私の大好きなお兄ちゃんは左利き。

 ――夢を見たんだ。


 旧い漆喰の壁に掛けられた蚊帳の中で、僕はうたた寝をしていた。

 畳の固い感触を頬に感じる、お祖母ちゃんが掛けてくれた薄い布団の肌触りが心地良い。確かメリヤスって生地だって言ってたな……。

 縁側を見やると開け放たれた障子越しに手入れの行き届いた庭が広がっており、外は晴れているのになぜか雨が降っていた。この景色には見覚えがあった、僕の田舎の景色だ。


『今日は天気雨で狐の嫁入りだから、陽ちゃんは出歩いちゃいけないよ。おっかない怖いことが起きるから……』


 僕の傍らにはいつの間にか、お祖母ちゃんが座っていた。

 うちわを僕に向けてあおいでくれる優しい笑顔。僕はお祖母ちゃん子だった。

 その言葉は負の意味に捉えられがちだが、たとえ中傷されても胸を張って言える。

 幼い頃亡くなった母親の代わりにここまで育ててくれた。そんなお祖母ちゃんが僕は大好きだった。


『おばあちゃん、なんで外に出ちゃいけないの?』


 喉から妙に甲高い声が出た。そうか僕は子供の頃の夢を見ているんだ……。


『よくお聞き、狐は嫁入りの姿を人間に見られることを嫌うんだよ。だから晴れているのに、雨を降らして人間が表に出ないように仕向けているんだ』


『おばあちゃん、もし狐の嫁入りを見ちゃったらどうなるの?』


 いつも柔和なお祖母ちゃんの表情が一瞬、険しくなった気がした。


『見ちゃ駄目だ、お狐さんが怒っちまう。子供は神隠しにあって

 連れて行かれてしまうから、それはおいねえいけないことおっだよ』


 狐に連れて行かれた後、子供はどうなるのか。お祖母ちゃんは僕に教えてくれなかった。



 *******


 ――そこで夢から覚めた。



 懐かしい天井が目に入る。

 そうだ、僕は妹が用意してくれた夕飯を食べた後眠ってしまったんだ。

 慌てて枕元に置かれたデジタル時計に視線を落とした。

 良かった、真美との約束にはまだ間に合う。夢の内容は覚えていないことが多いのに今回は細部まで鮮明に記憶していた。

 不思議な感覚だ。何か意味でもあるのだろうか? 今日は驚くことが起こり過ぎだから、もう何があっても動揺はしないが不吉な夢でないことを祈るしかない。


 ゆっくりとベッドから降りる。

 この家を飛び出したままで時間が止まったような部屋。足に触れる絨毯の感触も変わっていない。

 皮膚感覚で覚えているもんだな、人間って奴は凄いな。だから太古から色々な外敵から身を守れたんだろう。恐怖を肌で感じること。あの日、真美と二人だけで目指したでも感じた身の毛もよだつほどの恐怖。

