信仰対象
早河縁
第1話
神の存在を信じるか、信じないか。
不意にそう問われた私は答えた。
「サンタクロースのようなものだ」
いたらいいし、いなくてもいい。その程度のものだと考えている。
幽霊だって妖怪だって同じようなものだと思っている。
今日はクリスマスイヴだった。だからサンタクロースに例えてやった。
残業を終えて疲れているところに同僚が突然訊ねてきたのだが、彼は、私の言葉を聞いて激怒した。
「いてもいなくてもいいだって?君はどうかしている!」
どうかしているのは君のほうだと言ってやりたかった。
普段は温厚で人畜無害であるはずの彼がこんなに怒るのは初めて見た。
上司に理不尽な理由で怒鳴られた時だってへらへら謝ってばかりで、顧客に嫌味を吐かれたって、後になっても文句の一つも言わないあの彼が、こんな大声を出すことがあるものかと驚きを隠せなかった。
「何か気に障ったのなら謝るよ」
そう言うと彼ははっと我に返ったように謝罪した。
「すまない」
ずいぶん小さな声である。
これだから、上司にも客にもなめられるのだ。
――もっと腹から声出せ。
――姿勢が違うんだよ、俺が若い頃は……
聞き飽きた上司の文句が頭をよぎる。
たかだか子会社、二次代理店でせいぜい。そんな小さな会社の部長という地位を過剰に意識した、態度ばかり偉そうな上司に怒鳴られる日々を送っているのだ。
彼もストレスが溜まっているのだろう。
以前、パワハラだとか言って、書き殴っただけの辞表を机に叩きつけて、その後連絡がつかなくなった社員がいた。所謂「飛んだ」というやつだ。
飛んだ飛ばないを抜きに考えれば、あの上司のせいで辞めた者など一人では済まない。
辞めていったやつなど星の数だけいる。
そして今のターゲットが彼だ。上司は誰かが辞めるとその都度ターゲットを変えて苛めるのだ。
「いいや、大したことじゃない」
「ちょっと疲れているんだ」
彼を抜いた、私たち残りの社員は「よく辞めないな」と思っている。それと同時に「辞めないでくれ」とも。ターゲットが自分に移っては仕事がしづらくなるからだ。
「そうだろうね」
所詮は他人事だ。
彼とはさして仲が良いわけでもないし。
それより自分の仕事に支障が出るほうが問題なのだ。
見ていて可哀想になることはあっても、優先順位というものがある。
私の最も優先すべきは妻――すなわち家庭である。
だから、こんなところで何年も我慢して我慢して、毎日どんなに厭な思いをしても、あくせく働いてきたのだ。
他人を庇って己の首を絞めるわけにはいかないのだ、私は。
「ああ、それでさっき神がどうとか言ったのか」
「いや、別に疲れているから言ったんじゃあないよ。僕は神様を信じている」
「本気か」
「本気も何も、いるのさ」
彼は平然と言った。
「君が信じているということは分かったよ」
「諫目くんは、信じていないんでしょう」
それはまあ――突然、神だなんだと言われても。
そもそも私は、神の話をしてほしいだなんて一言も言っていない。彼があんまり必死になって怒ったから、わけも分からぬまま謝って話題をつなげたに過ぎないのだ。正体を知りたいとも思わない。
「まあ、君は信じているってだけの話だろう」
「回答になっていません」
「信じているかいないかは、初めに言ったはずだが」
そうじゃなくて――彼はそう言いかけて、口をつぐむ。
「あのな、同意が欲しいなら他を当たってくれないか。ついでに言うがね、私の家には仏壇も神棚もあるけれど、そんな熱心に毎日拝んでいるわけでもないし、法事があれば寺に任せるが、正月になれば神社に赴いて初詣――典型的で国民的な日本人そのものだ。神頼みをして、もし願いが叶うなら大層楽をして、好きなことをして生きられるだろうが、そうもいかないから、こんな会社に十年近くも勤めているんだ」
厭々ね――
そう、そうなのだ。神が本当に存在するなら、生きていく上での悩みなんて一切無くなる。
いないから、みんな困っているんじゃないか。
それこそ「信じる者は救われる」と宣う輩は神という存在に縋り付いて依存し、人生の逃げ道を作っているに過ぎない。
逃げることが必ずしも悪いことだとは言わないが、私はそうはしたくない。
信じるのも信じないのも自由だが、私は彼の価値観を聞きはしても受け入れることは出来ない。
そう言いたいだけなのだ。
「そんな言い方って」
しかし彼は、なんだかまるで怒られた子供みたいに、悲しそうな顔をした。
「別に責めているわけじゃない」
「いや、その」
