第51話 白い外套の少女
さて、次の日の朝。
俺は少し早くに起きたので、顔を洗うために宿の外に出ていた。
基本的に、この村には水源が少ない。宿の中に水道など通っているはずもないのだ。なんなら最南の砦の方が、水源もないのに水はもらいやすかった。何故って? ウォーターを使える冒険者がたくさんいるからな。
俺は、もともと寝起きは悪い。
けれども異世界に来てからはそんなことも言っていられなくて、比較的早起きだ。
それでもこの世界の人たちに比べたらかなりお寝坊らしいんだけどな。俺がお貴族さまと言われる所以の一つである。
中でもアジャはとても早起きだ。
というか、そもそも必要とする睡眠量が人間より圧倒的に少ないんだと思う。出会った初日を除いて、アジャは俺よりも遅くに寝て、早くに目覚めていた。
だから、例によって本日もアジャはすでにすっかり身支度を終えていて、俺がのろのろと顔を洗に出るのを大人しく見送ってくれた。
水場にて、水は無駄にはできないので、水でタオルを濡らし、顔を拭く。
そしてすっかり腰まで伸びた髪をいつも通り高く括っていた時のことだ。
『ねぇ』
ふと、誰かに声をかけられた。
多分、声からして少女だろう。
顔を上げて振り返る。
声の主は、白い外套をすっぽりと被った少女だった。
顔は口元しか見えないが、笑みの形になっているのが分かる。そして、外套のフードが二つの支えによってピンと張っていた。角や耳のようなものがフードの下にあるのだろう。獣人だろうか?
少女は横断歩道の白線だけを踏んで歩くゲームをしているような、そんな仕草で水場の縁を歩いていて、俺の横まで来てからトンっと降り立った。そして口元が微笑む。
『おはよう、いい朝ね』
『ああ、おはよう』
俺たちと同じ宿泊客だろうか。
無碍にする理由もないので笑って応じる。
『旅の人?』
『そうだよ』
『なぜ旅を?』
『んー、楽しいことや美味しいものをたくさんやったり食べたりすることと、あとは探し物かな』
『あはは、楽しそうね!』
きゃらきゃらと高く少女が笑った。そしてとっておきの秘密を告げるように、お茶目な仕草で指を立てる。
『私もね、旅をしているの。初めての旅よ。なにかと制限が多いのが難点だけど、初めてだからわくわくしているの』
『ふふ、素敵だな』
『でも残念なの。もう終わっちゃいそうなのよ。もっともっと遊びたいのに、ひどいと思わない?』
少女が口を尖らせた。フードで口元しか見えないのに、その口元と仕草だけで随分と表情豊かな少女だった。
お嬢様なのだろうか、微笑ましい。
俺はタオルをたたみ、水場を軽く拭きながら少女に答える。
『いい子にしてたら、また行かせてもらえるんじゃないか?』
『むー……。そうかしら?』
『俺だったら、いい子のおねだりは聞いてやりたくなるけどな』
『ふぅん。……まあ、でも、そうよね。はーあ、じゃあお兄さんの言う通り、いい子に任務を遂行することにするわ』
任務を遂行?
幼い口から出るにしては、なんといかつい言葉だろう。
俺はふと少女を見た。
少女は、しゃがんでいた俺に対して、気付かぬうちにハグでもできそうなほど近づいていた。そのまま、小さな手に頬を掬われる。
近くなったことで、フードの中の隠れて見えなかった顔が視界に入った。
すっきりとした中性的な顔立ちの、美しい少女だ。14歳くらいだろうか? カーニャと違い愛嬌を削ぎ落とした冷たい美貌で、ひどく大人びて見える。丁寧にまとめられた赤毛、そして深いウルトラマリンブルーの瞳。
その瞳が、怪しく光を放つ。
弧を描く唇が妙に艶々と色っぽい。
いつの間にか、ウルトラマリンブルーは視界いっぱいに広がっていた。
今更気づく。
何かが、おかしい。
『ねえ、おにーさん』
『は』
『いい子な私のおねだり、聞いてくれるわよね?』
『なん』
そこで、なぜか意識が途切れた。
ーーーー
ゆらゆらと意識が混濁している。
まるで夢を見ているようだった。
俺はゆったりと部屋に戻っていた。
とてもゆっくりと、歩いて宿の中へ入っていく。
食堂には早朝とはいえ人がまばらにいて、おかみさんが声をかけてくれた。けれど、俺はそれに何も答えることができずに階段を登って部屋を目指す。
いつの間にか、手にはナイフを持っていた。
階段を登って、廊下を歩く。いくつかの扉を見送った。
そして、目当ての扉の前。俺とアジャが昨晩を過ごした部屋の扉に手をかけた。
アジャはすでに起きている。扉を開けて部屋に入る俺を見て、アジャはこちらを振り返った。
──頭が、ふわふわする。
[ハチ、おかえり]
[……]
[? ハチ?]
