第27話 アラフアさんを怒らせた王子の将来はきっと明るくないと思う。
白い煙が揺蕩い、強靭なアゼルピーナにすら沈黙を強いる。
秘薬の効果を目の当たりにして、ハディ王子はにんまりと笑みを浮かべることを禁じ得なかった。
本来は強い沈静効果があるとされる吸引型の薬であるが、これを濃縮に濃縮を重ねることで、生き物ならば速やかに死を招くほどの強力な武器と化す。
ならば魔の生物、アゼルピーナにもこの薬が効くはず。その案が出てからは、実験と薬の改良の繰り返し。これを効率的に使用する武具の調整も含め、実戦レベルに持っていくのに数年かかった。
その成果がいま、目の前にある。
ハディ王子は、展開されている状況に満足していた。
正確には白い煙状の薬のせいで様子が見えないのだが、まあ大体想像はつく。
およそ幼少の頃から自分を袖にし続けて来た密かな憧れの相手、アラフアもこの煙の前では無力。意識を失った彼女をお持ち帰りできるであろう。
正直、ここまで使い勝手が良くなったのは、この『防護マスク』のお陰と言える。既存の技術をまとめただけのものだが、効率的な実装により実戦に耐えうる利便性を持つ。
これを開発したのが、アラフアの治めるゼライアの魔術組合長、ソルディナ女史というのが皮肉が効いている。アラフアは、自分自身の都市で開発された利器により、自らを破滅に追い込むのだ!
満足だ。ハディ王子は、再びそう考えた。
どうせゼライアは縮小させ長官を更迭するか、場合によっては取り潰して、このクオティアを中心にデブラルーマを自分の直轄領とするのだ。
そうなれば、アラフアはゼライアにとって不要な人材。自分が如何様にも扱える。
嗚呼、それを知ったときのアラフアの表情や如何に――!
「ハディ王子!」
自分の甘美な
ハディ王子はその湧き上がる怒りを、ぐ、と堪えて、努めて平静に応える。
「どうしましたか? アゼルピーナを屈服させましたか?」
「いえ、それが配下の馬達が次々に暴れ出し始めまして、収拾がつかなくなり始めておりまして」
「――何?」
最初に防護マスクを入手しその有用性を確認した後で、この
デブラルーマ攻略のために組織した騎馬だけの機動集団、その非常に重要な役割から、選りすぐりの優秀な馬を集め調練は極めて厳しく行っている。簡単に暴れるような馬は一頭たりとていない。
ハディ王子はここまで考えを進め、何か想定外の要素が混入している懸念を持つ。
「落ち着け! 暴れている馬と、落ちついている馬の位置を分けよ!
暴れる馬を落ち着かせて、静まった馬から身体的に異常がないか確認せよ!
特に虫などにより引き起こされている可能性もある、些細な異常も見逃すな!」
まずは馬の異常を確認する指示を出し、続いて武力行使の必要性にも思いめぐらせる。
「馬を落ち着かせる者、確認をする者、あとアゼルピーナに備える者以外は、みな臨戦態勢を取れ! 異常事態の可能性を踏まえよ! 警戒を怠るな!」
ハディ王子は、王族として生まれたが故の危険に囲まれた幼少期を過ごし、自身の優秀な頭脳はその経験から抜群の危機管理意識を育て上げた。
その感覚が告げている。これは前兆である。危険をもたらす何かが密やかに動いているのかも知れない。
「王子、危険です!!」
そしてそれは唐突に現実として訪れる。
その予兆が
***
ココロは、ハディ王子に逆らうも已む無しと心に決めてから、ヤキンツァ爺と一緒に白い煙の中を進む。目指すはアラフアさん。
そのアラフアさんに近づくと同時に、警戒する騎馬兵達も白い煙の奥に透けて見えてきた。いまバレるわけにはいかない。このままではおちおち会話もできない。
(どうするのじゃ?)
小声で聞いてくるフェレット姿のヤキンツァ爺。
(すみませんが、近くの騎馬達に爪を立てて、暴れさせていただけますか?
