第18話 走れ ラキア
「姫様、お待ちを!」
必死の形相で駆けてくる世話役のビジオアを尻目に、街路を駆け抜ける。
視界の端をすり抜けて行く、天井からにょきりと樹の生えた白い天幕を尻目に走る。
流れる汗は、熱く乾燥した大気がやがて乾かしてくれた。
大気の精霊達が私の汗を拭ってくれている、私を友として遇してくれているのではないだろうか? そんな楽しい空想を描く。
あの頃は、全てを置いて早く走って、どこまでも駆け抜ければ、やがて嫌な事のない理想の郷にたどり着けると無邪気に信じていた。根拠もなく。
……本当にお姫様、だ。
あの頃、
こんな夢を見てしまうのは、私の弱い心が為せる悪戯なのだろう。私の内に眠る弱い私は、過去の幸せに浸って満たされただろうか。
醒めて行くにつれて薄れ行く過去の世界を意識しながら、束の間の
***
秋の訪れを前に、地表に熱気を降り注がせ自己主張する晩夏の太陽。厳しい暑気を避けて涼しげな木陰で休む内に微睡んでしまったようだ。
ラキアは身を起こし、乱暴に埃を叩いてから立ち上がる。
密やかに展開するユーハイツィアの軍勢を避け迂回しながら進む道程は遅々として進まず、ラキアを苛立たせた。
天然の岩山に囲われた狼人の国コツァトル、その正面玄関に相当する門の領アフア。
ただでさえ、普通の人間では太刀打ちの出来ない戦闘能力を持つ狼人が、天然の要害を利用して城塞と成した鉄壁の門。普通に考えて、付け込む隙など、あろうはずもない。
人間達は、何を考えているのか。
国を逐われた私。いまさら、そこに否やはない。
全てを受け入れ、ゼライアの町の片隅で密やかに生を全うするつもりだった。
だが。
あろうことか、自分達の故郷を責める武具を、自分達に作らせるとは。
許せなかった。
仮想敵国に在って、何に使われるのかも考えずに、のうのうと武具の生産に携わっていた自分が、許せなかったのだ。
少し考えれば、自分が作っている物が何に使われるかなど分かるはずなのに、目を逸らした。思考を停止した。
故国に仇為す行為、だがやってしまったからには仕方がない。ならば、せめて故国の為に働かなくては。
使い捨ての一兵卒で構わない。罪狼たる自分でも、ささやかなる自分でも、過去の過ちを少しでも精算して生を終えられるのなら。
その想いを胸に、ラキアは再び歩き始めた。
***
その日は、同じように残暑の厳しい日だった。
容赦ない陽光が降り注ぐ中も、人族との間にはひっきりなしに荷馬車が行き交う。ラキアは、そんな風景を門の上から眺めるのが好きだった。
父親に誕生日に貰ったお気に入りのフード付きの赤い外套を日除けのために着て、練習の合間に飽くことなく眺める。行儀悪くも、城壁に腰かけて、足をぶらつかせながら。
「姫様もそろそろお年頃なのですから、そのように城壁から身を乗り出して足をぶらつかせるような真似は控えていただきたいのですが」
ビジオアが、いつものように苦言を呈する。
幼い頃から彼女の世話役として側に居てくれる、頼り甲斐のある武人。
その能力には全幅の信頼を寄せているが、小言が多いのには閉口する。
お年頃? 何それ、美味しいの? 雛鳥の炙り串焼きを齧っていた方が栄養になって、体の為になるわよ!
苦言など言われても、減らず口くらいしか出てこない。
そんな彼女の返事に顔をしかめるビジオア。しかしラキアは知っている。彼は、そんな他愛のないやり取りを楽しんでいる。だから良いのだ。
肩にかかる白銀色の煌めく髪を無造作に払う。腕に装着した狼鎖剣がじゃらりと音を立てる。
ビジオアから教えてもらっている狼鎖剣は、速さだけならば、既にビジオアをも越えている、と言われている。それはいくら何でも、とは思うが、評価してもらうことは素直に嬉しい。
いつか、この剣を皆の役に立てることができたなら良いな。そんなことを考える。
きゃああああぁ!!!
甲高い悲鳴が響き渡る。
何事!? 慌てて下を見遣ると、大通りに豪華な馬車が停まっており、周囲に人だかりが出来ている。半円状の人だかりの中央に、小さな影が一つ。
怯えている人族の小さな女の子。
「姫様、行ってはなりません!
