藍より青し
司弐紘
前編 月苗美佐緖
終わりの始まり、始まりの終わり
夜の闇が包み込む、血液さえも凍りそうな寒さ。さんざめく凍てつく星の光。肌を刺すような蒼光を、地表に振り下ろしている。
そんな冷気の中、窓ガラスが割れてしまった廃ビルでは、すでに人間が存在する場所としては落第しているのだろう。
だからこの場にいる二人は、きっともっと前から人間としては落第で。
いやこの場が落第の始まりであったのか。
それは、誰にも判断出来ないのかも知れない。
しかしこれだけは、ハッキリしている。
片方の命が終わりを迎えようとしていることは間違いないのだから。
首を絞められている。頸動脈は自然に圧迫されているのだろう。気道は塞がれ、悲鳴を上げる隙間も無い。あまりに簡単に人は人に終わりを与える事が出来る。
首を絞めている方の歯の隙間からは、苦悶の呻き声が漏れていた。苦しむことさえ生者の特権――いや「業」と言うものであったのか。
苦しさだけで、呻き声を漏らしているのでは無い。
どうしてこんな簡単に人間は死んでしまうのか? それに理不尽な怒りを感じているかのようにも見えた。
始めるつもりは無かった。始めるための準備はしていた。
だがそれは結局、始まっていないと言うことなのだと――
どうしようも無い後悔が纏わり付いた歓喜の中で、締められていた方の体から力が抜けた。
終わったのだ。いや始まったのか。とうとう引き返せない状況まで踏み込んでしまった状態を、果たして“終わった”と表現すべきなのか。それとも“始まった”と表現すべきなのか。
そして生き続けてしまった方が、力を抜いた。
重力に引かれるままに、死んでしまった方の頭がひび割れたリノリウムに叩きつけられ、鈍い音を響かせる。その音が冷気を振るわせ、聴覚が触覚にすり替わる感覚。
未だ息をしている方の右足が上がる。そのまま一歩後退った。
逃げるのだろう。
人を殺した後、人間であるなら逃げなくてはならない。
そんな倫理観は成立するのであろうか? だがそんな倫理観が存在するとして、まさにそれに逆らうことで、生き続けた方は踏みとどまることが出来た。逆に一歩踏み出す――必要も無いのに。
終わらしただけではダメなのだ。
ここから始めなければならない。ずっと前に始まっていたとしても、まだ終わらせることは出来なかった。
つまり終わらせないと言うことは――ずっと始まり続けると言うことなのか。
死んでしまった方の頭の皮膚が割れて、血が滲み出す。血から白を抜き出すような湯気が立つ。死んだというのに簡単に体温は下がらない。
殺す事は簡単だったのに。
そんな生の残滓である温かい血の処理に迷うかのように見えた生き続けた方は、小さく首を横に振ると、血で汚れることには構わず死体の服を剥ぎ取ろうとする。
もちろん上手くゆくはずが無い。
そこで生き続けた方は、フロアの片隅に積み重なっていた残骸の中からスポーツバッグを引っ張り出した。
さらにスポーツバッグから、おお振りのハサミを引き出す。裁縫用ではない。それはきっと……
本来の用途とは違った使い方――あるいは至極真っ当な使い方の一環として、そのハサミは死体から服を取り除くために使用された。
濃い緑のニット帽は簡単だった。元の色がわからなくなった着ざらしのジャンパーは背中の部分を縦に切り、それぞれの腕から引っ張る事で抜き取った。
その下のけば立った灰色のパーカーは、面倒になったのか下着のシャツまで含めて、ズタズタに引き裂く。
さらに死体から布を剥ぎ取っていった。苛立ったようにハサミを振り回しながら。
決して慣れた手つきでは無い。ジャンパーの時とは逆に、袖だけが見窄らしく残ってしまう。そして饐えた臭いが立ちこめた。
それもまた生の残滓であったかも知れない。次にはどうしようも無く、死を想わせる腐臭が発せられるとしても。
そして下半身からは、それらが綯い交ぜになった臭いが漂ってきた。
すでに生ある事を主張する必要が無くなった不随意筋が、仕事を辞めているのだから当然の現象だ。
ジーンズを切り裂く手間を避けたと言うよりも、手早く済ませたいと考えたのだろう。ベルトだけを切り、両足首から一気に引き抜く。下着もついでとばかりに抜き取った。
そこで一旦、死体から離れ、水の入った二リットルのペットボトルをスポーツバッグから取りだし死体に水をかける。この寒さの中では、そのまま心臓麻痺で死んでしまいそうな行いであったが、人は二度も死なない。
その理屈が安心をもたらしたのか、生き残った方の手つきに淀みがなくなってきた。そして洗浄が一段落したところで立ち上がり、入念に死体の様子を窺う。
背中は無論、脇や内股についても確認していた。さらにはスマホのライトまで付けて確認を続ける。
それは終わらせたことを誤魔化すようで。
あるいは始めることを躊躇しているようで。
だがそれでも生き残った方の動きに、もう淀みはなくなっていた。
今度はスポーツバッグから、包丁を取り出したのだから。それは出刃というよりももっと細身の、ペティナイフのようで。
そして、死体の肩口に突き立てる。
命を奪うためでは無い。命は二度も奪えない。
だからこれは――
――やはりあらゆる意味で“始まり”ではあったのだろう。
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