涙の意味

日暮マルタ

散歩

 ある日ジェラルドは、森にある湖のほとりで泣いている少女を見つけた。少女というにもまだ幼い、あまりにも幼さの残る少女だった。ジェラルドはインキュバスである。とはいえ、流石に手を出そうと思えない程の年齢に見えた。子供らしさとは、小さな体躯の中でも特に頬に現れるものだとジェラルドは思った。ぷっくりと柔らかそうで、それは非常に「可愛らしい」ものであった。

 その子が泣いているのを見るのは一度や二度ではなかった。来る日も来る日も、白い服を涙で濡らしている。あれは近隣の修道院のものだ。少女は、小さく声を上げるのを抑えるように、泣き声を漏らし続ける。思わず、ジェラルドは声をかけてしまった。顔を上げた少女は、白い肌には涙が伝い、大きな碧の目が美しかった。その程度は、並外れて。よくできた、美しい人形のようだった。


「その子がかわい……そうでさぁ」

「今可愛いって言いそうになっただろ」

 ロリコン! とジェラルドを罵ったのは友人のタヌキだ。ややこしい名前だが、純粋な悪魔の友人であり、以前異国で見つけた動物が可愛かったからと名前だけでもタヌキに改名した人物である。ジェラルドとは長い付き合いになる。

 俺はロリコンじゃないし、と思いながらも、少女の元へと通い詰める生活が始まった。彼女の名前はハルア。人間達が崇拝している「天使」のような少女だ。彼女は毎日泣くために森へやってくる。

 なんでその子供泣いてんの、と言い放つタヌキに、ジェラルドはまた話し始めた。


「大丈夫?」

 そう尋ねたジェラルドが見たのは宝石も劣る生きた人形の美しさ。表情を殺しながらも内心驚いていたら、「あなたは?」と言われる。その声もまたこう……背中がぞくぞくするのであった。

「俺は通りすがりのジェラルド。この辺りを散歩コースにしていたら、ここ最近毎日泣いてる君を見るんだが」

そう、と少女は静かに言った。いつの間にか、涙は止まっていた。いや、ジェラルドに声をかけられてから、唐突に涙は出なくなっていた。人形のような……少女。それが彼の第一印象で。

 それが崩れていった始めのきっかけは、少女の笑顔を見たことだとジェラルドは思う。だって毎日泣いているのだ。それも一人の時に。美少女が。放ってはおけなかった。日参するジェラルドのささやかな花や異国の硬貨の贈り物は、いつしかハルアの凍った表情を柔らかく溶かしていった。贈り物がなくとも、ハルアはジェラルドを待つようになった。もう涙は流してはいなかった。

 どうして泣いていたのか。それをジェラルドが直接聞いたことはない。ハルアも話してくれなかった。ただ、二人の間にはいつしか穏やかな空気が流れていた。悪魔と人間であること、そんなことは些末に思えた。しかし。

(俺が悪魔ってばれたらさぁ)

 終わるんだよな、とジェラルドは思っている。その時が恋しいようで、胸が切ない。


「ロリコンじゃん……」

 話を聞き終えたタヌキは、先程までの冗談そうな口調はやめて、真剣に引いていた。

「違う、俺はロリコンじゃない。健全なインキュバスだ」

「健全なインキュバスは思春期以降の男女をささっといただかね? そんな一〇歳ぐらいの女の子に毎日何の目的もなく会いに行く?」

「いや俺は健全だ。何もしてないし」

「それがおかしいって! 普通のインキュバスは何かするんだって!」

 タヌキはジェラルドに指を突き付けた。多分さ、その子人間じゃないよ。擬態してる天使の可能性が高い。やられるまえにやっとけよ。

 言われてみるとジェラルドにも、そんな気がしてきた。だってあまりにも美しく、一緒にいると楽しいのだ。自分はロリコンではないはずだし、異常なのはあの子の方だ。人間じゃない。しっくりときた。あの子は人間じゃない。タヌキの言葉がやけに残る。