あれは国王メイリスカラク様の御用馬車です! 関わってはならない!!」
知っている。
狼王メイリスカラク。
史上最強とまで呼ばれるその王威はあまねくコツァトル国中に鳴り響き、逆らえるものなどいない。
しかも強いだけでなく猜疑心も強い王は、自分の権威に逆らうもの全てを討伐する、とまで言われている。
守護者としては頼もしいが、決して近づいてはならない存在。
だが。
それでも、あの子は助けを求めているではないか。
ラキアは信じる。自分が正しいと信じる世界を。きっと。何とかなる。
だから。今にも手討ちにされそうになっている子を救うべく、自らの狼鎖剣を投擲した。世界を信じて。
――そして、ラキアの剣は、狙い過たずに、王兵の持つ剣を撃った。
***
……虚ろな時間。
押し込められた独房の中。ラキアには、昼も夜も感じられなかった。
王兵に酷く打ち据えられた身体は痛み、熱を持ち、動くことも叶わず、うなされる彼女を悪夢へと誘う。
朦朧とする頭で、どこで間違えたのかを考える。だけど、わからない。
傍観すれば良かったのか。
それでは、身体は助かっても、私の心はどうなってしまうのか。私の中の正しい世界が崩れてしまうことが幸せなのか。
頭がぼぅっとする。上手く考えられない。
ああ、どうすれば良かったのか――
そうして、また時間は流れる。
ラキアは差し出される食事を機械的に口に入れて、咀嚼し、飲み下す。
身体が要求するがままに排泄をして、床に横たわり、悪夢の世界へ沈み込んで行く。変化のない世界。
しかし、いつかは変化が訪れる。
扉の鍵が開き、軋む音と共に、彼女を閉じ込めていた鉄の扉が開く。
顔を上げ、その侵入者を見ると、それは彼女も良く知る顔であった。
最初に見えたのは、痛ましい顔をしたビジオア。自分の軽挙のために、彼には迷惑をかけたに違いない。嫌われただろうか。きっと、嫌われた。
続いて見えたのは、このアフアの守護者、鉄壁と呼ばれている領主エルバキア。鉄の心を持ち、厳しくも公正な、誰もが恐れ、かつ誰もが敬いを忘れない英主。
――そして、
熱でひどく怠い。辛うじて体を持ち上げることが精一杯。それでも震える腕で体を支え、何とか状態を起こし、顔を上げて領主の顔を見上げる。
対する領主エルバキアは、その鉄面皮を崩そうともせず、冷たい目で見下ろす。
酷く冷たい、親子同士の見つめ合い。
「――ラキアよ、本日はお前の罰を伝えに来た」
いつの間にか増えていた父親の取り巻きが周囲を囲む。
ビジオアは、見ていられないのか固く目を瞑り、顔もあらぬ方を向けている。
「ラキア。アフア領主エルバキアの娘、ラキアよ。お前の受けるべき罰は定まった。
国外追放だ。門の外へ出て、二度と内に足を踏み入れることは許さぬ。
――喜べ、ラキアよ。もう、お前は無関係だ」
それだけ伝えると、領主はくるりと背を向ける。
「何処なりと行くがよい。未来永劫、
――さらばだ」
そして理解が追い付かないラキアは、ただその遠ざかる足音を聞いてるより他なかった。
***
懐かしい記憶。
この乾いた風を受けると、懐かしさのあまり、封じ込めたはずの記憶がよみがえるものなのか。
閉ざされた門。
彼女を阻む、鉄の扉。
万を超す軍隊でも揺るがぬとされる、彼女の父親と同じく鉄壁と呼ばれる壁。
遠くから見るその城門は、しかも戦争を前に固く閉ざされている。
ラキアが這入る隙など、もちろん微塵もない。
そしてそのような事は先刻承知。
彼女はただ、その難攻不落と呼ばれる、高い石積みの城壁をじっと見続けていた。
――そして、その夜。
ラキアは覚悟を決めた。
元より、命を落とす覚悟は定めている。犬死にも辞さない。
失敗したら、ラキアは命を落とすだろう。馬鹿め、阿保めと蔑まれながら。
それでも、私は、やるのだ。
大きく息を吸い込む。吐く。更に吸い込む。吐く。
呼吸を整えて、体に力が満ちるのを待つ。
精神状態も安定している。
そう、私は、やるのだ。
ラキアは、その密かな自慢の足を屈伸し、筋肉の状態を最高潮に持ってゆく。
裸足の指を屈伸させ、神経が指先まで届いていることを確認した。
――そして、彼女は大地に両手をついて、走り出した。
目指すは、陰になっている城壁。
見張りの目が届きづらい、壁の基礎部分。
見張りの動きはここ数日の観察で、大体理解した。
この時間帯、この進路であれば、おそらく気づかれない。その想定は過たず、彼女は城壁の真下に、見張りに気づかれずに取り付くことに成功した。
そしてそのままの勢いを保ちつつ、彼女はいよいよ城壁に足をかける。
ここからが本番。ここからが命懸け。
ラキアは、城壁を駆け登り始めた。
石積みの城壁、僅かな凹凸に足をかけて、城壁を斜めに駆け上がる。
狼人特有の足の爪、その鋭く、ゆるく湾曲した爪が壁面を把持し、体を支える。
狼人が持つ脚力。尻尾によるバランス。裸足の足を保護する肉球に壁を掴む爪。
人間は持ち得ない天与の身体を使い、ラキアは駆け上がる。
速度が続かなければ落ちる。
とにかく、いつ落ちてもおかしくはない。
走れ、走れ、走れ!
