第3話 狼人に囲まれた僕は緊張の毎日を送る。

 遠くから声が聞こえる。


 僕を呼んでいるのかな。

 誰だろう。とても優しく響く、この声。

 暖かい陽だまりの中、優しく、僕にささやいてくれる、この声。

 ああ、でも、まだ眠いんだ。暖かくて、まだ微睡んでいたいんだ。

 このまま、もう少しだけ、もう少しだけ、もう少しだけ……


「うばはっ!?」


 突然の衝撃で、意識が一気に覚醒した。

 何事!?

 思わず、四つん這いで左右を見回す。


「やっと起きたようね。いつまでそうやっているつもりなのよ」


 そう言って、冷たく僕を見下ろす視線の主。

 いつもの真っ赤なコートを羽織って、既に出かける準備が万端だ。


 やば!ごはん!


 あわてて机の上を見ると、大振りの葉っぱの上にパンとチーズの塊があり、脇に水が注がれた木のコップが並んでいた。

 慌ててパンに飛びつくと、既にラキアは出ていこうとしていた。


「待ってー!」


 叫んではみたものの、扉は無情にも閉じてしまう。僕は慌てて身支度をして、彼女を追いかける。

 僕の、最近の日常の風景だった。


***


「おはようございます!」


 うん、だいぶ挨拶にも慣れてきた。

 ここが僕の新しい職場、人呼んで狼人おおかみびと工房。最初に、棟梁のところに挨拶に向かう。


「グネァレンさん、おはようございます!」

「おう、今日もギリギリだな」


 今日の作業書に目を通しながら答えるグネァレンさんは、目測で身長百九十センチを越えるであろう威容を誇る狼人おおかみびとだ。筋肉質の身体には余分な肉らしきものも見当たらず、精悍な顔に短めの髪、そこから伸びる鋭く尖ったケモミミ。

 この荒くれ者共の職場を制する、正にボス狼である。


「てめぇ、新参者の癖にこんな時間に来るとは、どんな神経しているんだよ!

 だいたい、人族が来るところじゃあねぇだろ、どっか行ってしまえよ!」


 横合いから罵声が飛んでくる。

 見なくても声の主は分かるが、因縁をつけられても困るので顔は向けておく。


 声の主は、アロトザという名の、燃えるような赤毛の狼人。僕と同じくらいの身長だから、たぶん百八十くらいの身長。しかし僕と違い、格闘家のような逞しい身体を持つ。

 そして困ったことに、妙に僕を嫌っていて、良くこうして嫌味を言ってくるのだ。


 何も言えずにへらへらした僕が癇に触ったのだろう、アロトザがこちらにつかつかと近寄って来て胸倉を掴む。

 そして口を開けて――


「やめな、アロトザ!

無抵抗な相手に凄んでも、格好悪いだけだよ!」


 横合いから、鋭く制止の声がかかった。僕の耳に馴染んだこの声。


「ラキア!」


 アロトザが、その名を呼ぶ。

 ちっ、と舌打ちして、僕を一睨みすると、手を離して去って行く。


 僕がラキアの方を見ると、既に彼女は背を向けて歩み去るところだった。

 ちなみにこの狼人社会、仕事に大きく影響しない限り、この手の事態には周囲はあまり干渉しない。集団における順位付けの一環として、許容されているらしい。

 僕のような人間にとって、恐ろしい社会である。


「おはようございます、ホルザックさん」

「おはよう、ココロ君」


 柔らかい栗毛の毛並みをした、この工房では珍しく柔和な表情をしたホルザックさん。

 力強さが尊ばれる狼人社会において、珍しく手先が器用で、細かい作業が得意。僕の仕事は、彼の作業を手伝うこと。

 彼の隣に座ると、物も言わずに差し出された組み立て前の部品を手に取り、作業に移る。


「また、アロトザに絡まれていたね。君も、こんな狼人しかいない職場を選ばなくてもいいのに、物好きだね」


 珍しく、隣から声がかかる。

 この工房、人族って僕だけだから目をつけられるのだ、と言われているようだ。


「まぁ、僕も訳ありで、ラキアに助けて貰わなかったら、行き場もないから、他に選べないのですよ」


 と、苦笑しながら答える。

 もっとも、仮に他に選択肢があっても、僕はラキアのいるこの職場を選ぶだろうが。


「アロトザは、ラキアに気があるからな。お前のことを嫌っている。

気をつけた方がいい」

「そうなんですか、ありがとうございます」


 知らなかった。

 だから、初めて会った時から険しい目で睨まれていたのか。

 しかし、ここに一か月近くも通って、初めて忠告して貰えたのは、少しは認めて貰えたということだろうか?

