を崩したら一巻の終わりだ。


「よし!! 上出来だ。そのままの格好でいてくれよ……」


 真美の不思議な力には人の心を読む能力もあったことを思い出し、背中に押し当てられた彼女の胸の膨らみについて考えるのをやめたが、それは決していやらしい意味ではなく、彼女の胸の大きさについて謎が解けたからだ。

 聖地巡礼に出かけてトレーシーで二人乗りしてずっと感じていた疑問だ。

 幼い真美のままだったら、胸はもっとぺたんこだったはずだ。

 いまも背中に押し当てられている胸の膨らみは小学生のサイズではない。

 でもこんなことを考えていることがバレたら頭を殴られるだけじゃ済まなそうだ。

 きっと張り倒されて一週間くらい口を聞いてくれないかもしれない……。


 僕は右手でアクセルを全開にする!! もともと前輪フロントタイヤが浮きやすいトレーシーの車体が高々と竿立状態になってしまう。普通ならこのまま 後方にバク転をしてしまうが、バイクの免許を取る前から親父にモトクロスやトライアルの英才教育に付き合わされていた僕は、身体に染み付いたバランス感覚で暴れる車体を抑え込んだ。

 シートの上から腰を浮かし、軽くなったハンドルに上半身の重心を残しつつ、リアブレーキで車体の傾斜角を細かく制御する。丸太で作られた階段を後輪だけで勢いよく下っていく。段差で激しい上下運動が全身に襲いかかってくるが、アドレナリンの出まくった僕には何よりのご褒美だ!! このアクロバティックな瞬間がバイクに乗っていて良かったと心の底から感じられる。

 子供のころはしょっちゅう怪我をするので泣くほど嫌だったが、こんなところで過去の経験が役に立つとは思わなかった。


「イヤッッホォウ!!」


 そして僕は心のなかだけで雄たけびをあげた!! 

 そのつもりだったが、思わず声に出てしまったようだ……。


「陽一お兄ちゃん、ずるいよ!! 真美にだけ黙ってろなんて……」


「真美、悪い、気持ちよくて声が出ちゃうんだな、これが!!」


「まあ、いいか、お兄ちゃんが昔に戻ったみたいに嬉しそうだから、今回は特別に許してあげる!!」


 ありがとうな真美。 本当は抱きしめたくなるほど嬉しいが、

 今は前を向いてなきゃいけないから……。

 そして僕は彼女がこじ開けてくれるはずの空間の歪みを見落とさないように、長い下り階段に目を凝らした。ヘルメットの暗いスモークシールドが視界の妨げになる。夜間で前方が見えにくいから、シールドを上げたいが今は手を離せないな……。

 次の瞬間、真美が僕の耳元に大声で叫んでくれた。


「陽一お兄ちゃん、この階段を降りきった先の崖の向こう。空と海の狭間に真美が神社まで続く穴を開けたから、そこにむけてトレーシーちゃんで突っ込んでいって!!」


 さっそく真美が僕のアシストをしてくれるのか!?

 でも結局海にむかってトレーシーでダイブかよ。真美も結構無茶振りしやがるな。

 まあいいか、今は彼女の言葉を信じるしかない……。 

 何よりも真美が一生懸命になって限られた能力ちからを使ってこじ開けてくれた最後の突破口だ。


 「頼むぜ、相棒トレーシー、最高のゲームをしようぜ!!」


  やっぱり慣れ親しんだお前じゃなきゃ駄目なんだ、トレーシー!!

 自らの過去へと向き合う聖地巡礼あの場所へ、僕と真美を連れていってくれ……。



 次回に続く。



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