二章 第18話 『運命に抗う契約』


 ──その裸体は非の打ち所がない程に完成されていた。


 白くきめ細かい粉雪のような肌。極上の曲線を描く程よく膨らんだ胸。柔らかそうな肉付き、白魚のよう指、くびれた魅惑の腰に、すらっと伸びたしなやかな脚。

 見る者全ての瞳を釘付けにして離さない、美という概念の窮極に到達した肢体を前に驚愕で立ち上がったヒガナは絶句することしかできなかった。


 ココの裸体の美しさに対してではない。

 この場にココ・オリアン・クヴェストが現れたことにだ。


 まるで、不可視の一撃を喰らったようだ。何一つとして状況を掴むことができない。

 突然のココの出現と、女の子と二人きりで浴場にいるという経験したことのないシチュエーションにヒガナの思考は混乱してしまう。

 今にもパンクしそうなヒガナはゆっくりと時間をかけて一言放つ。


「どうしてここに?」


 当たり前の疑問しか言えなかった。

 嘲笑に似た笑みを浮かべ、ココは前屈みになり挑発的な視線でヒガナの問いに答えた。


「夕食時、ずっと私の方を見て……いいえ、睨んでましたよね。どうして睨んでいるのか気になったものですから、前倒ししてお客様の元に訪問した訳です」

「だからって、ここは……。他の人が来たら誤解を招く」

「大丈夫です。私が入浴している間は誰も入れないように、給仕長に頼んでおきましたから」


 ココはゆっくりとヒガナに近づく。濡れる床を踏む音は妙に生々しい。


「ですから、私とお客様は正真正銘の二人きり。ここで何が起きようとも、それを知るのは私たちだけ」


 互いの距離が縮まり、ココは愛撫するかのようにヒガナの左胸に指を置く。心臓を握られたような悍ましさを感じて、ヒガナの背筋は凍りついた。

 その反応を味わうように舌舐めずりをするココは、本能を蕩かすような上目遣いで淫靡いんびに囁いた。


「──互いに隠しごとは無し、裸の付き合いをしましょう」

「────っ」

「と、言ってもいきなり切迫した話をするのは面白くないので世間話からしましょう」

「せ、世間話?」


 くるりとヒガナから背を向けるココ。後ろ姿も言わずもがな完璧な美しさである。


「そうです。今のお客様は緊張し過ぎて満足に話せそうもなさそうなので。まぁ、私のような美少女と浴場に二人きり、緊張と欲情しない方がおかしな話です」

「別に欲情はしてないからな」


 確認するように振り向いたココの視線は、迷わずにヒガナの股間へ。タオルを巻いて咄嗟に隠すヒガナだが少し遅かったようで、


「もしかして、男色ですか? 朝は反応していたの……なるほど生理現象でしたか」


「ちげぇよ! つか、何の躊躇いもなく見るな! そんで前を隠せ! 信じられないくらい目に毒なんだよ!」


「ハッ、私は淫魔ですよ? 貴方たち人間が持ち合わせている、性に対する羞恥を持っている訳ないじゃないですか。裸体を見られたところでどうということはありません。寧ろ、この完璧な肢体をもっと見て欲しいくらいです」


「………………」


 仮にヒガナが普通の精神状態だったら、確実にココの裸体から目を離せなくなり、理性が仕事を放棄していただろう。


 だが、今のヒガナは白縹しろはなだ髪の美少女の裸体を堪能する余裕がどこにもないのだ。


 眼前にいるのは目下最大の敵。

 欲情どころか憎悪の炎がヒガナの中に渦巻いている。一歩間違えれば今すぐにでも首を絞めてしまいそうな勢いだ。


「お客様、こちらに」


 暗く澱んだ思考は滑り込んできた愛らしい声色に中断された。

 ココが促すのは浴場専用の椅子だ。彼女の手にはタオルと石鹸がある。

 相手の出方を伺うことのしたヒガナはとりあえず指示に従い椅子に座った。


「タオルと私の胸、どちらで背中を流しましょうか?」

「タオル一択だ。今、直接触れられたら何をするか俺自身も分からないから」

「何をするか分からない、ですか」


 背後からタオルが泡立つ音と少女のくつくつと笑う声が聞こえた。それすらもヒガナからすれば苛立ちを誘発する火薬だ。

 すると、横から十分に泡立ったタオルが差し出された。


「……え?」

「どうやらお客様は、私に背中を流されるのが嫌なようですから。なので、代わりに私の背中を流して下さい」

「それ、どういう理屈だよ」

「男の人に背中を流してもらえる機会はそうそうありませんから」


 ヒガナとココの位置が入れ替わる。椅子に座るココはそれだけでどこか艶かしい空気を纏っていた。


「………………」


 この真っさらな背中に爪を立てて、その整った顔を、美しい肉体をめちゃくちゃにしてやりたい。少しでもアリスの味わった痛みや苦しみを思い知らせてやりたい。──ドス黒い感情がヒガナの腹の奥底で沸々と湧いていた。