そうだと嬉しいな、と思いながら、僕はまた黙々と作業を続けた。


***


 昼である。


 豊かとは言えない狼人工房だが、肉体労働なので昼もちゃんと取る。

 といっても、ぼそぼその黒パンとチーズという、いつものメニューだけど。


 ただ、男性陣は、あまり群れて食事を取る習慣はなさそうで、思い思いの場所で勝手に食べ、丸くなって寝ている。


 僕は折角なので、今日は外で食べることにした。この工房には庭があって、自由に使えるのだ。


 外に出て、適当な石に腰かけて、ぼそぼそのパンを水で流し込む。

 眩しく僕を照らす太陽、雲も殆どない、青く澄んだ空。時折そよぐ心地よい風は湿気も余り感じられない。

 緊張感が霧散し、心が安らぐ。


「あれ、あんた、こんなところで何やっているの?」


 しゃきーん!

 と、心の中で効果音をつけ、飛び上がるように上体を起こす。


「ラキアこそ、こんな所で何を?」


 声の方を見ると、ラキアと、その後ろに女性の狼人が二人ほどいた。

 黒にやや紫がかったような黒紫色の長い髪を持った背の高い女性と、背中にかかるほどの明るいオレンジ色の髪をした普通の背丈の女の子。

 黒紫髪の女性の方は珍しそうに、オレンジ髪の女の子は怪訝そうにこちらを見ている。


「今日は天気がいいから、外で食べようかと思ってね。邪魔をした?」

「いやいや、とんでもない!暇していたところだよ!」


 昼休憩までラキアと会えるとは、嬉しいな!とか思いつつ、姿勢を改める。


「そう?なら、ここにお邪魔するわね。

 一応、紹介しておくわ。

 この背の高い女性はトルベツィア。私と同じ職場で働いている先輩。

 橙色の髪のこの子はヒィズ。渉外担当と言って、発注や納品なんかの、外部とやりとりする係を担当しているの。仕事柄、あんたとも関係してくるかもね」

「よろしくお願いします!」


 そう言って僕はぺこりと頭を下げる。

 トルベツィアさんも、ヒィズさんも、頭を軽く下げて挨拶を返してくれた。


 僕の座っている石の側の芝生で、思い思いの場所に座る三人。

 何気ない風を装っているが、耳と尻尾を見ていると、何となく彼女達の感情が伝わってくる。


 ラキアは普段通り。耳も尻尾も、いつも通りにピンとしている。

 対してトルベツィアさんは、少し鋭く尖った耳を時折こちらに向け、尻尾を少し揺らしている。あれは、緊張していると言うよりは、好奇心がある感じ、だろうか。

 問題はヒィズさん。丸みを帯び、先端がへにょんと垂れた耳をそわそわと動かし、尻尾も真っすぐに伸びてぴくぴく動いている。完全に警戒されている、気がする。


……これは、ヒィズさんが寛げない、だろうなぁ……


「あ、僕は、そろそろ仕事場に戻るね」


 そう声をかけて、その場を離れた。

 そうしたら、トルベツィアさんが追いかけてきて、肩を叩かれる。


「ごめんね、邪魔しちゃったかな?」


 そう言って、ニコリと笑う。

 とても魅力的な笑顔。


「いえ、なんか僕がいると、ヒィズさんが寛げないかな、と思って。

 気のせいならいいのですけど、彼女が少し僕を敬遠していたような気がして」


 素直にそう伝えると、少し困ったような顔をするトルベツィアさん。


「やっぱりね。ごめんね、あの子、少し人族が苦手なのよ」

「え、渉外担当がそれだとマズいのでは?」

「それがね、狼人はどうも気が強いのが多くて、人間との折衝に向かないのよ。

 その点、彼女の場合、少し気弱に見えるところがあるから、人間側も気を許してくれやすくて、それで彼女にお願いしているの」


 そんな理由で折衝をまかされたら、彼女もたまらないのではないだろうか。

 僕の顔に、その思いが出ていたらしく、トルベツィアさんが補足してくれる。


「ああ見えて、あの子も狼人だから、芯は強いの。大丈夫よ。

 ただ、小さい頃からこの街で育った彼女は、昔から人間達に嫌な思いをさせられていてね、仕事以外で接触するのが嫌みたい。

 そんなだから、仕事で人間の相手をするのは、慣れているから、安心して」


 そう言って、手を上げてから戻っていく。

 うーん、しかしそれは本当に大丈夫なのだろうか。

 少し雑な感じのする人事に、僕は首をひねってしまった。


