婚約者の胸の内がわからない

亜逸

婚約者の胸の内がわからない

 煌びやかな金色の髪と爽やかな青い瞳が、なぜかくすんで見えるほどに冴えない顔立ちをした男爵家の長男――ライエル・エリミエルは、ある悩みを抱えていた。


 テーブルを挟み、ライエルと一緒にアフターヌーンティーに興じている、婚約者であり、公爵家の令嬢でもあるリリス・トラント。

 ライエルには、彼女が胸の内がさっぱりわからないのだ。


 二人の婚約は、リリスたっての希望によって実現したものだった。

 社交パーティで初めて彼女に出会った時、一目惚れしていたライエルとしては喜ばしい話だった。が、男爵家長男としては解せない話だった。


 相手は爵位の最上位にあたる公爵家。

 最下位の男爵家と進んで婚約する理由が見当たらない。


 だからこそ、リリスがライエルのことを気に入って婚約してくれた証左になると言いたいところだが、婚約に至るまでの間に会った回数が片手で数えられる程度だったせいか、無邪気に信じ切ることができなかった。


 これでライエルの容姿が優れていたならば、おそらくは容姿それが理由なのだろうと納得することもできた。

 しかし哀しいかな、ライエルの容姿は「冴えない」の一語に尽きるものだった。


 一方のリリスは、「絶世」の一語に尽きるほどの美人だった。

 公爵家の令嬢にしては珍しい、肩にかかる程度の長さしかない髪と、宝石にも似た輝きを宿した瞳の色は、見る者を惹きつけてやまない魔性の黒。

 顔立ちは一分の瑕疵かしもない芸術作品を思わせるほどに整っており、いっそ人間味が感じられないほどに美しかった。

 というか、表情があまりにも変わらなさすぎて、本当に人間味がなかった。


 婚約してからこの一ヶ月、ライエルが目の当たりにしたリリスの表情は、頭に「無」がつくもののみ。

 そのせいで、今の状況が一緒にアフターヌーンティーに興じていると言えるのかどうか、段々自信が持てなくなってくる。


 だからつい、直截ちょくさいにこんなことを訊ねてしまう。


「リリス……楽しいかい?」

「はい。とても」


 欠片ほども楽しそうに見えない無表情をそのままに、リリスは即答する。

 声音も、今日のスケジュールを読み上げる執事の事務的な物言いよりも、はるかに感情がこもっていなかった。


 そのせいで、今の返答が本心からくるものなのか、ただの社交辞令なのかも判断がつかない。


「前から聞きたかったのだけれど、リリスは本当に、自ら進んで僕と婚約したのかい?」

「はい。勿論です」

「なら聞くけど、リリスはいったい、僕のどこが気に入ったっていうんだい?」

「全てです」


 棒読みで即答されたものだから、からかわれているのではないかと本気で疑いたくなる。

 けれど、「無」しか映さない彼女の表情からは、からかうという感情すらも感じ取ることができなかった。


「……ああ……うん。それは光栄だね」


 当たり障りのない返答で、紅茶おちゃを濁す。


 彼女の言葉を額面どおりに受け取れないのは、自分の弱さのせいだ。

 だが、こうも相手が無機質無表情だと、どこから感情を読み取ればいいのかわからず、どうしても疑心暗鬼に陥ってしまう。


 彼女が真実僕のことを愛している証拠が欲しい――そう思ったライエルは、一つの行動に出ることを決意した。




 ◇ ◇ ◇




 リリスの実家である、トラント公爵邸で行なわれる社交パーティに招待された時のことだった。

 ライエルは酒を呑みすぎたから外の風に当たってくると嘘をつき、一人リリスの部屋に忍び込んだ。


 最近社交界において、淑女の間では、想い人への想いを綴った日記をつけることが流行っている。


 もし、リリスが流行に乗って日記をつけていたならば。

 もし、リリスが日記にライエルへの想いを綴っていたならば。

 真実それは、リリスがライエルのことを愛してくれている証拠になり得る。


 なにせ、誰にも見せない日記に綴られた想いなのだ。

 そこに嘘偽りを綴る人間などいないはず。

 というか、綴っていたら逆に怖い。