なるべく多く、派手に、でも密やかに)
心得た、とばかりに親指を立てたフェレットはするすると煙に溶け込んで行く。やがて煙の向こうから、馬達が次々と
ナイス、爺!
(アラフアさん)
隙を突いて話しかける。
(ココロ君か。ここに来たということは、何か策でも考えたのか?)
(アラフアさんが演技で防護マスクを誤魔化してくれたお陰で、拘束されずに済んで助かりました。はい、ちょっとお願いしたいことがあるのです)
(いいね、聞こうか)
そう囁くアラフアさん、防護マスクを装着しているにも関わらず、会心の悪戯っぽい笑みを浮かべていることが容易に想像できた。
何故だろう。
こんなにも美しく、その挙措動作には品格が漂い、高潔な性格と奥ゆかしい優しさを併せ持つ『完全なる貴人』と称されるほどの人なのに。
僕の目には、悪戯心をこよなく愛する天性のガキ大将のように映ってしまうのだ。
しかし、だからこそ都合が良い。
すみませんアラフアさん、と心の中で謝罪をしつつ、僕の悪巧みを共有するのであった。
***
「王子、危険です!!」
騎馬兵の声が響き、白煙から躍り出た
咄嗟に剣を抜き放ち応戦の構えを見せるハディ王子だが、今まで時間をかけて弱らせた筈のアゼルピーナはまるでその影響を見せずに迫り来る。
――その口、切り裂いてくれる!
裂帛の気合いで放つ斬撃、しかし
脆い!? 余はこれまでなのか?
その時、危地にあるハディ王子の前にアラフアが躍り出た。
その左手を豹に向けて突き出す。その掌に仕込まれた斥力の晶石が発動し、豹の接近を阻む。
突撃の圧力を抑えた
ハディ王子は逃げて行く
地面に這いつくばった状態から見上げると、アラフアが剣を片手に颯爽と立ち尽くし、軽やかな笑顔で彼を見下ろしながら手を差し伸べる。
ハディ王子が未だ幼い頃に刺客に襲われ、同じ年のはずのアラフアに助けられた時も同じような笑顔で彼を助けてくれた彼女を思い出した。
――敵わないなあ。
その感想を抱いてしまったあの時以来、それを否定し彼女を手に入れることをひたすらに夢見て、どんな労苦も厭わずに自らを鍛えてきた日々。その重みを思い出し、そしてその距離は変わっていなかったのだと思い知らされる。
そんな悔しさを胸に感じ、その敗北感に抗いたくて胸中に様々な思いが交錯するハディ王子に向かい、アラフアは悪戯っぽく笑いかける。
彼女のお得意の笑顔。
あれ? この表情を見せた後は、碌なことがなかったような? アラフアにまつわる過去の様々な苦労譚が、瞬間的にハディ王子の頭の中を駆け巡った。
「ハディ王子。お助けに参りましたが、ご無事でしょうか?」
「あ、ああ。助かりました。余は、その、これくらいなら、大丈夫ですよ」
咄嗟に出てくるハディ王子の見え透いた強がり。それを聞いたアラフアの嫌らしい笑顔。その笑顔はハディ王子の複雑な想いに一石を投じ、波紋を広げてその心がざわめく。
「ふぅん?それは宜しゅう御座いました。
しかし、先ほどは寝所がどうとか言われておられましたが、それは一体……」
アラフアの揶揄に、一瞬で赤面するハディ王子。
先ほどまで少し浮かれていた自分を殴りたい。
「い、いえ、何でもないのですよ?聞き間違いではないでしょうか?」
目を上下左右に泳がせる王子の顎先を人差し指でくぃと持ち上げ、強制的に視線を合わせるアラフア。表情の造形は笑顔であるが、その瞳は鋭く逃避を許さぬとばかりにハディ王子の心を射抜く。
「ハディ王子。貴方が何かを画策して、ゼライアに干渉しようと考えていることは、先刻お見通しです。軍の動きから王子のお考えは既に想定し、父上と協調して脇を固めているところ。
我々が何も分からないとお考えでしたか?」
「い、いやぁ。なんのことか分からないなぁ」
「デブラルーマの魔丘で我々を襲った、あの屈強な狼兵団。
あれは、コツァトル国王の親衛隊で、向こうさんも王が陰で動いていることをご存じでしょうか?」
「ア、アラフアは何故そのようなことを知っているのですか!?」
「……私には、私の情報網があるのですよ」
そう言って片方を吊り上げるアラフア。完全に悪人面である。
狼人の情報はココロつながりの人脈から偶然得られたものだ、などとは露ほども感じさせない。
それを見たハディ王子はアラフアの術中にはまる。
アラフアが事前に凄まじいばかりの情報網を構築しており、そこからハディ王子自身も知りえない情報をいくらでも引き出せるのではないか? などと彼女の虚像が彼自身の裡で勝手に膨らんでしまう。
そんな王子の表情を見たアラフアは、ニコリと魅力的に笑いかけた。
「王子、私には狼人の中にも有力な協力者が居るのですよ?