体が動かない。
言葉も喋れない。
返事をしない俺を怪訝に思ったのか、アジャが首を傾げて俺を見た。
そんなアジャをよそに、俺はナイフを後ろ手に持っていて、おもむろにアジャに近づく。
──あれ? 何をするつもりなんだろう。
ふと、ふわふわとする頭のまま、ひどい疑問と危機感を抱いた。
ナイフなど持って、アジャに近づいて、俺は一体何をするつもりだ?
警鐘が鳴る。
これはおかしい。そしてありえない。なにより許されない。
しかし体の制御が、俺の意思を全く受け付けなかった。表情を変えず、返事も返さず、俺の体はただ後ろ手にナイフを持ってアジャに近づこうとしている。
体ってどう動かすんだっけ?
いや、そもそも今俺の体を動かしているのはなんなんだ!
なにをするつもりか知らないが、いや大体想像がつくが、そんなことされたら俺もアジャもトラウマ必至だ。
だって、俺がアジャを傷つけるのだ。
もちろん俺程度が振るうナイフでアジャが傷つくとは、ましてや死ぬとは思いにくい。思いにくいが、そういう問題じゃないのだ!
俺は必死で体を動かそうと試みた。
ナイフを放り出すか、足を止めるか、せめてアジャに俺がおかしなことを伝えなければならない!
手でもいい、足でもいい、少し声を出すだけでも、せめて眼球くらい、俺の意思通りに──!
[──ハチッ!]
「ッァ」
ぱちんと、小さな風船が弾けるように、声が出た。
途端に体が糸の切れた操り人形のように力を失い、くずおれる。
俺はその場に足をもつれさせてどさりと倒れた。カラン、とナイフが床に落ちる。
「っあ、はあ、はあっ……!」
[ハチ、ハチ、どうしたの? ハチ、だよね……?]
[お、おう、ちょっと、待って、まだ、まだ分からないから、あんまり俺に近づかずに、ナイフを、どっかやってくれ……]
[砕くよ]
アジャが即座に呪文を唱え、ナイフがばきんと一人でに壊された。
俺の命令を受け付けなかった呼吸器が、急に「勝手に動けよ」と放り出されて、呼吸が狂う。
しばらく犬みたいに荒い呼吸を整えてから、俺はおそるおそると手を握りしめてみた。指は俺の意思に従ってあっさりとその関節を曲げる。
[う、動く……]
[ハチ、どうしたの? 何されたの? 魔力の残り香がある……]
[魔力……?]
深いウルトラマリンブルーが頭をよぎった。
[分からないが、操られた、のか……?]
[操る? 人を? ありえない!]
アジャが大きく首を振る。
ありえない、のだろうか。
[人を操る魔法なんて、ないよ。少なくとも、竜の魔法にはない]
[そうなのか]
[もちろん、服を着せるように魔力を展開して、物理的に体を動かすことはできる。でも、体って筋肉とか骨とか複雑で、無理に動かすと壊れちゃうし、脳を操るのなんて、それこそ無理だ。殺しちゃう]
[そうか。じゃあ、俺が今変だったのは、なんで……]
『きゃはは!』
そのとき、声がした。高い少女の声だ。
見ると、白い外套を着込んだ朝の少女が、この部屋の窓枠に腰掛けて座っていた。
朝日を背にして、正面が陰っている。
相変わらずフードで顔は見えない。
だが、嘲るように弧を描く口元が妙に赤く生々しい。
『失敗しちゃった。変ね。お兄さん、すごーく催眠が効きにくいわ。おかしいな、抵抗力が高い感じはぜーんぜんしないのになぁ』
『君』
[ハチ、そいつ、]
アジャが何事かを呟いた。
同時に風が吹いて、少女の顔を隠していたフードがばさりと翻る。
赤い髪、白い肌、ウルトラマリンブルーの瞳。幼いのに愛嬌を削ぎ落とした美貌は妙に妖艶で毒々しい。
頭の上で二つのお団子にまとめた鮮烈な赤の髪が、黒のアンダーと白を基調とした祭服のようなワンピースと白い外套によく映えた。
フードを支えていた二つの突起は、お団子ヘアだったんだなと俺はそんな呑気なことを考えた。
少女が笑う。
『お兄さん、気をつけてね。というか、今すぐ逃げなきゃダメよ? なんでそいつと一緒にいるのか知らないけど、殺されちゃうわよ?』
『……は? いや、どちらかというと、俺は君に殺されかかったと言うか、君のせいでアジャ公を殺しにかかったと言うか』
『分からないの? もーう、ダメね、ダメダメね。じゃあ私は親切だから教えてあげるわ!』
[ハチ!]
アジャの叫ぶような声がする。
けれど、アジャの言葉はほぼハミングだ。大陸言語に比べて大きな音が出せないので、必然的に俺の耳は彼女の言葉の方をより早く捉えた。
『そいつ、魔王よ? 人族の敵、世界を滅ぼす存在。私ね、そいつのこと、殺しに来たの』
[そいつ、俺と同じ、覚醒者だよ!]
ほぼ同時に発せられた二人の言葉に、俺の中で、瞬時に何かが繋がった。
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