 しかし、残酷な想像を実行に移すほどの度胸はなく、ヒガナは渋々とココの背中をタオルで洗い始めた。


「んっ、これはなかなか良いですね」

「それは良かった」


 気持ち良さそうに時折声を漏らすココ。上機嫌な様子が背中からでもはっきりと伝わってきた。


 そんな彼女を見て、ヒガナは思う。

 この世界のココはまだ何もしていない。だというのに悪感情をぶつけるのは間違っているのではないか、と。


 考えてみればココはアリスを殺そうとはしていない。ヒガナが誤った選択をした故に計画が頓挫したことに対する復仇ふっきゅうとして、アリス処刑阻止を邪魔しただけだ。


 彼女の性格を鑑みると、度を越した嫌がらせと考えられなくもない。嫌がらせで人一人を殺せるかとなるが──、


「やりかねないな」


 ココ・オリアン・クヴェストという淫魔の本心が見えない。それでも、僅かでも引っかかりを見つけなければ、同じてつを踏みかねない。

 先入観を捨てろ。

 感情に流されるな。

 悪意に曇った瞳ではココという少女の本質を見極めることは不可能だ。

 気付けば、ヒガナの思考と精神は落ち着きを取り戻していた。背中を洗うという単純な行動のおかげだろう。


「ところで、お客様は読書を嗜みますか?」

「え、あぁ、少しは」

「種類は?」

「推理もの、ファンタジー、あとは神話関連くらいかな」


 自分の部屋にある本棚に並べられた本を思い出してジャンルを羅列する。小説は今言ったジャンルの他には純文学が数冊あった筈だ。テレビで紹介されていたのを見て、興味が湧いて購入したのだが一ページも読んでいない。