 兎にも角にもライエルは、リリスが日記をつけている可能性に賭けて、彼女に悪いと思いながら日記を探した。


 そして――


「やはり、ここが一番怪しいか……」


 鍵がかかっている、化粧台の抽斗ひきだしを見つめながら、ライエルは苦い顔をする。

 この抽斗を除き、あらゆるところを捜し回ったものの、日記らしき物を見つけることはできなかった。

 同時に、抽斗の鍵となる物も見つけることはできなかった。


 こうなってしまった以上、取るべき行動は一つしかない。


「……本当にすまない。リリス」


 今はパーティ会場にいるであろう婚約者に謝りながらも、ライエルは懐から取り出した針金で鍵穴をこねくり回す。


 社交界において、日記をつけることが淑女たちの間で流行っているのに合わせて、紳士たちの間ではその日記を盗み見る技術の一つして、高貴なる解錠ノブレスピッキングの修得が嗜みとなっている。

 ご多分に漏れず、高貴なる解錠ノブレスピッキングを修得していたライエルは、ものの数秒で鍵を開き、抽斗を開けた。


「あった……!」


 表紙に日記ダイアリーと書かれた本を見つけ、ライエルは押し殺した歓喜の声を上げる。

 同時に、どうしようもないほどの後ろめたさを覚えるも、リリスの心の内を知り得ないことには二進にっち三進さっちも行かないので、罪悪感を振り払って日記を手に取る。


 まずは最近の日記を確かめようと、適当にページを開き――



『○月×日

  ハァ……ハァ……今日もライエル様は最高に素敵です……ハァ……ハァ……』



 ――そっと閉じた。


 おかしい。

 これは日記のはずだ。

 それも、無機質無表情で知られるリリス・トラントの日記のはずだ。

 なのに、これはいったいどういうことか?


 この世のどこに、興奮した息遣いを日記に書き記す人間がいる?

 しかも、ご丁寧に「……」までつけている。


 ……ああ、そうか。

 きっとこれは、別の人間の日記だ。

 おそらくは、社交界の友人に日記を預かってほしいと頼まれたのだろう。

 リリスは他人の日記を覗き見るような真似はしなさそうだし、見たとしても他言するような人間でもない。


 きっとそうに違い――そう思いながらも、ライエルは今一度日記の表紙を確認する。

 見える文字は日記ダイアリーの一語のみで、背表紙にも裏表紙にも名前は書かれていなかった。


 日記の一ページ目ならば、あるいは名前を書いているかもしれないと思い、縋るような思いで表紙をめくって……ライエルはくずおれそうになる。


 書いてあった。

 デカデカと。

 力強い筆致で「リリス・トラントの日記」と書いてあった。


 目が疲れているのだろうと思い、眉間を摘まんでからもう一度一ページ目を見つめる。

 やはり、どこをどう見ても「リリス・トラントの日記」以外には読みようがなかった。


 こうなったら覚悟を決めて、二ページ目を開く。



『×月△日

  本日の社交パーティで、

  エリミエル男爵家のご長男ライエル・エリミエル様とお会いしました。

  その瞬間でした。

  私の体に何かが駆け巡ったのは。

  もしかしたらこれが、俗に言う「恋に落ちる」というものなのかもしれない。

  ここは社交界の友人たちに倣い、

  彼を見て思ったこと、感じたことを日記に記すとしましょう』



 自分の心情すらも、税収の報告をまとめるようなノリで日記をつけるリリスに、ライエルは知らず安堵してしまう。


 続けて、三ページ目をめくると、



『×月◇日

  おかしい。

  ライエル様を見ていると、息が苦しくなる。

  動悸も異様に早い。

  いったい私の体に何が起きぶりゃどひりて』



 いきなりおかしくなった。

 日記を書いている最中にいったい何がどうなって「起きぶりゃどひりて」になってしまったのか。

 当然のようにそのまま書き残しているのは、いったいどういう了見か。

 というか、いったい何が起きたのか聞きたいのはこっちの方だった。


 気を取り直して、四ページ目をめくる。



『×月●日

  いやっふぅ――――――――――っ!!

