第12話 Passion fruit (7)

「ッチ……、躱しましたか……」

 少女は舌打ちをして、砕けたコンクリート壁から手を放し、2,3度手を払った。コンクリート片の煙があたりに舞う。芽森は引きつった顔でしゃがみこみ、彼女の手の形に崩れた壁を、呆然と眺めた。

「な……に?この力……。これも能力……?」

 湿っぽい路地裏の空気に舞い落ちる煙を吸って、芽森は腰を折り曲げて咳き込んだ。そんな様子の彼を、少女は腕を組み、半ば驚くような目つきで見つめながら言った。

「私のことを本当に全く知らないで話しかけてこられたのですね。自分の有名さを鼻にかけるつもりではありませんが、意外です……。まあ、で乗り込んできたから、少しばかり察してはいましたが」

 遠くで電車が駆ける音が、芽森の耳に微かに響いた。その音に手を取られるように、彼は立ち上がった。そうしたあと、ズボンに施された砂ぼこりの化粧を丁寧に払った。

「有名?君は一体……うわっとお!?」

 芽森が詳細を訪ねようと、その青く乾いた唇を開いた時、少女は再度芽森に向かって拳を振った。今度は彼が油断していたこともあり、よけきれず、そのパンチは頬を掠めた。何か温かいものが、顔に垂れた。血である。

「その頬の痛みと、これから走るであろう体中の痛みで、思い出してみては?」

 少女はそう口にして微笑した後、口元を一文字に結び、炎を強く燃やしながら飛び上がった。そして足を天へと上げ、芽森に向かって振り下げた。

「ちょ……!?」

 少女が勢いよく落ちてくる。避けられぬと悟った芽森は、腕を交差させて頭上を守ろうとしていた。

「……甘い!」

 そう叫んで、少女は彼に向かって踵を突き落とした。生まれて一度も体験したことがないほど強い衝撃が、芽森の腕に走った。骨が軋むような感覚。痛みが、腕を起点として全身に駆け巡っていった。コンクリートでできた地面が、彼の身体から伝わった衝撃によって粉々に砕けた。腕が急激に熱くなった後、波が砂浜からその身を引いていくように、血の気がなくなっていった。

「ゥオラァ!」

 少女は動けない様子である芽森の横腹目掛けて、二撃目の蹴りを入れた。鞭のように美しく撓る彼女の足が、彼の震える身に刺さった。

「……!?」

 肺が肋骨越しに圧迫され、声もなく息をげた。そうして敢え無く吹き飛ばされた彼は、コンクリート塀に叩きつけられた。ガラガラと音を立てて、瓦礫が落ちる。彼は左腕の指一本も動かすことが出来なかった。芽森は大きく歪む視界の奥で、少女を見つめた。痛みによってもたらされた強大な嘔吐感は、彼の中にある立ち上がるために必要な力を大きく削いだ。

「はぁ、はぁ……」

 喉に、腕に、横腹に未だ少女の蹴りが張り付いているようだ。その感覚が、芽森の意識を少なからず明瞭にした。目の前には、激しく暴れまわったからか、乱れた前髪が、ケロイドを隠すように顔にかかっている少女がいた。その姿に、芽森は目を見張って喉を震わせた。

「知……ってる、知ってる!君のことを新聞で一目見た。君は、極真空手、5年連続王者の、春ノ陽はるのひ勇菜さな……!」

 芽森の言葉を聞いて、勇菜は潤んだ瞳を彼に向けながら、顔にあった前髪を掻き上げた。痛々しいケロイドが再度、現れた。

「ご名答。痛みは人を目覚めさせる……。先生も良くそうおっしゃっていました。あなたの状況は正に蟷螂之斧とうろうのおの……。で邪魔をしようなんて片腹痛い。さあ、立ち去ってください。復讐の続きに、あなたはいりませんので」

 春の空に浮かぶ灰色の高層雲が、太陽を隠した。ただえさえ暗がりの底にあった路地裏が、深夜のような闇に包まれた。そんな中芽森は、地面に手を当てて、水面に映る像のように揺らぎながら、重々しく立ち上がった。少女を見つめる彼の目は、空の灰色を反射している。

「……苦しいんでしょ」

「はい?」

「手が、震えてる」

 芽森が勇菜の手を指さした。その手は、弾き鳴らされた後の弦のように、細やかに弱弱しく震えていた。彼はその手に、雨の中で寂しく濡れている小型犬を幻視した。

「ッ!これは……」

「眼も、潤んでる。涙目だ」

「……」

「能力をずっと使っていて、頭に浮かんでくる事故の光景が、抑えられなくなってきているんでしょ?首に真綿が巻き付いたように、じわじわと」

 勇菜は、少し俯きがちになって、腕を組んだ。それでも抑えられない震えを抑えようと、二の腕を強くつねっている。

「……燃えているんです。何もかもが」

 しばらく間を置いた後、彼女は短く幼げにそう言い、息を大きく吸ってさらに言葉を続けた。

「私の身体に焼け付いている傷が燃えているとき、視界に映るものが全部燃えているんです。コンクリートも、動物も、綺麗に咲く桜も、全部……。耳には、終ぞ聞かなかった家族の叫び声が張り付くように聞こえるんです。『助けて、助けて』って。でも、年を少し召した男性だけは燃えていなくて、だから、そういう人を襲っていけば、いつか、あの殺人鬼おおどろぼうに会えると思って」