 ファンタジーは全てライトノベルだ。丁度読んでいた作品が神話絡みだったので、神話関連の書籍を中古で何冊か購入したことをヒガナは思い出す。

 それらの本をもう読めないと思うと、少しだけ寂しくなった。ライトノベルの最終巻は読みたかった。


「ココはどんなのを読むんだ? 部屋にあったのは難しそうな本ばっかりだったけど」


 違和感を感じたココはヒガナの方に顔を向けた。その怪訝な表情を見て、ヒガナは自分が犯したミスを認知する。


「なぜ、私の持っている本が難しそうだと? 今の言い方、まるで実際に見たようですね」


 ココの部屋に招かれたのは一周目のことで、三週目──つまり、今回の現時点ではココの本棚の内容を知っているのはおかしいのだ。

 ヒガナはこの場を切り抜けるために頭を回転させる。


「実は……無断で部屋を改めさせてもらった。これは、悪いことをしたと思っている。ごめん」

「そうですか。因みに理由は?」

「俺はお前が何かを企んでいることを知っている。その企みの正体を知りたくて部屋に忍び込んだ。情報が欲しかったんだ」


 真実を織り込んだ嘘。

 これが、ヒガナが導き出した答えだ。

 嘘の中に僅かでも真実を織り込むと、たちまち嘘は見抜けなくなる。

 事実、ココは嘘を真実と飲み込み質問を投げた。


「どうやって部屋の場所を?」

「それは……使用人の子に聞いた」

「なるほど、妥当な手段ですね。で、お目当ての情報はありましたか?」

「その質問する時点で、答えは明白だろ」

「ご明察です。お客様の欲する情報は全てこの中ですから。誰かに見られる可能性もあるので書類等にはまとめないようにしているんです」


 してやったり顔で、ココは自身のこめかみを指で突いた。

 ヒガナは苦笑しながら、


「秘密主義、か。給仕長の言う通りだ」


 背中を流し終えたヒガナは、ココの隣に座り自分の身体を洗い始める。ココは受け取った泡立つタオルで前の方を洗う。

 警戒している相手と横に並んで身体を洗っている、よく分からない状況である。


「そういえば、昼間は使用人たちと随分とお楽しみのようでしたね」

「言い方が悪いな。ちょっと話をしていただけだよ」

「話、ですか。本当は別の目的があったのではありませんか? そう、例えば……密告者を特定するとか」

「──なっ」


 図星を突かれヒガナは勢いよく顔を横に向けた。

 浴場の温度と湿度で、頬が艶やかに紅くなり、美しい裸体に水滴を滴らせる白縹しろはなだ色の淫魔は、獲物を仕留めたかのように嗤った。


「なぜ分かったのか、と言いたそうな顔ですね。単純な推理ですよ。昨日まで使用人に最低限の興味しか示していなかったお客様が、今日になって片っ端から話しかけるのは明らかに不審です」

「………………」

「話している時はずっと落ち着かない様子だったと、使用人から聞いてます。魅了の効果という可能性も捨てきれませんが、仮に別の理由があるとしたらと考えてみます」

「別の理由……それは分かったのか?」


 ココは身体に付く泡を流してから、白魚のような指を三本立てた。


「落ち着かない理由は焦っているから。原因は使用人たちにした質問の内容から考えて所持品、貴重品の紛失の類では無いと判断しました。となると人物絡みの可能性が高い。昨日今日会ったグウィディオン邸の人物は除外すると三人。一人はお客様自身。一人はアリス・フォルフォード。一人はルーチェ・ファーデウス・ヘレルシャレル。ここは王都ですから、何か問題が発生するとしたらアリス・フォルフォードの可能性が最も高いです。まぁ、後者は後者で大問題なんですが今は置いておきます」


「…………それで?」


「アリス・フォルフォード絡みで、急な使用人との接触、落ち着かない様子となれば答えは絞られます。まぁ、私が最初から答えを知っていたので導き出せたんですけどね」


 身体を洗い終えて、ゆっくりと湯に浸かるココ。その後を追って湯に飛び込んだヒガナは勢いよくココの肩を掴んだ。

 話題はすでに本題に入っている。

 ここで、何としても密告者の正体を暴かないと絶望の幕が上がってしまう。

 それだけは絶対に避けないといけない。


「密告者は誰なんだ? 頼む、教えてくれ」

「今この場で私を抱いてくれるなら、教えても良いですよ」

「──っ!?」


 斜めから飛んできた条件にヒガナの鼓動は一気に激しくなった。掴む力が緩んだのを好機と捉えたココは、ヒガナを押し倒して上にまたがる。

 互いの顔の距離は十センチも離れていない。息遣いが聞こえる。少しでも動けば鼻先が触れそうだ。


「……冗談ですよ、冗談。お客様は、私のことを心底嫌っている、憎悪を、殺意を抱いているようですから。自分を殺そうとしている相手に抱かれるのは、それはそれで楽しそうですが、生憎とまだ死ぬ訳にはいきませんので」


 一呼吸置いて、


「手、離してくれませんか?」


 そう言われ、一瞬理解が追いつかなかった。

 意味が分かると同時に、ヒガナは自分の両手がココの細い首を絞めていることに気が付いた。意識とは切り離された、反射による結果。身体は正直とはよく言ったものだ。


「ご、ごめんっ」


 慌てて首から手を離す。余程強く締めていたのか、跡が残っていた。

 咳き込んでから、ココはヒガナにもたれかかった。身体の距離はゼロになり、柔らかな肢体の感触がダイレクトに伝わる。


 この状況、通常なら脳が処理しきれずに白熱し、理性が崩壊し、魅惑の肢体を貪っていただろう。だが、ヒガナは無意識にココを殺そうとしていた事実に衝撃を受け、極度の緊張と不安、恐怖に包まれていた。