  ライエル様とデートの約束をしてきたぜっ!!

  一週間後が楽しみで仕方ないぜっ!!』



 いや誰だよ。

 口調からして別人じゃないか。

 しかも「!!」まで使い始めてるし。


 再び気を取り直して、ページをめくっていく。



『×月×日

  デ・ェ・トッ!!

  デ・ェ・トッ!!

  デ・ェ・トッ!!』



『×月▲日

  きゃほっほ――――――――いっ!!

  今日のデート最高だったも――――――――んっ!!』



『×月◆日

  会いたい。

  ライエル様に会いたい。

  会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい

  会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい

  会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい

  会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい

  会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい

  会―――――――――い―――――――――た―――――――――い!!』



 たまらず、そっと閉じた。

 今自分が見ている物がなんなのかわからない。


 ……いや。

 わかっている。

 わかっているが。

 頭が理解することを拒んでいた。


「……よし。見なかったことにし――」




「見てしまいましたね。ライエル様」




 背後――部屋の入口からリリスの声が聞こえ、ビクリと震え上がってしまう。


 今、彼女はいったいどんな顔をしているのか?

 勝手に部屋に忍び込んで、勝手に日記を読んだ以上、いくら彼女といえども怒っているだろうと思い、恐る恐る振り返るも……やはりというべきか、リリスはいつもの無表情のまま、感情のこもらない目でこちらを見つめているだけだった。


「す、すまない、リリス。……でも、どうしても確かめたかったんだ。君が本当に僕のことを愛しているのかを」

「そうですか。ならば、おわかりいただけたでしょう? 私がどれほど情熱的に貴方様を愛しているのかを」


 という言葉さえも、微塵も感情がこもっていないものだから、「情熱的」という言葉が全く別の言葉に聞こえてくる。などと、いつもどおりに受け取っていては話が進まないので、ライエルは小さくかぶりを振ってからリリスに訊ねた。


「ということは、やはりこの日記はリリスが?」

「はい。なにぶん感情表現が苦手なもので、文章にして貴方様への想いを吐き出すことにしました」

「そ、それなら……」


 ライエルはパラパラと日記のページをめくり、一番最初に読んだ日記をリリスに見せる。



『○月×日

  ハァ……ハァ……今日もライエル様は最高に素敵です……ハァ……ハァ……』



「これは、嘘偽りないリリスの本心だと思っていいんだね?」

「はい。勿論です」


 常人ならば恥じらうなり慌てるなりすること請け合いな内容を前に、リリスは微塵も動じることなく即答する。

 だからつい、こんなお願いをしてしまう。


「……なら、これを声に出して読んでもらってもいいかな?」

「お望みとあらば」


 またしても即答するリリスに、ライエルは意味もなく息を呑んでしまう。

 そして、ほとんど間を置くことなく、リリスは自身の日記を読み上げた。



「『ハァ……ハァ……今日もライエル様は最高に素敵です……ハァ……ハァ……』」



 字面だけを見れば、確かに日記と全く同じだった。

 けれど、全く感情がこもっていない上に欠片ほどの抑揚もない棒読みっぷりだったせいで、全く違う言葉を聞かされているような錯覚に陥りそうになる。


「ハァ……ハァ……」に関しても、興奮した息遣いというよりも、「何言ってんだこいつ?」と思った時に口から漏れる「ハァ……」の方が、ニュアンスとしては余程近かった。


「なら、これは?」

「『いやっふぅ――――――――――。ライエル様とデートの約束をしてきたぜ。一週間後が楽しみで仕方ないぜ』」


 この字面を、いったいどうしたらそこまでテンションをぶち下げて読むことができるのかと感心するほどに、棒読みだった。


「なら、これは?」

「『デ・ェ・ト。デ・ェ・ト。デ・ェ・ト』」


 何かこう、悪魔的な存在を召喚する呪文のように聞こえて仕方なかった。


「なら、これは?」

「『会いたい。ライエル様に会いたい。会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会――――――――――い――――――――――た――――――――――い』」


