天使の初恋
kankisis
天使の初恋
近くの中学校の制服を着て歩く彼を、僕はふわふわとその背中を追うように後をついて行く。彼の名前を、僕は知らなかった。
塾帰りの夜、ひと気のない路地で僕は殺された。その瞬間はうろ覚えだ。ただ、通り魔のようなものに襲われた事だけは覚えている。犯人はまだ、見つかっていない。
死者があの世へ行くまでの猶予期間は、死んでから二週間。それまでは誰にも見えない幽霊として現世にいられるのだそうだ。地縛霊となっていた僕を殺された場所から解き放ってくれた天使が言うのだから、確かだろう。その期間は親しかった人たちへ別れを告げるためのものだけど、僕はもう済ませてしまった。別に、言葉を交わしたりできるわけじゃない。最後に両親や友達の顔を見て、心残りがないようにするための時間だ。天使曰く、幽霊が現世に影響を及ぼす事は禁じられている。
数日前。
その事を教えてくれた天使は、僕に同情するような顔でこう言った。
「君は、誰か愛している人はいる? 心の底からまた会いたい、ずっと一緒にいたい。そんな人」
彼女は言う。彼女――僕と同じくらいの年齢に見える。銀色の大きな翼が肩から生えていて、天使の輪が頭上に浮いている。それ以外は普通の女の子だ。セピア調の世界で、僕と彼女だけが色づいて見えた。そして、翼の輝く銀色が、僕を何となく嫌な気分にさせた。理由は分からない。
「恋人とか、兄弟とか。親でも、誰でも。一人だけ」
僕は首を横に振った。恋人はいない。誰かに恋した事もない。死ぬのが早すぎたのだと思う。そして、ただ一人だけを今すぐには決められなかった。
「もしいたのなら、今のうちに決めておかないとね。天国行きの死者には特典があるから」
特典が何なのか尋ねようとして口を開きかけた時、彼女は僕の唇に指を当てた。
「君が決めたら教えてあげる。私がいなくても絶対に悪さはしないように。約束だよ。今は忙しいんだ」
天使に似合わない路地裏の暗がりから、夕焼けの眩しさに向かって彼女は飛翔し、消えた。天国から死者の監視役として派遣されてきた彼女はしょっちゅういなくなる。担当している幽霊が沢山いるのだ。
静かで、暇だった。古びたブロック塀を背に、側溝の上でしゃがみ込む。僕が殺された場所。ここが今の定位置だ。脇のすぐそこに花束が供えられている。もう地縛霊じゃない僕だけど、ここにいる時が一番心が落ち着いた。死者の平穏は、奇妙だ。自宅よりも落ち着くだなんて、変だと思う。
僕にとっての特別な人は、誰だろう?
天使の問いにじっと頭を悩ませていると、誰かがやって来た。
僕と同じ、中学生だ。違うのは、彼が生きている人間だという事。そして通っている学校も違うらしい。多分、この近くの中学校だ。生前の僕が塾に通う際、よく集団で歩いているのを見かける制服だった。
彼は一人だった。ぼんやり眺めていると、彼はジュースの缶をどこからか取り出して、花束の脇に添えた。
――そうか、僕の供養に来たのか。見知らぬ僕に何て親切なのだろうと考えていると、彼は手を合わせ、目をつむった。
その時、光が差した。彼が目を閉じ、軽くうつむく姿は美しかった。世界に鮮やかな色が差す。
「……」
思わず口を開けて、僕は何か言おうとした。でも、言葉にできない。彼からは見えていないのに……恥ずかしさが、こみ上げてくる。
彼は祈りの姿勢を無言で解き、路地を立ち去ろうとしている。その姿から目を離せない。
一目惚れだった。
「待って!」
声を出した時には遅かった。彼が角を曲がって見えなくなった瞬間、僕は後悔した。なぜ、追わなかった?
