二章 第5話 『主人の在り方』
全速力で走り、グウィディオン邸に着いたヒガナの額には汗が滲んでいた。口の中は鉄臭く、心臓が全身に酸素を供給しようと激しく鼓動を刻んでいる。
身体が休息を訴えるが、無視して門に手をかけた時に後ろから呼び止める声が聞こえてきた。
「ちょっと待って、ヒガナ」
ソフィアが白い髪を揺らして追いつく。
その後ろには、血の気が失せ、今にも倒れそうな足取りのベティーがいる。彼女だけは行きと帰り──単純にヒガナたちの二倍の距離を走っているのだ。
「ひぃ、ひぃ、死んじゃいます」
足腰が震え、かなりの速さで肩が上下するベティー。
その苦しそうな表情を見て、ヒガナは冷静さを取り戻し、周りが見えてなかったと反省する。
「悪りぃ……大丈夫か?」
「は、はひ、大丈夫です。わたしのことはお気になさらずに、早く当主様の元へ……」
言っている言葉と身体の様子が見事に矛盾している。
彼女のことを気にかけてあげたいが、事態がそれをさせる余裕を奪っていた。
満身創痍のベティーの背中をさすっていたソフィアがヒガナに黒い瞳を向ける。
「私が見てるから行って」
「分かった。ありがとう」
ヒガナは門をくぐって、屋敷の敷地内に足を踏み入れる。長い道のりを経て屋敷本館に辿り着く。閉ざされた大きな扉を強引に開けて屋敷内を一心不乱に駆け抜ける。
しかし、ヒガナは当主であるウェールズがどこに居るのか知らない。ベティーから居場所を聞き忘れていた。
だが、そんなことは関係無いと言わんばかりに走り続ける。
分からないのなら片っ端から部屋を確認すればいい、と思っていたが幸いにもその必要はなかった。
なぜなら
「随分と早い帰りで。走ってきて疲れたでしょうから飲み物でも用意しましょうか?」
「そんなことよりアリスは! 一体何があったんだ!?」
軽口に全く反応しないヒガナに、ココはつまらなさそうに嘆息して背を預けていた扉を開けた。
「どうぞ。ウェールズ様とその他諸々がお客様をお待ちです」
呼吸を整えたヒガナは緊張故に口を真一文字に結び恐る恐る部屋の中に入っていく。
上質な絨毯の上に高級感溢れる複数人座れるソファーと一人用の椅子が長めの机を挟んで対面に設置されていた。
小さなテーブルには花瓶。華やかさもあるが、落ち着いた印象を強く与える花が生けられていた。
壁には芸術家にしか理解できないであろう抽象的な絵画が飾られており、大きな窓からは陽が差し込み部屋全体を明るくしている。
ここは客人をもてなすためだけに存在する部屋、応接間だろう。
応接間にいた三人の視線が入室したヒガナに集まる。
一人はウェールズ。
朝、食堂で顔を合わせた時よりも顔色が悪くなっていて、まるで病人のようだ。原因は言わずもがなアリスのことだろう。
残り二人は見たことない顔だ。
機能性を重視した軍服を彷彿とさせる服装に身を包んでいる。腰に差している剣は冒険者たちが使っていたのとは異なり上質で品があるように見える。
「彼は?」
低くのしかかるような声色だった。
座っているからはっきりと分からないが、かなり背は高く筋骨隆々とした体格をしている。太い首の上に乗っている顔は彫りが深く、顎に走る傷跡が特徴的な角刈りの男性だ。
「彼はスオウ・ヒガナ君。アリス・フォルフォードの主人だよ」
弱々しく返答するウェールズ。やはり、貴族らしさが全くない。
答えを聞いた角刈りの男性はウェールズに一礼をしてから立ち上がりヒガナに身体を向けた。
やはり長身だ。目の前に大きな岩があるような錯覚にヒガナは陥った。それくらいの存在感をしている。
「お初にお目にかかる。私は王国騎士団副団長ヴァーチェス・ウィンディンバンク」
「王国騎士団の副団長……」
王国においての騎士団がどれ程の規模を誇るのかは不明だが、副団長──つまり騎士団の次席が出張って来るとなるとただ事ではないという訳だ。
事態の重さに絶句していると、もう一人がいつの間にかヒガナの横顔を覗き込んでいた。
「うわっ」
身長はヒガナより幾分か低い。
澄んだ水流を彷彿とさせる艶やかな青髪。煌めく瞳には清純さと純粋さが灯っていた。スッと通った鼻筋に薄い唇、まごうことなき美形だ。
身体の線は細く頼りなさそうで、剣なんて振れるんだろうかと疑ってしまう。
「ふぅーん。君がアリス・フォルフォードのねぇ。なんか思っていたのと全然違くてがっかりだなぁ」
「そいつは悪かったな」
「僕の想像だと、ぶくぶく太った薬キメている愉快な貴族がアリス・フォルフォードの飼い主だったのに」
酷い想像だ。そんな奴がもしアリスの主人だったら……少し想像して気分が悪くなったヒガナは想像を強引に抹消した。
それから看過できない騎士の一言に眉を顰めて苦言を呈する。