「はぁ、はぁ……ねぇ、お客様。私は、お客様に何をしたのでしょうか? 殺意を抱かれるような振る舞いはしてないと記憶していますが……」

「…………ココは何もしていないよ」


 この世界の、とは言える筈もなかった。

 ココからすれば迷惑で恐ろしい話だろう。何もしてないのにもかかわらず、憎悪を抱かれ、殺されかけたのだから。


 意外なことに彼女は追求することもなく、「そうですか」と呟いただけだった。

 その代わり、


「一つ聞いていいですか? お客様は密告者のことをどこで知ったのですか?」

「それは……」


 黒と白縹しろはなだの視線が再び絡みつく。

 ヒガナは答えられない。正直に言って大丈夫なのか、という不安があったからだ。

 ココは可能性を次々と羅列する。もちろん、その全てが違うのだが、最後の可能性を示唆した瞬間にヒガナは総毛立った。


「私、ですか? 私がお客様に密告者のことを教えた?」


 どう思考回路を回したらそんな答えに辿り着くのか。

 ココの常軌を逸脱した推理に、暫しの空白を生んでから、ヒガナは悟られないように普通に努めて答えた。


「そんな訳ないだろ。ココだって身に覚えがない筈だ」

「まぁ……確かに。これ以上詮索しても無駄のようですし、面白くないのでやめましょう」


 あっさりと引き下がるココ。

 ヒガナは再度懇願する。


「頼む、密告者が誰か教えてくれ。このとおりだ」

「さて、どうしましょうか。また、首絞められそうで怖いですからね」

「……もうしないよ。本当に悪かった」


 項垂れるヒガナに、ココはくつくつと笑う。


「すぐ間に受けますね。……お客様に聞きたいことがあります。密告者の正体をどうして知りたいのですか?」

「密告者はアリスの存在を騎士団に伝えるつもりだ。止めないとアリスが処刑される。だから、絶対に止めないと。それにグウィディオン邸のみんなを守りたい」


 アリスが捕まれば、世間はグウィディオン家は犯罪者を匿っていたとレッテルを張るだろう。それは、グウィディオン家失墜にも繋がる。

 その他にも襲撃者の存在だ。襲撃者はアリスの存在が露見したが故に出現した可能性が高い。


 密告者の確保。

 それさえ成すことが叶えば、後の悲劇を止めることができる。

 だが、それはヒガナの描くシナリオのあくまでも第一段階だ。

 ヒガナの真の目的は──。


「俺はアリスの無実を証明する。そうしないと真の意味でアリスを救うことはできない。その為には密告者とか騎士団、処刑、その他諸々──不安要素を潰しておきたいんだ」


 ヒガナの目的を聞き、しばらくの沈黙の後にココは厳かに問いかける。


「アリス・フォルフォードの真実と向き合う覚悟があるということですか?」

「あぁ、もう散々逃げてきた」

「例え、それが望んだ結論でなくても?」

「受け入れてみせる」

「どうしてそこまでしようと思えるのですか?」

「──アリスは俺の大切な仲間だから」


 一点の曇りもない明瞭とした答えにココの余裕に覆われた表情に初めて驚きというヒビが刻まれた。

 ココは薄っすらと笑みを浮かべた。


「給仕長の言う通り、私は秘密主義です。なので、計画に組み込まれる密告者の正体を教えるつもりは毛頭ありません」

「それじゃあ…….」

「ですが、協力者だけは例外です」


 ココはヒガナの首に手を回し、酷く艶かしい声で耳元で囁いた。それは、恋人に内緒話をするように。


「お客様、私と契約しませんか?」

「契約?」

「はい。と言っても一時的なものです。内容は単純、お客様は私の計画に協力する。私はお客様の目的に協力する。互いに目的を達成できる確率が上がりますので悪い話ではないかと」


 相手は悪魔のような少女だ。

 何か裏があるのでは、と勘繰ってしまう。しかし、逆に考えてみれば、契約によって二人の間には繋がりが生まれる。言い換えればココの動きを逐一把握できるということだ。

 それに、アリスの無実を証明すると言っても何の手がかりも持っていないヒガナからすれば、王都に大規模の情報網を持ち、貴族のことにも詳しいであろうココの協力は喉から手が出るほど欲しい。

 さほど考える時間は無かった。


「分かった、契約しよう。それでアリスを救えるなら」

「良い判断です。これをもって契約は成立。これからよろしくお願いしますね、お客様……もとい、ヒガナさん」


 柔らかな笑み──その奥に悪辣さを感じたのはヒガナの先入観からか。直感からか。それとも別の何かからか。


 運命を司る女神がいたとしたら、どんな顔をしていただろうか。歓喜、激怒、哀愁、享楽、それとも別の顔をしていたか。

 どちらにせよ、歯車は今までとは異なる動きを見せ始めた。──神の最大の敵である悪魔によって。

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