彼はしどろもどろに目線を泳がせている。
「じゃあ聞くがな、君の言う神というのは一体どんなものなんだ?」
「それは……」
やけに濁すな。
なにか疚しいことでもあるのか。
だんだん腹が立ってきた私は、彼を急かした。
「その……見えなくても、正しい人のところには絶対に来てくれるんです」
「来る?」
「ええ、正しくあれば、年に一度だけお姿を拝見することも出来ます」
常にそこにいるわけではないが、確かに存在する。彼はそう言った。
「来るっていうと、後光でもさしているものなのか」
「いいや、僕はまだお姿を見たことは……」
「なぜだ?」
「僕は正しくない人間なので」
「見たこともないのに信じているっていうのか」
熱心な宗教家に会ったことがないので、私は少し関心が湧いた。
しかし彼はすねたような顔で私を見る。私の興味半分な態度が気に食わなかったのか、それとも信じてもらえないことに絶望したのか。
いずれにせよ、反抗的な目つきだ。
「もう、いいです」
「おい」
「もうすぐ、神様に会えますから」
吐き捨てるようにそう言うと、彼は鞄を手にオフィスを後にした。
あれから一週間ほどが経つ。
私は彼のあの目つきが忘れられず、神の存在について改めて考えた。しかし、結論が変わることはなかった。
彼はあの日以来、会社に来ていない。正確には、初めの頃は来てはいたのだが早退と欠勤を重ね、三日ほど前にとうとう来なくなってしまった。
仕事帰りにでも、彼の家を訪れてみよう。彼の家は私の自宅の方向と同じだし、通勤が面倒だと言って会社の近くに引っ越したと聞いていた。
上司にたずねると面倒そうに「あのアパートの二階だよ」と会社の窓から指をさした。
仕事を終えた私は、少々遅れて帰ることを妻に伝えて会社を出た。
「三宅くん、諫目だが」
ノックをしても、声をかけても返事がない。部屋の明かりも点いていないし、留守なのだろうか。
いや、私があんな態度をとったものだから、居留守を使っているのかもしれない。
「おい、三宅くん。この間のことは悪かった」
返事はない。
やはり留守にしているのかとドアノブをひねると、鍵がかかっていなかった。
古いアパート独特の、安っぽくて重たいのに中身の入っていないような扉を引くと、彼の姿はそこになかった。出かけでもしていたら、この瞬間を見られてもばつが悪い。
慌ててドアを閉める。その瞬間。
閉まりかけのドアの隙間から、何かが覗く。
厭な汗が背中を伝う。
なにかが重たいドアにのしかかる。
驚いた拍子にぱっとドアから手を離すと、どすん、と間抜けな音が鳴る。
ドアノブに括られたロープ。それが、輪っかになって彼の首に巻かれていた。
私は咄嗟に、部屋の中に隠れた。隠れたというと疚しいことがあるみたいに聞こえるが、私じゃない。それは私が一番よく知っている。
これは彼がやったのだ。衝動的にか、計画的にかは分からないが、彼は――
彼は、自死したのだ。
「三宅くん……」
自ら望んでか、否か。
いずれにせよ、これは自殺で間違いないだろう。
私は速やかに警察に連絡した。
足元には、彼の遺体が転がっている。死後硬直もとけた後。腕はだらりと垂れ下がり地面について、尻は浮いているが、脚はだらしなく放られていた。
「なんということを」
それにしても、なんと言えば良いのか……
いくらもともと同僚だとはいえ、この狭い空間に死体と一緒にいるというのは、なんとも例えがたい感覚だ。
気味が悪い――
そう言えば聞こえは悪いかもしれないが、そうとしか言いようがない。
普通に生きていて死体を目にすること自体そうあることではない。
そうだ、気味が悪いんだ。
思えば一週間前のあの日だってそうだった。いきなり宗教の話を持ち出してきて、私が信じていない素振りを見せると静かに帰っていった。
それに加えて彼は普段から上司に諂ってばかりで、自分というものが無いように見えた。客にはそういった下手に出る態度を大層気に入られていた。
言ってしまえば、同僚の私たちにだってそうだ。
彼はいつも控えめで自己主張をせず、立場や地位が同じでも、気にせずはいはいと何でもイエスで返していた。
彼は生きている時から気味が悪かった。
私は、彼のその媚びるような態度が少し気に食わなかった。
でも性根が腐った厭な奴だとは思わないから、一同僚として好いていたし、上司に逆らわない姿勢にはある意味尊敬を抱いていた。
また同時に、誰かに好かれていなければ生きてゆけないのかと思っていた。
――まるで親の顔色を伺う子供のようだと。