ラキアは、心を白く保ち、
足が痛い。きっと、足裏は傷つき、皮膚は破れ、血が壁を汚している。
爪が痛む。きっと、爪はひび割れ、あるいは折れ、あるいは剝がれている。
筋肉が動かない。空気が足りない。息が苦しい。
ああ――息が続かない。
それでも、ここで落ちるわけには行かない!
私は、足を動かす! 走り続ける! 駆け抜けなくてはならない!
壁上に焚かれた灯火が見える。
見張り兵達が私を見つけて、指を指している。
見つかった。当たり前だ。何しろ、目立つ赤い衣を着ているのだから。
息苦しさにそれは彼女の視界が白く霞む。
持つのか? 私は最後まで持つのだろうか。考えてはいけない。自分を疑ってはいけない。
――私は、成し遂げる!
そんな中、見張り兵が本来の役割を果たす。
弓矢を私に向ける。驚嘆した眼で私を見ながら、その鋭い鏃を私に向ける。
それは駄目だ。射っては駄目だ。
そんな中、誰かが何かを喚いているのが見える。
しかし何を言っているのかは分からない。
分からないが、兵達はばらばらと弓矢を下ろす。
――助かった?
そんな中、一人の兵が、その矢を放った。
うっかりなのか、故意なのか。分からないが、鋭い鏃が私に向かう。
まるで時が止まったかのような、ゆったりした矢の動き。
私はこれを受けて落ちるのだろうか。
塀の上には、先ほど喚いていた誰かが、身を乗り出してこちらを見て叫んでいる。
聞こえない。何を言っているのか分からない。
それでも、その者がビジオアであることは分かった。
ビジオア。迷惑をかけてしまった相手。
結局、まだ謝罪もしていないではないか。
いま、そこに行くから。
私は壁を蹴り、宙を駆ける。
目標を見失った矢は壁に当たり、失速してひょろひょろと地に落ちて行く。
あれは数瞬後の私と同じか?あれが私の運命?
否!
私は、まだ死ねない!
右腕に嵌めた狼鎖剣を放つ!
狙い過たず、峡間胸壁に剣が当たり――しかし、弾かれる。
石に突き立つほどの威力を出せなかった。それが私の敗因か。
弾かれ、宙を舞う剣を見て、私は自身の失敗を悟る。
後は落ちて、地面を汚すだけ。それまでの人生。
ああ、まだ死にたくなかったな。
私はそこまで考えたところで意識が途切れ、意図がぷつんと切れたように、頭の中が白く染まっていった――
***
ぱちり。
目を開けた時、その石造りの天井は、微かな懐かしさを胸の内に呼び起こす。
私が罰を受け閉じ込められていた独房。そっくりの天井。
身動ぎする。体が痛む。
全身の筋肉が悲鳴を上げるが、特に足が酷い。
足の裏、爪、ありとあらゆる足のパーツが、痛い痛いと悲鳴を上げている。
その痛みが、自分が生きていることを告げている。
そうか。私は生き残ったのか。
不思議だった。あの状態で、どうして生き残れたのか。
その時、扉を叩く音が聞こえ、続けて軋みながら開く音が続く。
空いた隙間から出てきたのは、年を取ったビジオア。懐かしい顔だった。
「……姫様、なんという無茶を……。
貴女は、いつも私の心臓を止めようとしているのではないかと、いつも疑っておりました……」
「ごめんなさい、迷惑をかけたくはなかったのだけど。
きっと、ビジオアが私を助けてくれたのね。いつもありがとう」
そう言って、微笑みかけた。
その言葉を受けて、目を押さえて横を向くビジオア。
泣いているのか。心配をかけてしまい、本当に申し訳ない。
「姫様、領主様がお呼びです。体調が悪いとは存じますが、ご一緒いただけますでしょうか」
これ程までに迷惑をかけたあたしに、まだこれほど丁寧な言葉遣いで話しかけてくれるとは。
ビジオアは本当に優しい。
「もちろん、構わないわ。
でも、歩けそうもないの。
申し訳ないけど連れていってくれるかしら――昔のように」
***
狼も眠る深更。じきに夜空は赤紫色に染まって行く頃だろう。
執務室に通されたラキアは、ビジオアの手を離れて跪こうとして、身体がそれを許さないことを知った。
「良い、無理をするな」