「飼い主ってやめてくれないか? 俺とアリスは対等の仲間だ」
騎士は目を丸くしてから、ヒガナの発した言葉の意味を噛み砕いて理解すると徐々に口元を緩めて、最後はケタケタと笑い始めた。
「ねぇねぇ、副団長聞いた? この人相当ブッ飛んでるよ! 僕、こういう人大好きなんだよね!」
「………………」
馬鹿にされている気がしてヒガナは不愉快そうに顔を歪めるが、そんなことお構いなしに騎士はヒガナの手を握ってきた。細くて柔らかい手をしていた。
「僕はルナ。ルナ・ティモーナ。よろしくね、ヒガナ!」
「あ、あぁ……よろしく」
ルナの勢いにたじろぐ。
その様子を見て、こめかみを押さえて首を横に振る副団長ヴァーチェスと苦笑するウェールズ。
すると、ココの咳払いで浮ついた場の空気が一気に元の落ち着きを取り戻した。
「そろそろ本題に移りませんか? 事態は一刻を争います」
「彼女の言う通りだ。だが、この件はいち使用人が関わっていい問題ではない。退席を願おう」
ヴァーチェスの言葉には多少の柔らかさはあったが、殆ど命令に近いものがあった。
しかし、ココは部屋から出るどころか、ウェールズの膝上にちょこんと座ってこの部屋から出るつもりは毛頭無い、という姿勢を示した。
座られたウェールズはココの横暴を注意しようとするが、それより先にココが意見を述べた。
「お言葉ですが副団長様。この件は私が関わらなければ永久にアリス・フォルフォードの行方は掴めませんよ」
「まるで居場所を知っているような口振りだな」
「いいえ、心当たりはありません。ですが、たった一人を王都から見つけるとなれば容易なことではないです。捜索に使える団員はたかが知れてます。見つけるのは不可能でしょう。仮に騎士団全員を捜索に回したとしても王都全域は流石に困難かと」
ヴァーチェスは反論できずに口を噤んだ。
ココの意見はもっともだ。団員たちには各々の通常業務がある。それらを全て中止して捜索に回すのは極めて難しい。
現状、動けるのは詰所で待機している騎士のみ。そこにルナとヴァーチェスを加えた人数では対象を発見するのは確率的に相当低い。
「まぁ、メイドちゃんの言う通り。でもね、僕にはメイドちゃんが首を突っ込んでも結果は変わらない、と思ったりするんだけど」
「結果は変わりますよ。私が関わらなければアリス・フォルフォードは見つからず、私が関われば確実に見つかります」
「へぇー、スゴい自信。ここまで言うんだから、メイドちゃんも頭数に加えてもいいんじゃない? ね、副団長」
柔軟な対応を見せるルナだが、ヴァーチェスはかぶりを振ってココが介入するのを断固として拒否する。
「駄目だ。グウィディオン家は犯人蔵匿の可能性がある。その関係者を捜索に加えるのは避けるべきだ」
椅子と成り果てたウェールズの顔から血の気が引いていき「ああ……そんな」と、情けない言葉を白縹のメイドの背中に落とした。
それに対してココは頬杖をついて、ヴァーチェスに挑発的な視線を向けたまま沈黙する。肝の座りようといい、どっちが当主か分からなくなってくる。
穏やかではない空気が流れる応接室において、何が起こっているのか全く理解出来ていない人物が一人。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。アリス絡みだっていうのは何となく分かるけど、行方とか一体何を言っているんだ?」
「ベティーから何も聞いてませんか?」
「いや、何も」
「状況を伝えておけと言ったのに。全くもって使えない子ですね」
舌打ちをして、ココは今ごろソフィアに介抱して貰っているであろう、お下げ髪の使用人見習いに辛辣な評価を下した。
だが、実際はベティーは説明しようとしていた筈だ。その機会を潰したのは話が終わる前に一目散に屋敷へと駆け出したヒガナである。
申し訳ない、ベティー。
「んー、掻い摘んで説明するとね、匿名でアリス・フォルフォードがグウィディオン家に潜伏してるって情報が入ってきたんだよ。で、副団長と僕が情報の真偽を確認しに来たってワケ。こういうのって殆どがデタラメなんだけど、あらビックリ! ホントにアリス・フォルフォードが居るんだもん。それで身柄確保しようとしたけど逃げられちゃったんだ」
空白の部分が埋まっていき、現状を把握したヒガナは心臓が締め付けられているような息苦しさを感じて、服の上から胸を押さえた。
「なんで、だ? なんで逃げる必要があるんだ……アリス」
何もしていないなら逃げる必要などない。
堂々と姿を見せて、身の潔白を証明すればいい。
けど、アリスはそれをしなかった。
つまり、それは──
「アリス・フォルフォードがハウエルズ卿殺害の犯人だからだ」
「────っ」
「目撃証言がある。彼女がハウエルズ卿を殺害した瞬間を見た者が居るんだ」