肉体が死んで、心も死にかけていた僕の中に何かが芽生えた。それは熱を持ち、静まりようのない気持ちだった。
翌日、僕は彼を探しに出かけた。あの後すぐに角の先まで見に行ったが、彼は姿を消してしまっていた。天使のように上空を飛べたらと思ったけど、それは無理だ。いくら僕が幽霊だからといって空高く飛び上がれるわけじゃない。それでも再び探そうと思えたのは、僕に手を合わせてくれた彼の事が一晩中頭から離れずにいたからだ。
無闇に探し回るのはよそう。彼が近くの中学校に通っている事は分かっている。登校する生徒たちの中を探せばいい。
誰よりも早く、彼が通う中学校の正門前に到着した。何度か前を通った事があるので場所は知っていた。学校名が彫られたプレートの前で、じっと待つ。
生徒がちらほらと姿を現すようになった。学校の敷地に吸い込まれていく彼らを、僕は注意深く観察した。彼は中々現れない。
目の前の幅が広い二車線道路には、生徒が渡れるように歩道橋が設置されていた。ただ、階段を嫌ってか利用する生徒は少ないようだ。
歩道橋の向こう側に、僕の記憶を刺激する誰かがいるのを発見した。背の高い男。鞄を持つサラリーマン。思い出せない。その人を僕は知っている気がする。
無理やり視線をそのサラリーマンから引き剥がした。門に流入する生徒たちを一人ずつ確認する。
(いない……違う……彼じゃない)
もしや、道路の対岸にいたサラリーマンに気を取られている間に、見逃してしまったのか? 鼓動が早まる。幽霊の体にも心臓はあった。動き始めたのは、恋を自覚してからだ。焦りの感情が冷や汗を噴出させた。
(いた!)
見つけた。ついに出会えた。見知らぬ生徒たちの列に混じって、彼はいた!
背はあまり高くなく、僕と同じくらい。だから、人の波に埋もれてうっかりすると見逃してしまいそうだ。幸運にも、僕は彼を見つける事ができた。話しかける事はできない。触れる事も。ただ、彼の横に並び、一緒に校門から中に入ろうとした。
「どうしたのかな? 知り合い?」
後ろから肩を掴まれて、心臓が跳ね上がる。慌てて振り返ると、たたまれている最中の翼が目に入った。天使だ。今の僕に触れる事ができるのは、天使の彼女だけだった。
「地縛霊の次は背後霊にでもなったのかな? ダメだよ」
銀色の翼。これを見るとちょっと嫌な気分になるのはなぜだろう。
「死んだら恋愛禁止! 別れの準備をする期間なんだから、死者が恋に落ちて背後霊になっては意味がないんだよ。そうなったら、悪さをする前にすぐにあの世送りにしなきゃいけない。大事な時に仕事増やさないでよね」
「いいじゃないですか……悪い事はしません。だから」
「だめだよ」
「せめて最後まで、あの人と一緒にいさせて下さい。お願いです」
頭を下げて、言う。
天使は黙っている。そして、彼女はここから僕を連れ出そうと、手を引いた。
「やっぱりダメ。私が上司に怒られちゃうよ。もう別れの挨拶は済ませたんでしょ。旅立つまでの間は大人しくしていて。あの子は君とは関係ないんだから」
「関係なくないです。彼は、僕に手を合わせてくれたんだ」
「ごめん、聞けない」
僕は半ば引きずられるようにして、校門の前から引き剥がされた。せめて離れゆく彼の背中を見届けようと顔を上げた。それはとっくに小さくなって、生徒たちが透明な僕の体を通り抜けるのに紛れてあっという間に消えてしまった。
ああ、もう見えない。残念に思う僕の気持ちとは無関係に、天使は僕を引っ張っていく。そして、僕の体を通り抜ける背中の群れの中に、違和感のある存在を発見した。