忘れないで下さいね。
――ところで、私は王子のお命を助けて差し上げた訳ですが、報酬が欲しく存じますが宜しいでしょうか」
「ほ、報酬だと!?」
「はい。そちらを頂けましたら、おまけで先ほどの『寝所』云々は、忘れて進ぜますよ?」
そう言って笑みを深める彼女の前で、ハディ王子は自分が彼女に完全に敗北し、降伏するより他にないことを悟った。
ああ、余はやっぱり彼女には勝てないのだなぁ、と……
***
一方の、逃走したアゼルピーナ達と、それらを追いかける狼王親衛隊。
丘陵の斜面を駆けおりながら走る両者は互角の速度を保ち、距離は殆ど変わらないまま、人々が『アゼルピーナの森』と呼ぶ森林地帯に突っ込む。
常の獣を遥かに上回る強靭な体躯。元々持つ鋭い牙や爪と言った武器は強化され、その知能、あるいは感覚、あるいは勘といった生来持ち合わせている神経系や情報処理能力は飛躍的に高まっている。それがアゼルピーナ。
その総合力は野獣など比較にならず、一体で熟練の狩人の隊を殲滅させるという戦闘能力を誇る。
対する狼王親衛隊は、人間達の間で伝説の域に達する存在。
ただでさえ尋常な人間では及ぶことのできない戦の能力を持つ狼人。その中から戦に秀でた個体を選抜し、訓練し、最高の武具を誂え、最高の
その強さは、十騎で万の人間兵と戦えるとすら言われている。
両者の攻防は人間達の想像を超える激しいものであるが、流石に同数のアゼルピーナでは狼王親衛隊と戦うには分が悪いようで、
それでも彼を乗せる黒き豹を始め、周囲を固める個体はいずれも狼王親衛隊の精鋭に些かも劣らぬ強さを見せつける。
鉄の規律を持ち逃走、迎撃を続けるアゼルピーナ達と、冷静に執拗に敵を追い詰める狼王親衛隊と。いつまでも続くかに見えたその逃避行は、しかしアゼルピーナ達の主人により破られた。
「しつこいなぁ。一体、いつまでこんなことをやっているんだよ!!」
業を煮やし、苛々し始める
親衛隊の途切れない攻撃に冷静に対処してきた黒豹の瞳が初めて揺れる。
「アルディナ、落ち着いてください。今少しで、必ず振り切ります故、ご辛抱を!」
「うるさいなぁ、あんな犬共なんか、さっさと蹴散らしてしまえよ!」
幼少の頃からアゼルピーナ達に囲まれ、デブラルーマで過ごしてきたアルディナは、今までほとんどストレスと言うものを感じたことがなかった。
正確に言えば、自分と同じ姿形、そして思考形態を持ち共に生きる存在を欲していて、しかし逃げられた。それが彼にとっての最大のストレス。
だからこそ、ある日突然居なくなった少女の事は求めて止まない。
それを除けば、嫌な事、面倒な事は全てアゼルピーナ達が処理してくれるわけで、常に彼らが持ち上げてくれてきたアルディナは、ストレス耐性がない。
そのアルディナにとって、狼人に追われるという従来にない嫌な経験が続く現在の状況は、彼の精神にとって耐えがたいものになっていた。
「そもそも、あいつら、何だってんだ!? 人の棲み処に押し入ってきて、好き勝手をしやがって……!!」
ぎり、と奥歯を噛みしめる。
「アルディナ、気をお鎮めになさっていただけないでしょうか……」
黒豹の声に焦りの色が滲む。
だが、アルディナの苛々は止まらない。