今まで『貴族殺し』としか聞いていなかったからなのか、殺された貴族の名前が出た途端に重苦しい現実感がのしかかった。
さらには目撃証言まであると来た。
心はアリスの無罪を主張したい。でも、思考が邪魔してくる。背反する気持ちがせめぎ合い、ヒガナは身が引き裂かれそうな苦痛を感じた。
「我々はこれからアリス・フォルフォードを捜索する。スオウ・ヒガナ。彼女の主人として捜索に協力して貰う」
恐らく、ヒガナを餌にしてアリスを誘き出そうと考えているのだろう。
見え透いた罠でも主人のためなら、一切の躊躇なく彼女は来る。──それは、ヒガナの瞳に映るアリスの印象だ。
「こ、断る」
「何?」
ヴァーチェスの眉間に微かにシワが刻まれた。
ヒガナは目を伏せたまま、か細く呟く。
「アンタたちに協力したら、アリスを犯人と認めたことになる。そんなの絶対に嫌だ」
「現に人が死んでいるんだ。新たな犠牲者が出る前に何としても捕まえなければならないのだ」
「それに一度取り逃がしてるもんねー」
余計な一言はヴァーチェスの琴線にふれたようで、怒りのこもった視線をルナに刺す。
ルナは舌を出して、肩をすくめた。反省の色は微塵もない……いつもこうなのだろうか。
「ともかくだ。君はアリス・フォルフォードの主人としての責任を果たす義務がある」
凄まじい威圧感に圧されてヒガナは一歩後ろに下がってしまう。それは、セルウスの廃棄区画で絡まれた時とは比にならない代物だ。
だが、怯みながらもヒガナはヴァーチェスを睨み付けて、声を震わせながら言う。
「アリスを守る……それが俺のやるべきことだ」
「──貴様っ」
眉間に青筋を浮かべながら、詰め寄ろうとするヴァーチェスを可憐な騎士が静止する。
「まあまあ、副団長。強要しても良いこと何にもないよ」
諭されたヴァーチェスは咳払いをして気持ちを落ち着かせる。
「協力を得られないのは残念だ。しかし、我々がアリス・フォルフォードの身柄を押さえた場合は覚悟して貰いたい」
「………………」
「グウィディオン家には追って諮問委員会の調査員が訪問なさるのでご了承下さい」
「お手柔らかにね」
ココの肩口から顔を覗かせて力なく笑うウェールズ。
「それでは失礼します」
「ばいばーい」
ヴァーチェスとルナは一礼して応接間を後にする。その際、ルナは純粋な瞳をココに向けて含んだ笑みを浮かべる。
二人が出て行ったのを確認して、ウェールズは緊張から解かれたように息を吐いて、ココの肩に手を置いた。
「騎士団は迫力あって苦手さ。息が詰まるかと思ったよ」
「情けない当主様で私は悲しいです」
「ココちゃんは肝が座り過ぎだから」
当たり前だ、と言わんばかりに鼻を鳴らすココは浮かない表情のヒガナに言葉を投げる。
「こちらは失墜の危機だというのに随分と愉快な間抜け面をしてますね。もしかして場を和ませようとしています? そうだとしたらお客様の企みは大失敗、少しも面白くないです」
「そういう訳じゃ……」
世間で犯罪者として名が通っているアリスを匿っていたことが公になれば、グウィディオン家の信用は地に堕ちるのは確実だろう。
その原因を作り出したのは他ならぬヒガナだ。落ち込むなという方が無理な用件だ。
「さてと」
ココはウェールズの膝から降りて、スカートを整えてから応接間を後にしようとする。扉の前に立ったところで、
「いつまでそこに居るつもりですか? 早くして下さい」
「えっ?」
急に言われてヒガナは呆気にとられる。
その態度にココは顔を顰めた。
「お客様は馬鹿なんですか? こんな所で突っ立っている暇はないんですよ。そんなに立っていたいなら農場にでも行って
「い、いや……」
「こちらが騎士団より先にアリス・フォルフォードを見つければ状況は幾らでも変えられるんです。ここまで単純なことにすら辿り着けない思考回路は今すぐに繋ぎ直すことをおすすめします」
盲点だった。確かにアリスを見つければ現状を打破する可能性がある。
「そうか、俺たちが見つければ……」
ヒガナはいつの間にか、騎士団がアリスを見つける前提で思考を巡らせていた。短絡的としか言いようがない。
驚くべきはココの切り替えの早さと騎士団すら敵に回す度胸だ。なんとも心強い。
すると、ウェールズがココに顔を向けた。
「ココちゃん、任せるよ」
今までのウェールズからは想像できない芯に響く声色だった。
白縹色の少女は表情を引き締めて、優雅に完璧なカーテシーを披露した。
初めてメイドらしい姿を目の当たりにして、ヒガナはその可憐さに見惚れてしまう。
「──お任せ下さい。我が当主様」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。