さっきのサラリーマンだ。いつの間に歩道橋を渡ってきたのだろう。彼は立ち止まり、時間を気にするようなそぶりで銀色の腕時計を見た。だが、よく見ると、実際に彼の視線が向いているのは校門の奥の方だ。中学校の敷地の中を数秒間見つめていた。横顔がにやりと笑った気がする。笑った唇の隙間から銀歯の光を漏らして、彼は立ち去った。
僕の心臓は、一層激しく動いていた。ようやく、思い出した。天使の腕を引く。
「何?」
呆れたように彼女が振り向く。
「見つけた。通り魔だ。僕を、殺した通り魔が、そこにいたんだ」
「そう。それは……残念だけど、私たちにはどうする事もできない。こればかりは、分かってほしいの。死者は生者に干渉できない」
それから、僕はジュース缶の横でじっとしていた。忙しい天使はしょっちゅういなくなる。例の通り魔のその後を、僕は知らない。生者の事は警察に任せておけばいいと天使は言った。死者が関わるべきではない、と。
何日かして、僕は我慢できなくなっていた。通り魔の事じゃない。僕が一方的に恋をした、名も知らぬ中学生の事だ。やっぱり、この世から去る前に一目見ておきたい。
雨が降る夕方だった。校門前で、下校する彼を待ち受けた。数人の友人らと談笑しつつ、彼は傘を差していた。
雨模様に湿った黒髪の毛先が柔らかくカーブするのを眺めながら、僕は彼が友人と分かれて一人になるのを待った。僕はふわふわとその背中を追うように後をついて行く。天使が言う通り、僕は何もできない。無力な幽霊である事が悔しかった。今日で会うのは最後にする。何もできないなら虚しいだけだ。
最後に、顔を見たい。彼を追い越して前に出た。顔をまじまじと覗き込む。ここまで誰かを好きになってしまうとは生前考えた事もなかった。彼の顔は愛おしく、触れてしまいたい程だ。彼は立ち止まって木陰の猫を撫でている。猫はすぐに逃げていった。残念そうに彼は一瞬目を閉じた。これだ。僕が一目惚れした姿は。
住宅街で、二人だけの時間はすぐに終わった。なぜなら――僕を殺した通り魔の姿が、そこにあった。
そいつは愛しの彼の背後で、少し離れた所に立っていた。銀色の目立つ腕時計にまさか、と思って観察していると、そのサラリーマンはすぐ近くの角を曲がって姿を消した。傘の陰から覗く顔は彼を見つめていた。
奴は愛おしい彼を狙っていると、僕は確信した。二度も僕から奪うつもりなのかと思うと、怒りでどうにかなってしまいそうだった。
夜中、僕の前にようやく天使が現れた。
「特典について教えて下さい。あるって言ってましたよね?」
「天国行きの死者の特典の事? 確かに一人だけ大切な人を決めておいてって言ったけど……まさか」
「あの人に決めました」
彼女は困った様子で髪をかき上げた。
「だって、名前も知らないんでしょう」
「内容を教えて下さい。特典があると言ったのはあなたですよ」
「……本物の恋ってわけね。ならば教えてあげましょう」
固唾を飲んで次の言葉を待つ。
「愛する人が死んだ時、天使としてその人を迎えに行く事ができる」
――僕は唖然とした。だめだ。それでは意味がない。このまま放っておけば彼は殺されてしまうのに。警察はいつかあの通り魔を捕まえる事だろう。でも、恐らく、彼が殺されるまでには間に合わない。
天使に向かって、僕は土下座した。彼が通り魔に狙われている事を説明する。
「お願いします。僕はまだ、あの人に生きていてほしいんです。このままじゃ殺されてしまう! そんなの僕は耐えられない」
涙が止まらない。どうにか特典の力で救えるかもしれないという一縷の望みが断たれたのだ。こうするより他になかった。
「ちょっと! 天使に土下座するなんて……やめてよ。忘れているのかもしれないけれど、君に時間は残されていないんだ。最終期限が来たの」
「そんな……」
僕には、彼を助ける事はできないのか?