 人間じゃないなら、何かしても問題ないのでは……? ふと、そんな風に思って、そう思った自分が急に憎くなった。

「え、何怖い怖い怖い」

 ちょうどいいやつが目の前にいた。タヌキは褐色肌の健康的な悪魔である。体力も人間とは違うので三日三晩楽しめる。ジェラルドの守備範囲は広く、昔天使を屈服させたこともあった。子供は裂けるからしないけど、それ以外は割と悪食なのである。タヌキの腕をつかめばもうおしまいだ。腕力には自信がある。獲物がいやいやと抵抗するのもまたジェラルドの楽しみの一つで、にへらと笑って一言伝えた。「相談のお礼に、今日は酷くするわぁ」

 勘弁して、やめて、何がスイッチだったの怖い、と言って逃げるタヌキをねじ伏せた。


 数日後、ジェラルドはハルアの寝所にいた。数日タヌキと相談という名の格闘技をこなした後、悩みぬいた彼はハルアの後をつけた。小さな修道院で、よく燃えそうな木造建築だった。誰かが火をつけようとすれば、それは良い明りになるだろう。

 既に布団を被っていたハルアは、突然の夜の訪問者を見ても、寝ぼけ眼で夢でも見ているのだと断定した。再び目を閉じて眠りへの道を辿ろうとした時、「俺はお前のせいでノイローゼなんだよ」という声がした。それは夢の国でなく、部屋にある暖炉の付近から確かに聞こえた。現実でよく会う、湖のほとりの男の声だった。鬱蒼とした森を思わせる、数々の思念の混ざった声色だった。

「お前天使みたいっていうか本当の天使なんだろう? 天使って攻撃性高くてすぐ殺しに来るから先にやっちゃう。ごめんね」

 ハルアには何のことだかわからなかった。当然である。彼女はただの人間だったのだから。

「ここは男子禁制のおうちです……ジェラルドさん」

 ただ、なんだか嫌な予感はしていた。粗末な部類に入る小さな修道院とはいえ、それなりの設備で侵入者を除外しているのだ。そこにいつも通りの格好で何事もないかのように侵入してしまっている男の姿が、当然のごとく胸騒ぎのもとになった。眠気も吹き飛ぶ。

 ハルアは清貧な寝間着をまとっていた。ジェラルドは、いつも湖で会う時と同じ、少し露出の多い異質な格好をしていた。この付近の人間は着ないような服なので、ハルアはジェラルドを服で覚えている節がある。インキュバスとは、見る者にとってとても美しい姿に見えるものだが、ハルアには「面白い服のお兄さん」と映っていた。それがハルアには魅力だったので。

 ジェラルドは病的にハルアを敵だと思い込もうとしていた。敵だ。敵なのだ。しかしこの怯えて震える小娘は何なんだ? この目に見えている、自分が近づいても枕を抱きしめるばかりの、小さくて非力な生き物は本当に人外のそれなのか。いや、だって、こんなに無力で愛らしい。

「天使じゃないの……」

ジェラルドの知る天使とは、美しい姿をしているか、あるいは怪物のような姿をしているかのほとんどどちらかだ。人間からの信心を集めるためのマスコットか、本性をさらけ出したおぞましい怪物の姿か。ハルアの愛らしさは、マスコットの天使によく似ていた。しかし、神聖さではなく、どこか哀れっぽい愛らしさ……語弊を恐れずに言うならば、惨めに見える。それがジェラルドの劣情を誘っていたのだ、と、彼は気付いた。この少女は人間だ。淫魔をロリコンへと堕落させる危険を孕んだ恐ろしい人間だ。

