君に逢うための言葉を探し続けて

御伽ハルノ

プロローグ


 時刻は午前5時32分、さいたま新都心駅にて。陽はまだ地平線の向こう側に隠れていて、辺りは景色一面青白い薄日に包まれている。

 四月に入ったにも関わらず、朝の冷え込みは容赦無く体温を奪うほどで、駅の静けさには冷気が纏っていた。

 それから僅か数分でその景色全てが一変した。上野方面から京浜東北線が到着すると同時に、始発列車とは思えないほどの人数の乗客が駅に一斉に降り、皆一直線にさいたまスーパーアリーナへと向かっていった。

 疎らだった人の大群が自然と列を組んで進んでいく光景は、全員顔みしりでこの日のために訓練してきたのではいのかと思わせるものだった。

彼ら彼女らは、アニメのキャラクターが描かれたTシャツやタオル、リストバンドやキーホルダーを身につけ、一面に隙間なく缶バッチで装飾したトートバッグやリュックを携帯していることから『オタク』と呼ばれる者たちであり、今日がそのアニメのイベントの日であることがわかる。

 どうやらアニメに出演する声優のライブがあるようだ。

 その群集の中に何だか困惑しているのか興奮しているのかわからないが、不馴れな動きで戸惑っている少年が一人。明らかに初めてライブに参戦しましたといった様子だ。

 体格は身長160センチも満たないくらい小柄で少々細身。冴え切った目で周囲を見回し、その度にコロコロ表情が変化している。遠目から見たら小学生のようにも見えるが、その顔つきに不思議と幼さというものはない。

 服装は白のボタンダウンシャツに薄手のジャケット。パンツは一般的なメンズ用のジーンズと、体格には合っていないものの特に違和感はない。だが周囲の服装が突出しているため、この場では『一般的』というものが何だか場違いに見えてしまう。

 少年もそれに気が付いたのか少しだけ恥ずかしそうに表情を変え、ドームの方へ足を進めた。

 その後、少年は長蛇の列の最後尾に並び、物販の開始時間を待った。彼が並んで数十分後にはその列の倍以上の人数が後ろに並び、最後尾は常に更新し続けていた。

 それから数分して朝日が登り始め、辺りは橙色の陽光に満ちていたが冷え込みが治ることはなく、少年は薄手のジャケットのみの装備で来たことを後悔しながら、首元や手足をこすりながら寒さを凌いでいた。

 数時間後、係員の人がカラーコーンとバーを移動させ、列が一気に動き出す。それから自分の番まであっという間だった。激流のような列の進行に身を任せ、空いたブースを見つけ次第そこでお目当ての物を手早く注文し、買い物を済ませた。

 買ったものはライブTシャツにマフラータオル、ペンライトとリストバンド、それからパンフレット。

 初めて手にした戦利品を握りしめ、少年はそれだけで満足感と達成感がこみ上げてきた。

 一通り眺め満足した後は衣類以外のグッズをバッグにしまい、インナーの上からライブTシャツを着て左手にリストバンドをはめた。

 新品特有の鼻をツンと刺すような匂いがするがそれを不思議と悪い気はしていないようだ。

 開場時刻は2時、あと3時間半ほどすればドームに入場できる。

 昼食をとった後はやることも特にないため会場の周りをふらふら歩くくらいしかすることがなかった。だが、全く退屈しなかった。むしろ希は根拠もなくワクワクしていた。

 見渡す限りオタクファッションとも言えるような奇抜な格好した人たちで溢れかえっている。全身にキャラクターのキーホルダーや缶バッチを身につけている人もいればコスプレをしている人、中には特注品の法被や特攻服などを纏う、猛者と呼ぶに相応しい人までいる。そして時間が経つに連れどんどん増えていく。

 普段自分の趣味は隠しているわけではないがここまで自信持って自分の推しへの愛を晒け出すことはできない。少年は目の前にある非日常的な光景に高揚感を覚え、尊敬の念すら抱いた。

 しかしそれと同時に、友達同士なのかネット上での知り合いなのかはわからないが楽しそうに待ち時間を過ごしている集団を見かけると少しさみしい気もした。

 そうこうするうちに会場時間が近付いてきた。バッグの中からクリアファイルで厳重に保管していたチケットを出し、受付へ向かう。手元にチケットがあるということはわかっているのだが入場するまで理由もなく緊張していた。

 問題なく受付を済ませチケットに記されたゲートまで進む。人混みもあるが道順が思っていたより複雑で着くまでに少し時間がかかった。

 だがそれすらもなんだか宝探しで迷路に入った時のようなワクワク感があり、迷うことにすら楽しさを見出していた。

 Aゲートの203番、間違っていないか数度頭を上げ下げして確認する。寸分違わず同じ記号だった。

 せっかくだからと何枚かスマホで写真を撮った。チケットを左手で掲げてゲートの番号と並ばせる。インスタグラムでよく見る構図ではあるがあまり写真映えはしなかったようだ。