***


「まぁね、本当を言えば、彼女はあまりあの仕事には向いていないのよね」


 ずっと違和感が消えなかった僕は、夜、ラキアと食事をしながらその話を持ち出してみた。そしてやっぱり、ラキアも同じように考えていることが分かった。


「でも、トルベツィアが言うことも本当。

 彼女も割と芯はあると思うし、それに狼人達が交渉事に向かないのも確か。

 特に、この街で狼人は、かなり扱いが悪いから、尚のことね」


 そう言って、溜息をつくラキア。


「なんでそんなに狼人って、嫌われているのかなぁ?」


 ラキアを知る僕としては、全く理解が及ばない。


「あんた、この国のことをどれだけ知っている?」

「いや、全然知らない。国の名前も知らない」


 それを聞いたラキアは、再び大きくため息をついた。


「知らない間にここに飛ばされてきたとか言っていたけど……あんたの言っていた国のことをあたしも知らないけど、本当にどうしてここにあんたは居るのかしらね」


 そう前置きをしてから、彼女は説明を続けてくれる。


「この国に名前はユーハイツィア王国。その中にあるゼライア領の領都が、ここゼライアという街。

 そして、ユーハイツィア王国に接している国に、コツァトル王国という国があるの。

 この世界で唯一の、狼人の王国。

 ここゼライア領と、コツアトル王国のアフア領が、それぞれの王国の門として隣接しているのよ」

「狼人の国っていうのがあるんだ?

 そしたら、ラキアや狼人工房の人達は、そこから来て、ここに住んでいるの?」

「そうだけど、そんな単純ではないの。

 ここに住んでいるのは、基本的に、コツアトルを追われた者達。

 あのヒィズなんかは、両親が追放されて、この街まで逃れてきて生まれた子。

 あの子自身に罪はないけど、もうコツアトルには帰る場所がないのよ」

「……ということは、ラキアも国を追われたの?」

「うるさいわね。蹴られたいの?」

「……いえ、今はいいです……」

「引っかかる言い方だけど、説明を続けるわ。

 昔から、ユーハイツィアとコツアトルは、何度も戦っている仲。要するに、仲が悪いのよ。

 それでも、ユーハイツィアはコツアトルの獣や鉱石を、コツアトルはユーハイツィアの技術や工芸を、お互いに欲していて、表面上は仲良くしているの。

 表面上は、ね」


 そういって、溜息をつくラキア。

 溜息などめったにつかない彼女が、今日は三度も。珍しい。


「そんなわけで、心の底では、お互いに嫌い合っている。蔑み合っている。

 だからね、人間達は、あたし達を嫌いで、蔑みたいの。

 そんなわけで、反抗的に出られないこの街で、私達は人間達に蔑まれながら生きて行かなくてはならない」

「良く、そんな環境で、狼人工房なんて運営できるね?」

「あれはだから、狼人と必要以上に険悪にならないよう、保護を目的にゼライアの領主が運営しているのよ。仕事もだから、役所を経由して受け取ってくるの。

 すっごく安く叩かれているけど、それでも生きていけるよう配慮されている。

 過度に暴力に晒されたりしないように、最低限の法律も整備されているわ。

 逆に、ゼライアの都を出たら法は護ってくれない。

 だから、皆、嫌でもここで生きて行かないといけないの。人間を嫌い、内心では蔑みながら、ね……」


 そういって、遠い目をするラキア。

 彼女自身は、そんな差別や蔑視をするようには見えないが。


「僕は人間だけど、君達のことは対等の友達だと思っているよ!」


 思わず大声で、ラキアに向かい叫んでしまった。

 ラキアは少しびっくりした目で僕を見て、そして少し柔らかな表情で笑った。


「そうね、あんたからは、そういう変な視線は感じない。

 本当に、変な奴だよ、あんたは」


 これは誉めてもらったと思っても差し支えないだろうか。

 少しくすぐったい思いをしながら、この話は終わった。


 その夜、僕は寝床に入りながら、そんな人族の僕を助けてくれたラキアこそ、本当に変わっている女性なのではないかと、今頃気づく。

 こんな素敵な女性と会えたことを感謝しながら、僕は藁のベッドの上で丸くなり、そのまま眠りに入っていった。

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