 この何の感情もこもっていない「会いたい」を、何も知らない人間が五分ほどぶっ通し聞き続けたら、まず間違いなく発狂するだろうなとライエルは遠い目をしながら思った。


「おわかりいただけましたか? ライエル様」


 何が?――と返しそうになったが、かろうじてこらえた。


 真実、リリスは僕のことを愛しているのだろう。

 しかし、囁かれる愛の言葉がこうも棒読みでは、素直に受け取るよりも先に、どうしても困惑が先に来てしまう。


 そんなライエルの心中を見て取ったのか、リリスは「仕方ありませんね」と言いながらこちらに近づいてくる。

 目の前で立ち止まって何をされるのかと思っていたら、突然こちらの顔を挟み込むように、むんずと両手で掴み、



 引き寄せて、可憐な唇をライエルの唇に重ねた。



 突然の出来事に理解が追いつかず、ライエルは硬直する。

 だが、本格的に理解が追いつかなくなるのは、ここからだった。


「!?!!!?!!!?」


 口の中に、彼女の舌が入ってきたのだ。

 入ってきた舌が、ライエルの舌をねぶり始めたのだ。


 可憐な唇とは裏腹に、肉食獣の如き獰猛さで、リリスの舌がライエルの口腔を蹂躙する。

 そのあまりの激しさに腰が抜けそうになったところで、図ったように彼女は唇を離した。


 リリスは、いつもの無表情をそのままに舌舐めずりしてから、先と同じ言葉をぶつけてくる。


「おわかりいただけましたか? ライエル様」


 それに対し、ライエルは、


「あ、はい」


 と返すことしかできなかった。

 痺れた頭の片隅で、「あぁ……僕はきっと彼女に一生ついて行くんだろうな」と、根拠もなく確信しながら。




 ◇ ◇ ◇




 今日も今日とて、ライエルはリリスと一緒にアフターヌーンティーに興じていた。

 あの日以降、婚約者の愛を疑わなくなったライエルだったが、一つだけ彼女にお願いしたことがあった。


 それは――


「リリス。楽しいかい?」

「はい。『うぇーひひ。今日もライエル様と、お茶ができて最高に楽しいぜ』でございます」


 相も変わらず、今日のスケジュールを読み上げる執事よりも事務的な物言いで、他人事のように己が心中は語る。

 そしてこれこそが、ライエルがリリスにお願いしたことだった。


 ライエルは、自分が凡夫であることを自覚している。

 その自分が、上っ面からリリスの心中を汲み取るなんて芸当ができないことも。

 だからリリスには、素直な気持ちをそのまま口に出してほしいとお願いしたわけだが、


「本当によろしかったのですか? 私が言うのも何ですが、私の心中は普通の人ならドン引きするほどにひどいですよ?」


 自分のことを何の感情もなく「ひどい」と言ってみせることに、それこそ普通の人ならドン引きしていたところだろうが、


「構わないよ。素直な気持ちを口にしてもらった方が、僕としても嬉しいからね」

「そうですか。『ハァ……ハァ……ライエル様は最高です。いったい何度惚れ直させたら気が済むのですか……ハァ……ハァ……』としか、言いようがありませんね」


 ……ただ、完全なる棒読みで「ハァハァ」言われることに慣れるのは、まだしばらく時間がかかりそうだとライエルは思う。


(……まあいいか。どうせ彼女との付き合いは、誰よりも長くするつもりでいるのだから)


 と思ったところで気づく。


 彼女に心中を語らせているのに自分は語らない。

 それはさすがに公平ではないので。

 ちょっと恥ずかしさを覚えながらも、今思ったことをそのまま彼女に伝えることに決めたライエルだった。

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