こちらを見ずに、背中を見せたままの
「お前には、二度とここに戻るなと言ったはずだ。何故、戻った!」
不意に強く響く声。
先ほど感じた弱さは、やはり気のせい。父は強く、厳しく、冷たく、そして正しいのだ。
「申し訳もございません。あの後、私はユーハイツィアに赴き、そして罪作りな生を歩んでしまったのです」
未だ癒えぬ傷に身体が意識を苛むが、気力を振り絞り話し続ける。
狼人工房で武具の製造に携わったこと。
その武具がアフアに牙を向くことを知り、己の不明を恥じたこと。
そして現在、進攻しようとしているユーハイツィアならびにゼライアのこと。
僅かなりとも、役に立てれば良い。
ラキアはそう願い、話続ける。
「――以上です。
この愚かな身、この上は如何様な処罰も慎んで受け入れるつもりです。
ですが、無駄に散らす程なら、私のことを一兵卒としてで構いません、使い捨てで構いませんので、軍の末席にでも置いていただけないでしょうか」
――言いたい事を言えた。
ゼライアを出てより考えていた、父に伝えたかったこと。
これで、あたしはここで死んでも悔いはない。
「この、馬鹿者がぁ!!」
そのラキアに返ったのは、阿鼻叫喚の戦場でも響き渡るであろう怒号。
渾身の怒りの声。
覚悟はしていたが、今のラキアでは意識をつなぐのが精一杯だ。
震える身体を叱り付け、何とか倒れないようにするラキアに、次の言葉が響く。
「お前には、言ってあったであろうが……この
「しかし、領主様、私は……」
「お前は、気にすることなど無かった! 王兵に歯向かった以上、この国には居られぬから、せめて他国で自身の幸せを探して欲しかった! お前に望んだのは、ただそれだけだ!!」
ぴしり。
自分の中で、何かがひび割れる音がした。
今、なんと?
「あの時は王兵に見張られ、あれ以上は声をかけられなんだ。それが公になれば、お前には更なる罰が下るから。
しかしまさか! お前がここまで愚かであったとは……!! 口惜しいぞ……!
!」
そう言って、こちらを向こうとしない
――泣いているのだろうか?
「私がお前に会うことは成らぬ。そのように定められている。
だから、お前の顔を見ることは叶わないが、今度こそ今生の別れだ。
……私はお前をこれ以上、守ることができない。だからこそ、今度こそ、お前は自分の幸せだけを考えろ。父が望むのは、それだけだ」
国外追放。二度と内に足を踏み入れるな。お前は無関係だ。
あの、自分を突き放した言葉が、まさかそのような底意から出たものだったとは。見捨てられたと信じた自分の浅はかさ。
父の背中が震えている。
かつてはあれほど大きく見えた背中は、今はなんと小さく感じるのか。
そして、とても優しく、身近で、愛おしく感じられる背中。
ああ、私は間違いを犯していた。
自分は、このように愛されていたとは。
兄弟がいるから、自分がいなくなって問題ない。父には領土を守る責務があるから愛情を求めてはならない。
なんと、考えの至らぬことか。
ラキアは、自身の頬に一筋の雫が走るのを感じた。
それは、昨日までの愚かだった自分の考え。だから、流れるに任せた。
――だが。
父には言えない。ゼライアの領主を襲撃し、国を逃げるように出てきたことを。
コツァトルには居ることができず、ユーハイツィアにももはや居場所はない。
自分には戻る場所など、どこにもないのだ。
そのようなことは、背中を震わせる父に言うことなどはできない。
だが、そうだ。
この戦争を止められないだろうか。
いずれの国にも居られぬ自分を、この身を捨てる覚悟で臨めば、何かできるのではないだろうか。
これ以上、父やビジオアに負担はかけない。
あたしは外に出て、自分の為すべきを探す。
だから、あたしは走り続けなくてはならない。
自分の正しい世界、それを貫くために、あたしは生きているのだから。
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