陽だまり逃避行
京々
竜の峡谷
第1話 はじまり
ここはどこだろう。
鬱蒼とした真っ暗な森の中で、俺は途方に暮れていた。はあ、死にたい。
ーーーー
突然であるが、人生において、しんどいことは山のようにあると思う。
謎のストーカーに遭うとか、ネットに個人情報が拡散されるとか、仕事は捗らないとか、夏は暑くてダルいとか、大小はさておき、そういったことは日々誰しもに襲いくる。なお、以上の例は全て一ヶ月以内に俺を襲った災難である。
そういった災難に晒されたとき、人はいかにしてそれらをやり過ごすか。まあ皆さんそれぞれあるのだろうが、俺の場合は「諦め」である。
仕方ない。ドンマイ。まあいつかきっと良いことあるよ。
ストーカーは知らん人に身辺を嗅ぎ回られただけで顕著な実害はないし、個人情報は俺が中学生くらいの頃から7年間行方不明になって学歴は中学を中退っきりだってその程度、仕事が捗らないのはいつもだし、暑いのは夏だから仕方ない。
ただ、人って諦めるときに理由をつけるものだ。
「本当の目的は達成してるしまあいっか」などという自分を守るボーダーラインみたいなものが存在する。
俺の場合のそれは、たった一つの目標だった。
別にそんな崇高なものでもない。俺の目標はシンプルに、綺麗な死体になることだ。寝ているみたいに綺麗な死体。
あんまり高い目標だと達成できる気がしないから、死体なら生けとし生けるものが必ずなれるから、だからせめて綺麗な死体になりたい。
そういうことを言うと反応に困られるから、誰にも言ったことはないけども。
さて、今更だが自己紹介をしよう。
俺は八郎右衛門司郎(はちろうえもんしろう)。八郎右衛門が苗字で司郎が名前である。名前のインパクトは大きいが、俺自身の影は薄い。
28歳、職業はフリーライター。大したものではないし収入も少ない。
恋人、友達、その他およそ親しい間柄の人間はいない。両親とは特に不仲でもないけど二人共ご立派な人間故に落ちこぼれ人生を歩む俺は肩身が狭いので関わりたくない。弟もいるけどこちらは普通に不仲なので会いたくない。親戚は論外。
とまあ、俺の人生はこんな感じだ。
寝て起きて仕事するだけの毎日。何で生きてんだろ? ってたまに思う。いいんだよ、最終的に綺麗な死体になれれば俺の勝ちだからって思い直す。人生諦めが肝心なのである。
──しかし、そのささやかな目標すら達成を危うくさせているのが、なんか唐突に森でのサバイバルを強いられてるこの現状だ。
意味が分からな過ぎてちょっと笑えてきた。
先程まで俺は某コーヒーチェーン店にいた筈だ。一応記事を持っているので、その打ち合わせのためだ。今時ライターの仕事なんてほぼオンラインでもいいのに、妙に対面に拘るのだ、担当編集者さんは。
担当さんはそのわりに時間にルーズで、外は死ぬほど暑くて、エアコンが効きすぎた店内がちょっと不快だった。帰ったらブログを更新して、他にもちまちま仕事して、そんなことをつらつら考えていた。
そんで、そう。確か打ち合わせが終わって、帰るところだった気がする。
大して多くもない荷物を持って、俺は店を出た。
それから、なんだったか。店を出たらやっぱり外は死ぬほど暑くて、それで。
それで……。
なんだか記憶が曖昧だが、家に帰り着いた記憶がないので、多分帰り着けなかったんだろう。
よく覚えていないし、この際思い出せても現状は変わらない気がするから、まあいいやと俺は記憶の整理を中止した。なるようになる気がする。
とりあえず、何も分からないことが分かった。
振り出しに戻る。
ーーーー
さてそんなわけで、ふと気がついたら森にいた。
乱立する巨木と時折吹き抜けるカラカラに乾いた風。
分厚い枝葉に覆われた暗い森は夜も昼も分からず、鳥の声や木々のざわめき、そして唸るような強い風の音が遠くに木霊して聞こえた。実に不気味だ。
少し砂っぽい空気が肌に痛い。
時折見かける落ち葉もカラカラで、木の幹も乾いて所々剥がれていた。
総じて水気がなく、生物の気配もほぼない。鳥の声も小鳥って感じじゃなく、「ギャーッ」「ケキョーッ」と変な声。
そのくせ、暗いからか地面が岩っぽいからか、ここはひどい閉塞感があった。たとえば、巨大な地下空間にいるみたいな、四方を冷たい無機物に固められているような空気感。
あと結構寒い。
記憶にある限り全く覚えのない場所なことだけは確かである。
異世界転移、なんて雑な見解が頭をよぎる。流石に雑すぎると即座に思考の外に追いやった。
さて、とりいそぎ「すぐ死ぬ!」という感じでもないので、俺はできることをするとしよう。
とりあえず、持ち物チェックかな。
俺は自分の体を見下ろした。
服装は先程までと同じ、似合わないスーツ。
手に持った鞄の中には、スマホとノートパソコンと財布くらいしか入っていない。圏外な時点でこれらはガラクタ決定だ。ああ、ハンカチとティッシュとキャラメルは使うかも。
持ち物、以上。
どうしようもないな。
どうしてくれよう。
どう考えても俺の手札じゃ万事休すだった。詰むのが早い。
次は、周囲の環境の把握をしといた方がいいだろうか。と言っても植物の種類には詳しくないし、森を抜けたいところだけれどどっちの方向へ行くのが都合が良いのか分からない。
こういうときは空を見ると良かったんだったか。
星の位置で方角が分かるとかどうとか……。まあどこに何の星があるかも分かりゃしないし、そもそも茂る木々のせいでマジで薄暗いこの森からは空が満足に見えない──
そのとき、稲妻が走った。
つらつらと垂れ流していた俺の考えごとを一瞬にして切り裂く黄緑色の閃光だ。
音もなく、目に痛いほど鮮烈に、黄緑色の線が走り、空に横たわる。それが、何本も何本も。
まるで雷の天蓋のようだと思った。目映い黄緑色が分厚い枝葉の隙間を貫いてとつとつと俺の瞳に飛び込んでくる。無機な美しさが目に痛い。それでも俺は、目を見開いてそれを眺める。
だって、この世の終わりみたいな、現実離れした美しさだったから。
「──」
そして落下──
ピシャリ、ゴロゴロドッシャン。
次の瞬間、世界が揺れた。
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