永遠の夏休み。

『……私、夏は嫌い』


『なんで?』


『だって暑いから……』


『夏休みには海や山に一緒に行こうよ』


『私、薄着になりたくない』


『真美はのワンピースが良く似合うのに?』


『もう子供じゃないの……』


『僕と同じ小学生のくせに生意気だぞ』


『陽一お兄ちゃんは覚えているかな? あの場所で柱に付けた背比せいくらべの傷……』


『それがどうしたの?』


『気付いてないなら別にいいよ……』


『……良く分かんねえよ』


『私、心配なんだ……』


『心配って何が?』


『私の中で、がどんどん大きくなるのが怖いの』


『……真美!?』


『あの日みたいな真美になったら、陽一お兄ちゃんは、

 私のことを絶対嫌いになっちゃうから!!』



 *******



 ――人間の脳には、まだ解明されていない謎が多いと聞いた。

 それは、いつ、どこで、誰から聞いたのだろうか? 

 相変わらず僕の頭はアクセスの遅い旧式の記憶装置ハードディスクみたいだ。

 カリカリと壊れる前のシーク音が頭の中で鳴り響いた。

 いや、違うな、これは蝉の鳴き声だ。夜に似つかわしくないほどけたたましい輪唱を、これから第一の目的地に向かう僕たちの進む遊歩道で奏でていた。

耳障りな不協和音に全身を包まれ、自分を取り巻く物全てが虚構なんじゃないかと疑ってしまう。施設に向かう真っ直ぐな遊歩道が何だか歪んで見えてくる。

 つないだ左手に感じる真美の温もりが、かろうじて僕を現実世界に踏みとどまらせてくれた。

 彼女の柔らかな右手の感触だけが現実リアルだなんて皮肉な話だ。その真美でさえ夏の魔物かもしれないのに……。


「陽一お兄ちゃん、真美の手をそんなに強く、としなくても大丈夫だよ」


「真美、僕は……」


「……今日の真美は消えたりしないから。それにまだお兄ちゃんとゆっくりお話をしていないもん。そうだ、中学生の頃、何があったかを知りたいな。これから行く場所で私に聞かせて欲しい!! 前にも話したけどお兄ちゃんのこと、ずぅっと影から見守っていたのは嘘じゃないけど、知らない時期があるんだ。私の目覚めていない数年間の