「でも……」

「『復讐は何も生まないよ』、先ほどそう言っていましたね、お兄さんは。でも、もうそれしか、この目の奥にある火災を、叫びを、おさめる方法はないと思うんです。復讐が何も生まずとも、あの事件で私の心の内に生まれ出た黒いキモチを、少しは砕くことは、できると思うんです」

 芽森は勇菜のその言葉を聞いた後、一歩彼女に向かって足を踏み出した。

「未だ、る気ですか……?」

 勇菜は呆れた様子で彼に話しかけた。瞳は、黒ずみ濁っているように見えた。

「ごめん、やっぱり止めたいかも」

 引きつった笑顔で、芽森はそう言った。頬に垂れた血が、彼の身体に常時走っている痛みを表しているようで、実に痛々しい。

「君、すごく優しい子だから」

 そう続けた後、彼はよろめいて、埃っぽく湿った室外機にもたれた。

「優しい?あなたをそんな状態にした私が?」

 彼女は嘲笑するように口元を歪めた。その笑いは、芽森に向けてではなく、彼女自身に向けられたもののようであると、彼は感じた。

「優しいよ。復讐の動機も、自分に付けられた傷じゃなく家族のためだろう。それに、瞳は、濁っているようで、奥には光がある。僕に対しての攻撃も、少し手加減してくれたんでしょ?じゃないと、きっと最初の一撃で僕は死んでたよ」

 そう言って、彼は声をあげて笑った。彼女はそれを一瞥して、しっかりとした線を持つ、色艶のいい顎に手を当てた。

「あなたのいいぶんはよくわかりました。でも、それを聞いても尚、このまま引き下がってこの熱い身体を悔しさで震わせる未来よりも、あの男の息の根を止めて、自分の中である種のケジメを付けた未来を追いかける方が、今の私には幾分幸せに思えるんです。だから、大人しく引き下がってはくれませんか?自分にとっては何の罪もない人を、一方的に痛めつけるということは、何とも心苦しいものでございまして。ここまでやっておいてなんですが」

 勇菜はこう言って、両手を小さく上げて、手のひらをゆらゆらと揺らした。

 芽森は、口の中に広がる血の味と、腕にある痛みに顔をしかめながら、もたれている室外機から離れ、力強く立ち上がった。目は、少し泳いでいる。

「僕も、ここで恐怖に負けて引き下がるよりも、君にお節介をかけて死にかける方が、きっと素晴らしいように思える。だから、ごめん」

 熱意のこもった芽森の目を見て、勇菜は歯を食いしばって拳を彼に向けて構えた。

「お覚悟を」

 彼女はボソッとそう呟くと、その言葉が芽森の耳に届く前に、疾風のごとく身を乗り出して飛び出した。そうして彼の懐に潜り込み、無精ひげが少し生えた顎に向けてアッパーカットを飛ばした。しかし刹那、彼女の目に動揺が芽吹いた。そして同時にその鋭い槍のような拳が止まった。それを見計らって、芽森は、その攻撃を右手を使って辛うじていなした。はぁ、と少し安堵の声を漏らそうと芽森は口を開いたが、そのような間を持たせることなく、彼女は二撃、三撃目を淡々と彼に向けて飛ばした。しかし、動揺の芽を摘み切れてはいないようで、満身創痍の芽森が辛うじて躱すことが出来るほどの拳であった。

「大丈夫だよ、大丈夫だから、僕が合図するまで我慢して……、〇×△ちゃん……」

 攻撃を必死にいなしながら、芽森はぼそぼそと言葉を紡ぎ、あらぬ方向を見ていた。その言葉は勇菜の耳にも届いたが、名前であろう部分は、ノイズがかかったように聞き取ることが出来なかった。彼女は顔をしかめた。

(痛みで錯乱している……?いや、そんなことより、このままじゃ埒があきませんね。強い一撃で、一発で痛みを感じさせずにオトす!!)

 彼女は突然、足をばねのように弾ませて大きく飛び上がった。そして右足を天に向けて上げた。

「さっきの踵落とし!?ちょと、というか大分やばい!」

(少し早いけれどもう合図を出すか?いや、にまで怪我をさせるわけには……でも、ああ!間に合わない!)

 数秒が数分にも、数時間にも感じられた。その間にも、芽森の脳内は情報で錯綜していて、結果、動くことすらままならなかった。雲の裂け目から、太陽が覗いた。暗がりにあった路地裏が少し照らされる。太陽の光を受けた少女の腕や顔は、汗で輝いていた。


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