「私は人です。ジェラルドさんは、やっぱり、悪魔だったんですね。気付いてました……」

 ハルアはいつしか見せなくなっていた涙をまた見せた。ほら、この水だ。この液体に、ジェラルドは心揺さぶられ、現にこんなところまで来てしまった。

「気付いててなんで仲良くしてたの」

 ジェラルドはある種の感情を覚え持っていた。なぜ出会ってしまったのか。なぜ誘うような涙を流すのか。なぜ、なぜあんなにも穏やかな時間をくれたのか。それは怒りとも呼べるかもしれない、しかし最適解ではないだろう。


「私は罪人だから……楽しかったから……」


「ということでハルア、天使じゃなかったわ!」

「えっ……待って、それで何もせず帰ってきたの……一人の淫魔としてお前何なの……」

 俺のことは食うのに……とタヌキがぼやく。

 罪人悪人皆友達、ジェラルドは結構単純な淫魔である。ハルアは時々湖に来ない日ができた。しかし時々泣きに来る。そしてジェラルドに会うと、あ、また会っちゃったな、という感じで微笑んでくれる。

 ハルアに対して、時折ジェラルドは残酷な気持ちになる。しかしハルアは子供だし、まだ小さすぎる。聖性が強い容姿も気になった。決して手を出してはいけないと思っている。

 この頃、ジェラルドは仕事の方が忙しい。彼は懸賞金の出ている聖職者殺しで生計を立てている。最近、相手の方からやってくるのだ。なぜかジェラルドのことが知られている。どうやら人間の貴族がジェラルドを退治しに、魔族の中では懸賞金のかかっているような聖職者ばかり雇っているらしい。儲かる、稼げる、忙しい。いつどんな理由で貴族の恨みを買ったのか、ジェラルドに心当たりはなかったが、ハルアは知っていた。その貴族本人と手紙のやり取りをしていたからだ。湖で、忙しいとぼやくジェラルドに、ごめんなさいと謝っていた。


 まだ準備ができていない、とずっと言い張っていた。理由にジェラルドまで使った。彼は悪魔なのだから利用してもいいのだと思った。ハルアは、近々その貴族と結婚する手はずになっていた。妻が成人すると離縁する、筋金入りのロリコンで、孤児だったハルアは断ることもできず、死んだような気持ちで受け入れることになっていた。

 貴族が雇った聖職者達は懸賞金のかかっているような連中だったので、首が高く売れるとジェラルドは喜んでいた。ただ、場所が不味かった。ジェラルドは拠点を動かさないから、やがてはいつもの湖の場所を突き止められてしまった。


 今更十字架なんかで何をするのか。好まないけど、有効打にはならない。ジェラルドは髪を振り乱し追いすがってくるエクソシストの鳩尾に拳を入れた。ただ穏やかに楽しく暮らしているだけなのに、それを許さない権利など、神にも悪魔にも無いはずだ。そう思うと一人一人の驕った聖職者が憎くもなった。軽く見てもいい命だ。だってそのつもりで向かってきているのなら、同じことを返すだけだ。エクソシストは膝をつき、まだ何か繰り出そうとしている。この人どんな声出すんだろうなぁ、とジェラルドは想像し、すぐにやめた。ジェラルドの一撃は重い。昔から荒事は得意だった。神の名に縋る人間の体が遠く吹っ飛ぶ。

 どう見ても一方的なやりとりだった。悠々と徒歩で距離を詰めるジェラルドと、逃げようと蠢く人間。そこに小動物を絞め殺したような息の音がした。ハルアが来てしまった。

 ジェラルドは何の気負いもなく、怯えているハルアに、ちょっと待ってね、今この怖いおじさん片づけるから、と言った。ハルアは腰を抜かしてその光景を見ていた。ジェラルドがハルアの元に戻ってきた時、ようやく怯えられているのが自分だと気が付いた。あまりにも遅かった。

 もう一緒にはいられない。最後に見たハルアの顔はまた、泣いていた。こんな気持ちになるならば、仲良くならなければよかったなぁ、とジェラルドは思った。そっと空へ飛び立っていく背に、ハルアは何か言おうとしたが、もう彼は聞く耳を持ってはいなかった。

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