 数年間の空白!? 真美はいったい何の話をしているんだ。

 まったく意味が分からない。彼女が僕の前から姿を消したのは小学生の頃に間違いがない。

 記憶が抜け落ちていても、それだけは変えられない残酷な事実だから……。


「真美、さっきの質問の答えがまだだったな。あのスカートめくりの件だけど……」


「うん、それも後で一緒に教えて!! 陽一お兄ちゃんも慌てる必要はないから」


 今度は真美から強く握り返された。二人をつなぐ手のひらの温かい感触。


 そうだ、小学生の頃、僕たちには他にも小さな約束事がいくつも存在した。

 僕の住む家から真美の県営住宅に向かう帰り道。距離にしたらわずかで小学生の乗る自転車でも五分と掛からない。家が近いことは決して良いことばかりではない。

 真美とふたりきりになれる時間がとても短いからだ。家に置いてきぼりにする日葵ひまりには悪いが、真美を家まで送る役目を僕は買って出たんだ。

 もちろん表向きは面倒くさそうなていを崩さないのは思春期の少年のお約束だ。

 あの村一番の柿の木から見渡せる河原で、落ち込んでいた僕の頭にいきなりスカートを被せた真美。こちらを慰めるためとはいえ、その予想外な破天荒さには驚かされた。

 そして彼女が恥ずかしそうに告げてくれたお互いの利き手の。顔には出さないけど僕は本当に嬉しかったんだ。


『ほら、もっと私たち、仲良しになれたみたい……』


 あの日から真美は僕の中で特別な女の子になった。

 小学校からの帰り道、スタート地点の僕の家は田んぼに囲まれた一軒家だ。

 天然の地下水が湧き出る井戸を横目に二人で一緒に並んで歩く。

 いまさら僕は気付かされた。真美は女子としては背が高いほうなんだな……。

 彼女の編み込んである髪の毛の頭頂部が、ちょうどこちらの肩の高さだ。

 香水なんか使っていないはずなのに、とても良い香りが僕の鼻腔をくすぐる。

 今日は朝から心の中で決めていた。途中にある白い橋、ちょうど地区を区切る境界線に位置している。

 あの白い橋を越えたら絶対に真美と手をつなぐんだ。左隣を歩く彼女にも僕の緊張が伝わったかのようにお互い無言になる。

 ちらりと真美を盗み見る、頬を染めてうつ向いた横顔に思わず見惚れてしまった。やっぱり可愛いな……。


『あ、あのね、陽一お兄ちゃん、私……』


 真美が僕に何かを言いかけるが、語尾が聞き取れないほど弱々しい。

 きっと彼女もこれから起こることを意識しているに違いない。

 お互いの無言が吐息のように重なりあう。


『『……』』


 運命の白い境界線を、僕の派手な色の運動靴と真美の黒い革靴がシンクロしたかのように記念すべき第一歩を踏みしめた。

 まるで心臓が指先に移動したみたいにドキドキが止められない。

 ぎこちなく差し出した僕の左手に真美の細い指先がそっと触れた。大人の恋人同士みたいにお互いの距離は近くない。でも僕にとってはコンプレックスのある曲がった右腕ではなく真っすぐに伸ばせる左腕。その行為がとても誇らしく思えた。

 今日から大好きな真美を僕が守るんだ。彼女を悲しませるもの、苦しませるものから全部!! 絶対にこの手を離さない。あの白い橋で固く誓ったはずなのに……。


 僕はどうして、この左手の約束を破ってしまったんだろう。


 過去の追憶に浸る僕の全身を、けたたましい蝉の鳴き声が幾重にも包んだ。

 真美とつないだ左手以外の手足が不意に軽くなった感覚に襲われる。あの県営住宅前で彼女と抱擁した時みたいに頭が痛くなった。その鋭い痛みに思わず僕は目を閉じてしまう。

 瞼の裏に飛蚊症のような荒ぶる黒い花火がモノクロの軌跡を残し、今まで靴底に感じていた遊歩道に敷かれた砂利の固い感触が変わった気がした。

 まるで瞬間移動したみたいだ!! 

 いや、移動というより別の場所に降りたったという表現が正しいな。別の平坦な床の感触が、バイク用ライディングシューズの靴底にはっきりと感じられた。


「陽一お兄ちゃん、目的の場所に着いたよ。確かに真美のよく知っている場所だね。二人で通った小学校に連れて来てくれるなんてとても嬉しいよ。本当にあの頃のままで変わっていないね。 ほら、早く来て、五年二組の教室だ!! ここはお兄ちゃんのクラスだよね」


 真美のはしゃぐ声が左側から聞こえた。

 目を開けると信じられない光景が僕の視界に飛び込んでくる。

 こんなことは絶対にありえない!? 僕が真美に見せたかった場所はこれじゃない……。

 今回の観光施設の目玉とも呼べる存在で、老朽化の為、廃校になった小学校校舎の建材を再利用して、この場所に複製レプリカとして建てられた大糸おおいと小学校の校舎。

 実際の室内は観光客向けの施設のはずだ。でも僕たちが見ているこの建物の室内は!?


「……真美、僕たちの母校で、廃校になったはずの小学校が、何でそのままの姿で残っているんだ。この廊下も、壁も、そして僕のクラスの教室まで!? 通っていたあの頃とまったく変わらないなんて。それに変わらないのは一学年下の四年生だった君の姿も同じだ。いったい何故なんだ!!」


 ――ねえ、真美、教えてくれないか。


 悪い夢を見ているんだって。

 目を覚ましたら全部泡沫の如く消えてしまうに違いない。

 過去への贖罪しょくざいで僕が抱えまくったストレスが生み出した妄想の産物が私だよ、って。


 夏の魔物の君がそう言ってくれたなら僕は正気のままでいられるのに……!!



 

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