 自分も横に立って写真を撮りたいが、見ず知らずの人に声かける勇気も、大勢の人が通る通路の前で自撮りする度胸もないため断念した。

 そして今一度ゲートの番号を確認する。

 それから目を閉じ深呼吸をする。

 よし、と自分にしか聞こえない音量で呟いき、足を進める。

 すると扉の先は別世界だった。

 テレビやネットでの配信でよく目にするような、派手な照明が飛び交ったり、人目を引くステージギミックが稼働しているわけではない。

 ホールはまだ外より薄暗い程度の照明が全体に均一に照らしているまま、ステージも作り物感が漂っている。

 客席はブロックごとにパイプ椅子がぎっちりと並べられていているが、まだ入場者数が少ないため三割程度しか埋まっていない。

 見慣れた映像に比べれば予想以上に質素に思える。それでも、ここから始まるんだ、という雰囲気を漂わせる何かが充満し、彼にとってこの空間は別世界と表現するには十分だった。

 胸に手を当てなくても鼓動が早くなるのがわかる。動脈の振動が指先にまで伝わり自然と呼吸の回数も増える。

 感傷に浸りすぎないようにもう一度深く呼吸をして歩き出す。

 地面の感触を踏みしめながら、というには背後に人の気配を感じすぎるためできないが、「憧れた場所に来たんだ」という実感はアリーナ席に足が進むに連れじわじわと湧いてきた。

 写真では分からなかったが直で見るとアリーナ席とスタンド席の距離がいかに遠いかがわかる。スタンド席から肉眼でキャストは日本人の平均的な視力ではほぼ不可能だ。

 少年は、当選倍率12倍、さらにそれを抽選券1枚のみで申し込んだ上にアリーナ席を当てた、その奇跡的な数字をようやく理解し、反射的に身震いした。

 席に書かれた番号とチケットに記された番号を何度も確認する。

 荷物をパイプ椅子の下にしまい、腰を下ろす。

 いつの間にか体が強張っていたようだ。前の席にはまだ人はいないので足を伸ばして天を仰いだ。

 しばらくするとホールの光景は急激に変化した。席は八割以上埋まり、中央の大画面のモニターからは宣伝用のPV、スピーカーからは大音量でアニメの主題歌が流れている。しかし驚いたのはそこではない。

 スピーカーの音量に負けないくらいの声量でコールを挟むアリーナ。

 これだけの熱気でも十分すごいのにまだ観客は増えるのか。

 始まったらどれだけのものを見ることができるのだろう。

 初めは勢いに圧倒され、面食らっていたがそれ以上に期待が膨らむ。

 席に戻ってスマホの電源を切り、ペンライトの電源を入れてコールの練習に加わった。音源流しているだけ、というのはわかっているが、既にこれだけで楽しい。

 気分がノリ始めたところで照明やスピーカー、モニターなどの電源が全てプツンと切れ、ホールは真っ暗になった。

 それと同時に座っていた観客全員が一気に立ち上がり、ダダン、と空間を揺らすようにくっきりとした音が重く響いた。

 会場全体が期待に満ちて響めき出す。

 まだか、まだか、と湧き立つ期待を焦らす。

 そして何百回も聞いた大好きな曲が爆音で流れ、観客はキャストの登場を煽るように歓声を上げる。

 照明がステージを照らし、吹き荒れるスモークから7人の女性が煌びやかな衣装を纏い、現れる。

 闇の中で際立って目立つ色鮮やかなレーザーが不規則に乱反射して、ライブの開幕を演出する。

 テレビやネットで見た光景、だけど決定的に違う。

 会場の盛り上がりはさっきとは比べ物にならないくらいの熱を帯びている。

 歓声は会場全体に轟き、この勢いはもう止まらない。湧き立つ感情に身を委ね、ペンライトを振る。

 少年は160センチも満たない小柄な体を精一杯の爪先立ちでなんとかキャストの姿を視界で捉える。足は痛いし背筋も張り、見えにくいことこの上ない。

 DVDやライブビューイングの方が何十倍も見えやすいだろう。

 それでも少年の目には、その光景はこれ以上ないほど鮮明に映っていた。

 キャストは観客の期待に答えようと歌声を響かせ、ステージの上を美しく舞う。

 会場が作りだした眩しい光の海の中で。

 目の奥が熱くなる。

 鼓動は躊躇なく加速し、

 全身が過剰なまでには熱くなる。

 楽しくて嬉しくて見惚れて苦しくて、

 忘れてしまうくらい微かに悔しくて、

 沸き立つ全てが熱を帯びて巡る。 

 瞳に映るもの全てに恋をするかのように。

 彼はこの景色を、感情を、宿した情景を生涯忘れないだろう。

 世界で最も熱い場所で見つけた美しいもの。

 この感動になんて言葉を当てはめよう。

 奮い立つ感情に言葉が追いつかなくなり、ひたすらに叫び、喉がちぎれるほどの歓声をあげ、ペンライトを高く振り続け、声援を送ることしかできなかった。

 もし見つけられたら、あなたに伝えたい。

 

 これが主人公、赤月索の果てしなくどうしようもない物語のプロローグだ。

 


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