彼女は僕に手を差し伸べた。
「私にだって、君の気持ちは分かるよ。昔の恋人がついこの間死んだばかりだから。このエリアに私が天使として派遣されたのはそれで特典を使ったから」
「なら……どうにか、して下さいよ」
涙声で訴える。彼女は迷いのある声で、こう答えた。
「そう、だね。ここで待ってて。上司に聞いてみる」
返答を待たずに、一瞬で彼女は翼を広げて飛び去った。
希望が生まれた。一人で涙を拭いていると、天使は数分も経たずに戻ってきた。
「これ、渡すね。なくさないでよ」
彼女は天使の輪を頭から取り外し、僕に差し出した。すると彼女の頭上から、新たに輪が生えてきた。
「ええと……」
「許可は下りた。幽霊がこの輪を潜れば、少しの間だけ生きていた時の姿で実体化できる。でもこれを使えば、君の特典は取り消される」
言いたい事は分かるね、と天使は言った。期限は数日延長。つまり、愛しの彼を助けてこい、と。
夕焼けが空を染めた。僕はずっと、天使の輪を持って彼の近くにいた。きっと、あの通り魔はひと気のない場所で事に及ぶだろう。それは彼の帰宅途中に違いない。今日ばかりは、僕がこの世にいられる間に通り魔が来る事を祈った。
そして、祈りは届いた。
猫を撫でた木陰に彼が近づいた時、近くの十字路から通り魔が現れた。音を立てず、早足で近づいてくる。両手の指をゆっくりと開閉し、腕を伸ばそうとしていた。そうだ。僕はこの手で絞め殺されたのだ。
天使の輪を潜り抜けて、樹上から飛び降りた。勢いよく奴の頭に蹴りを食らわせ、着地する。
「通り魔だ、逃げて! 通報して!」
実体化した足で地面を踏みしめ、後ろを見ずに叫ぶ。彼には顔を見せたくない。多分、報道で僕の顔は知られている。必要以上に戸惑わせてはならない。
「通り魔? でも、君は」
「僕は知り合いなんだ、だから、急いで!」
これで納得させられるだろうか。通り魔の表情を見ると、ひどく驚いている。僕の顔を覚えていたようだ。殺した相手くらい覚えていてもらわないと困る。
走り去る足音が聞こえた。これであの人は安全だ。
鞄が落ちていた。僕が通り魔を蹴った時に落ちて、開いた口から包丁が顔を覗かせていた。
まだ、やる事が残っていた。奴が声を発する。
「何でいるんだよ」
「人殺しはもうやめて、自首して下さい。そうでないと、祟りますよ」
「何だとっ」
銀色の腕時計を着けた手が、僕の首に伸びる。避けて、地面の鞄から刃物を拾った。
脅す。
奴は腰を抜かし、アスファルトの上に尻餅をついた。立場が逆転した。包丁の刃を見つめる。僕の背中越しに、夕陽が包丁の側面を照らした。
「そこまでにして」
音もなく舞い降りた天使が、僕に声をかけた。
「ここで人を殺したら、天国に行かせてあげられない」
包丁を投げ捨てる。僕は天使の方を見た。
「勘違いしないで下さい。そんな事は考えてませんから」
「もう良いのね」
彼女は安心したように溜息をついた。
包丁を投げ捨てた時、天使の輪の効果が切れて僕は再び幽霊に戻っていた。目の前で姿が突然消えたものだから、奴は怯えて気を失った。もうすぐ警察が来るだろう。
……初恋の彼を助けられて良かったけど、やっぱり会えないのは寂しい。
「この手を握って。天国に行くよ」
天使が腕を差し出した。体の浮遊感が増して、浮き上がる。天使の翼が羽ばたいた。
「愛する人を迎えに行ける特典が取り消しになった件、覚えてる?」
僕は顔を上げた。
「上司が言っていたよ。無事に彼を助けられたら、君を天国への案内人として働かせようって。私みたいに一時的なものじゃなくて、ね。これからは忙しくなるよ」
それは――特典など関係なしに、また彼に会いに行ける、という意味だった。喜びの中、僕は天使に手を引かれて空高く昇っていった。
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