そうしているうちにサイレンの音が聞こえてくる。
その時私は足元に一冊の本を見つけた。
本というよりは、手帳……日記のような見た目をしている。茶色い革張りの表紙の、立派なものだ。
私はそれを拾い上げ、表紙をめくった。
「私は生まれた時からなににも恵まれなかった」
冒頭からして、彼の苦労が伺えるようだった。
私は彼の暗いところに淡い興味を抱き、それを鞄にしまいこんだ。
そして警察に事情を説明し、すぐに帰路についた。
満員電車に揺られ、うんざりしたところで徒歩数分の距離を歩けば自宅である。
「あら、思ったより早かったのね」
玄関扉を開けると、妻が夕飯の支度をしているのか、ほのかに煮物の匂いが漂っていた。
「ああ、本当に。こんなに早く帰れるとは思っていなかったよ」
「たまにはいいじゃない。家でゆっくり出来るなんて」
夕食を食べ、妻との会話もほどほどに、私は「少し仕事をする」と書斎に籠った。
守るべき家庭と言っておきながら、私は妻に嘘を吐いてまで、あの日記を読むために一人になった。好奇心。そう、これは好奇心だ。
少年の頃、初めて見つけた蝉の抜け殻に触れた時と似ている。
私は今、彼に対する好奇心のみで動いている。
鞄からあの日記を取り出して、改めてまじまじと見てみる。特におもてに変わったところはない。
革の表紙をめくる。
冒頭はあの文章だ。
「私は生まれた時からなににも恵まれなかった」
日付はおよそ一年前。ぱらぱらと日付だけ見てみると、長さも書く間隔もまちまちで、暇つぶしか、もしくは衝動的なもの――はけ口だったのかもしれないことが伺える。
一ページ目には、その一文だけが書かれているのみだったので、次のページにゆくと、
なかなかの長文で彼の暗闇が記されていた。
「僕は小さな頃から臆病でした。臆病なので、明るく振舞って嫌われないよう努めてきたのです。それは今も変わりません。僕は惨めで矮小な、どうしようもない作り物です。きっと神様は僕のことをなにか意図してこんな風に作ったのでしょうけれど、そのせいで僕はこんな偽物になってしまったのです」
冒頭の時点では、彼は既に神を信じていたような書き方をしているが、この前のように狂信的な雰囲気は感じられない。
それから続く文章も、ずっと神について「上手に作ってほしかった」だの「少しは恵んでほしかった」だのと、信じているとは言っても、神を嫌うような内容だった。
この時点で彼が心の底で何を考えていたかなど、もう知る人はいないのだが。
数ページに渡って書かれた似たような文を読み飛ばし、半ばのページをめくる。
「神は私を救ってくださらなかった」
文頭にはこう書かれていた。
この時点での彼は、神を恨んでいたのだ。
「なぜ救ってくださらないのですか。なぜ僕は不幸せなままなのですか。なぜ僕のところに来てくれないのですか」
神に対する疑問符を並べ連ねる文に、私は若干の恐怖を覚えた。
「僕が正しくないからですか」
――正しくない。
また、これか。
あの日も彼は言っていた。
自分は正しい人間じゃないから神を見たことがない、と。
「僕がいいこだったら」
背中がぞくりとした。だんだんと字が乱れてゆく。それにつられるように、私の心も乱されてゆく。
これ以上読んではいけない。
そう頭では解っていながらも、私はページをめくる手を止められなかった。
「僕は昔、お父さんとお母さんに嫌われていました」
私は拍子抜けした。
今までの神の話は何だったのだと。
「お父さんもお母さんもよく僕をぶって『役立たず』と罵りました。僕が嫌われていたのは、僕が良い子じゃなかったからです。お父さんはよく『帰ってくるな』と言いましたし、お母さんはいつも『生まなきゃよかった』と言っていました。僕が悪い子だから、僕が正しい人間じゃあないから、嫌われていたのです」
嫌いというより、彼はもしや――虐待されていたのか。
彼のあの媚びるような目線は、諂うような行動はみんなすべて、幼い頃に両親から受けた虐待から生じた、自己肯定感の低さによるものだったのか。
そう考えると合点がいった。
そして同時に、彼に憐れみを覚えた。
私が嫌悪していた彼の一部は、彼の暗闇の中に隠されていたのか。
「僕は学校でも嫌われていました。お洗濯をしてみても上手く出来なくて、出来たとしたってそこらで拾ったぼろぼろの服をいつも着ていたのですから。みすぼらしいと思われていたのでしょう。みんな口をそろえて言いました。『汚い』と」
苛められてもいたのか――