 今でも身震いするほどこの身体に刻み込まれている。記憶からは消されていると言うのに何とも皮肉なものだ。

 固まった身体の節々を大きく伸ばす。自分の視界に四肢の中で唯一真っ直ぐに出来ない部位が見えた。

 くの字に軽く湾曲した右腕。僕はこの曲がった右腕のせいで子供の頃から悩まされ続けていたんだ。思わず独り言が口を突いてしまう。


「真美はまだ覚えているかな? 僕がこの右腕のせいでだってからかわれ、大げんかした日のことを……」


 古びたタイムカプセルを掘り起こしたみたいに、記憶のフタが次々に開き始めた。僕は小さい頃から左利きだ。だが生まれつきではない。

 元々は右利きで生まれたが、未熟児で難産だった僕は利き手を骨折したまま、気付かれず出産されたそうだ。

 何ともひどい話だが僕の右腕は自然治癒してしまい、曲がったまま真っ直ぐ伸ばせない状態で固まってしまったんだ。

 そして右手の使えない赤ん坊の僕は強制的に左腕を使うようになったそうだ。

 今でこそ左利きは珍しくないが、僕が子供の頃は周りの友達にからかわれ、場合によってはいじめの対象にもなったんだ。


 この左利きが僕には本当にコンプレックスだった……。


 右利きには分からないと思うが、シャツの胸ポケット一つを取りあげても、左胸に付いているのはこの社会全体が右利き仕様だからだ。

 はさみもそうだ。習字の書き順もそうだ。すべて左利きには不便に出来ている。


 あの暑い夏の日もそうだった……。


 僕は些細なことで小学校の同じクラスの男子と喧嘩になった。

 五年生の体育の時間に五十メートル走の練習があり、僕はクラスで一番足が速く、その日もトップだった。

 何本か繰り返しても僕の順位は相変わらず一位で、それを快く思わない男子の数人が僕にむかってはやし立て始めた……。


『大滝陽一のぎっちょ、ぎっちょ、それにおかしい走り方!! 左ぎっちょの腕まがり!!』


 僕はその言葉に恥ずかしさで真っ赤になってしまった。

 侮蔑的なぎっちょと言われた上に、僕の右腕は骨折の後遺症で真っ直ぐには出来ない。そう、大きく湾曲していたんだ。

 一番言われたくない言葉を浴びせられて思わず我を忘れた。そのまま僕は男子たちに掴みかかっていった。


 喧嘩は勝っても負けても胸にしこりのような痛みが残る。放課後、僕はすぐ家には帰りたくなかった……。

 当然父親には学校から連絡が入り、けんかの件で叱られてしまうはずだ。あの村一番の柿の木から見下ろせる位置に、僕たちの通学路である川沿いの道が延びる。

 秋にはいつも草が伸びて子供の背丈ぐらいになるが、夏は近所の人が草刈りをしてくれているので、土手のコンクリート周りはキレイに整地されている。

 僕は途中の土手に腰掛け川面をぼんやり眺めていた。夏の陽射しは夕方でもまだ強く、オレンジ色がキラキラと水面に反射していた。その眩しさに思わず目を細めると急に視界が暗転した。


『な、何だ!?』


 目の前が突然、水色のカーテンのような布地で遮られた気がした。


『えへへ、陽一お兄ちゃん、びっくりしたでしょ!!』


 あわてて後ろを振り返るとワンピースの裾を指先で摘まんだ状態で真美が立っていた。水色のカーテンだと思ったのは、なんと彼女の着た洋服だった。僕は真美のワンピースのスカート部分を頭から被せられていたんだ……。


『お、お前!! いきなり何をするんだよ』


 驚きで自分の頬が熱くなるのが感じられた。なぜならチラリと見えてしまったから……。彼女の水色のワンピースの中身。偶然目にした白の小さな布地に思わず胸がドキドキしてしまった。


『だってぇ、陽一お兄ちゃんが今にも死んじゃいそうな顔してたから。

 真美ね、元気になって欲しかったんだ!!』


 激しく動揺する僕にお構いなしで無邪気に笑う真美。片頬だけに出来るえくぼ、その笑顔がとても眩しい。


『恥ずかしいけど言っちゃうね。私、左利きの陽一お兄ちゃんが大好きなんだ。その理由わけはね……』


 そして真美が僕の左手に、自分の右手を重ね、ぎゅっ、と握りしめてきた。


『こうすると陽一お兄ちゃんと真美の利き腕同士でしょ』


 そうだ、僕の左手と彼女の右手、お互いの利き腕で手を繋げる!!


『ほら、もっと私たち仲良しになれたみたい……』


 ねえ真美、君があの日、そう言って励ましてくれたから、僕は左利きもまんざら悪くないって初めて思えたんだ……。



 *******



「……真美、お前はあの日のままなのか? そしてこの場所に戻ってきた僕に何をさせようとしているんだ。その答えを話すために現れた夏の幻でも何でもいい!!」



 お願いだ、今回は僕の前から消えないでくれ……。

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