「ふざけやがって……!!」
やがて。
アルディナの瞳の奥に青い光が灯る。
本人はまだそれと気づいていないが、苛々が増すと共に瞳の光は徐々に強まり、やがて体全体が青白く薄い靄に包まれる。
「アルディナ! 気をお鎮め下さい!」
その黒豹の焦りを帯びた口調が、逆にアルディナに自身の異変を教えてしまう。
「これは――!?」
自分の腕を見る。
その布を薄く透過するほどに、自身の腕が青白い光を放っているのがわかる。
慌てて腕をまくると、腕の血管が青白い光を帯びていることが分かる。
「なんだこれは!?
おい、お前、何か知っているのか!?」
黒豹に問う。
「詳しいことは分かりませぬが……御身は、デブラルーマと繋がっておられると聞きます。必要に応じて、その力が流入し、アルディナを通して力を振るうことが可能、とか」
「何故、それをボクに言わなかったのだ?」
「そのお力は、アルディナが成長してから解放されると聞いております。
まだ成長の途中である御身には伝えるには早い、と」
何を言っているのか。
今、この力を使わなくて、いつ使うと言うのか?
しかし、何ができるのだろうか。
アルディナは自分の内側に渦巻く力を意識した。
胸の内に溜まった力。そこに意識を置くと、それは次第に自分という枠を超えて広がっていくようだ。
自分と他者の境界を越えた感覚。まるで、自分の感覚が森の中に浸透するようだ。
――いや? 違う。
これは、
アルディナは感覚を拡げた。
その感覚は際限なく広がり、様々なアゼルピーナ達と共鳴し、やがて全てを自身の意識下に従える程に育つ――
ざわり。
森が震える。
無数のアゼルピーナ達が、あたかも意識を共有したかのように動き出す。
「皆の者、追跡を中止せよ! 撤収だ、即座にここから退く!」
今まで自分達を追っていた、忌々しい狼共が、気配を感じたのか一気に逃走に入った。アルディナが妨げる暇もあらばこそ。
――逃げられた!
本当に忌々しい狼共だ。
折角、自分が初めて力の行使が可能になったと言うのに。
「アルディナ、危機は去りました。どうか、お気を鎮めになってください」
黒豹が促すが、しかしまだだ。
何かを感じるのだ。
自分に近しい何か。何かを結ぶ線。絆。
これは何だろうか――
「オリア?」
懐かしい名を口にする。
自分を置いていなくなった、自分の片割れの少女。
この胸に感じる絆は、彼女との繋がり。なぜかそれを確信する。
今なら、迎えに行ける。
この森の全てのアゼルピーナ達を従えて、少女を迎えに行くのだ。
「おい、ボクはこれからオリアを迎えに行くぞ。
今なら、オリアが何処にいるのかを感じることが出来るんだ。
その方向をお前にも伝える、これから全てのアゼルピーナ達を従えて、その方向に行くぞ」
黒豹は、その力の無駄遣いに異論を挟みたかった。
だが、アルディナが力に目覚めた今、彼に仕える黒豹には逆らうことはできない。のっそりと、進路を与えられた方向に向ける。
――こうして、森に棲まうアゼルピーナの軍団を率いて、アルディナはゼライアへの方向に進路を取ったのだった。
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