それは、そうか。彼のあの控えめすぎる性格からしても、小さい頃からいいように使われて、あの上司のようなガキ大将になんか特に目を付けられやすかったことだろう。
乱れゆく文字の列を追う。
「学校の先生は言いました。僕じゃなくみんなに向かって」
次のページをめくるのが、私はなんだか怖かった。
それでもここまで読んだのだ。読まぬわけにはいくまい。
「『いい子のところにはサンタクロースが来てくれるのよ』」
――ああ。だから。
だから、あんなに怒ったのか。
「僕のところにサンタクロースが来たことは一度もありません。話によると、そのサンタクロースはお願い事を叶えてくれる――欲しいものをなんでもくれるそうです。でも、来てくれたことは一度もない。僕は優しいお父さんとお母さんが欲しかった」
私は嗚咽した。
「ただ、それだけだったのに」
いつの間にか、涙が溢れていた。
はじめはただの興味本位。好奇心でしかなかった。
でも、なぜだろう。
彼が憐れに思えて仕方がなかった。
夕方までの私は、彼の遺体を見て「気味が悪い」としか思わなかったのに。
今では彼が酷く憐れな存在に思える。生きていてほしかったと思う。
だって、こんなの。
「僕はいい子じゃない。だからサンタクロースは来ない。なんでも叶えてくれる神様は来ない。いい子にしていれば、正しい人間だったら、きっと僕のところにも来てくれるんだろう」
そんなことない――とは、言えない。
だって彼はもう、死んでしまったのだから。
それに、私は彼の言う神様を信じていないし、神様の真似事も出来ない。たとえ生きていたって、この日記を読む限り、彼の望むものを与えることは出来なかった。
「神は私を救ってくださらなかった」
彼は、絶望のさなかで死んだのか。
努力して我慢して、耐えて耐えて耐えて。
その結果として、神に絶望して逝ってしまったのだ。
「ああ、あああ……」
私の嗚咽し泣きわめく声を聞き、妻が書斎に駆けつけてきた。
「どうしたの、そんなに泣いて!」
ああ、どうしよう。どうしよう。
私は彼にとんでもない仕打ちをしてしまった。
確かに優先順位はある。私の一番大切なものは妻であり、家庭だ。
だが、だがな。それでも、どうにかできたんじゃあないか。
たかだか一同僚だと無下に扱って、私のせいで死んだも同然だ。
「どうしよう」
私は、妻に縋り付いて泣いた。妻は驚いていたが、私が落ち着くまで側にいてくれた。
ああそうか。
彼の言う「神様」がなんとなく、分かった気がした。
「今日、同僚が死んだんだ」
――私のせいで。
私が彼を認めてやれば、彼を助けてやれば、声をかけてやれば。少しでも、結果は違っていたかもしれない。いや、違っていたはずだ。
彼の言う神様は、別にサンタクロースじゃなくたってよかったのだ。
彼が本当に望んでいたのは、単なる「救いの手」だったのだから。
「そうだったの」
妻はゆっくりと私の頬を撫で、結末まで話を聞いてくれた。
そう、今の私の願うまま。神様のように。
あれから一か月が経った。
私たち社員は、あの上司も含めて彼の葬式に参列した。
一応親は生きていたようだったから、形だけの葬式はなされたけれども、日記にあった彼の両親は言った。
「最後まで愚図の息子だった」
その眼には一滴の涙もなく、ただただ呆れと倦怠の感情に満ち乾いていた。
私はあの日記を渡そうかと思ったが、やめた。
それで彼に対する親の情が変わるとは思えなかったからだ。
何も知らないまま天国にでも行った方が、よほど幸せだろうと思ったのだ。
最後まで優しさに飢えていた彼は、誰よりも他人に優しく、自分に厳しかった。
後日私は、彼に敬意の念をこめて、大きな花束を墓前に供えた。
「あら、きれいね」
妻はその花をえらく気に入ったようで大層褒めていた。
私はあまり花に詳しくないからよく分からないのだが、なんでもポインセチアという名前らしい。真っ赤な色の大きな花だ。墓に供えるには不相応だと思ってはいたが、花屋に行くとこの花が目に入ったのだ。
「よく知らないんだけどね」
「もう、クリスマスといえばこのお花、っていうくらい有名なのよ」
クリスマス――
そうか。それならば、よかったかな。彼は喜んでくれるだろうか。
妻は顔も知らぬ彼に手を合わせ、静かに目をつむる。
「彼が天国で幸せでありますように」
これが、私が生涯の中で初めてした、神頼みである。
信仰対象 早河縁 @amami_ch
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます