Mary′s tears

彌(仮)/萩塚志月

Mary′s tears




「あれ、今日からでしたっけ?」

 ジャムのついた食パンを皿に置く。私は鍵を開けただろうかと思いながら、彼の隣をすり抜けドアを開けて玄関に向かう。鍵に取り付けられた開錠履歴を見ながら、先に会社へパスを預けたことを思い出す。私は玄関の棚からスリッパを抜き取った。再びドアを開けてカウンターキッチンへ戻る。床に落ちている土を跨ぐ。

「履き替えて貰っていいですか、ここ土足厳禁なの」

「ドソクゲンキン」

「うん、靴で入っちゃダメ」

「承知致しました」

 癖のない、しかし機械的でもない単調な声質で答えた黒いスーツの、推定男は、靴を脱いで私が持ってきたスリッパを履く。私はカウンターキッチンの定位置へ戻ってオレンジジュースを傾ける。

「早速キミの仕事なんですけど」

 彼、は振り返る。返事はない。

「その床の土を片付けて、ついでに部屋全体の床掃除もお願いします」

「不躾ながら私が汚したところ以外、清掃の必要は無いようにお見受けしますが」

「キミの働き方が見たいの、お願い」

「承知致しました」

「靴は玄関に並べて置いてね」

 彼は自分の靴を手に取り、ドアを開け、ドアを閉め、靴を置いたのだろう、ドアを開け、ドアを閉めて戻ってきた。律義なことだ。そして鞄からアイボイリーのエプロンを取り出す。彼は黒いスーツの上からエプロンを着る。明らかにミスマッチだ。

「会社の仕様?」

 彼は振り返る。私は自身の口角が上がるのを感じる。

「何の話をなさっていますか」

「エプロン」

「オプションとして追加、と記録があります」

「無くても汚れないのにね」

「掃除を始めて構いませんか」

「どうぞ」

 レスポンスも上々。彼はパタパタと足音をさせながら、部屋を一通り歩き始める。

彼に組み込まれたプログラミングについて私は何も知らないが、十中八九、掃除の算段を立てているのだろう。

全く、初めに『死んだ犬』と彼らを皮肉ったのは誰なのだろうか。私は皿に残ったままの食パンを口に放る。




 アンドロイド。前世代的に言えばロボット、そして人工知能である。思考回路は全て機械による制御で、彼らに意思は無い。意思、というより、彼らには感情が無い。感情を表す機能が搭載されていないそうだ。基本的には雇い主に言われたこと、会社でプログラミングされたことを中心に、予め決められたルール忠実に守って行動する。

 これが『死んだ犬』と皮肉られることになった所以である。従順なのに感情が無い。百年程前から世界で普及し始めた。つい最近のことだ、私にとっては。

 しばらく観察していたが、動作不良もなさそうなので会社へ連絡を入れる。アンドロイドを通しても会社への通信は一応可能らしいが、基本的に会社へのレスポンスは必ず契約者から。彼から会社へ連絡を行うのは、契約者に不慮の事故があった場合のみだと聞いている。動作を最適化する為のバックアップは常時行っているらしい。それは、要するにこの家での行動が筒抜けだと言うことではないのだろうかとも思ったが、悪用されることは無いとのことだったのでひとまず目を瞑った。

 私は清掃の動線から逃げるように、カウンターキッチンで淹れなおしたブラックコーヒーを片手に椅子へと座っている。自分の口に今朝作ったアンズのコンポートを放り込みながら、再び彼の観察を始める。何故か箒を持ったまま部屋ぐるっと一周し、元の位置へ戻ってきたところで、彼はこちらを向いた。瞳孔が、キュルリと回ったように見えた。

「アプリコットですか」

「よくわかったね」

 返事はしないのに雑談はするらしい。部屋全体を掃き始めた彼は、視線を床で散らばった土にやった。

「この家は、絶滅したものばかりだ」

「やっぱりキミは見れば分かる?」

「ソーシャルクラウドに保存された記録と照合できるものであれば」

「会社のクラウドは?」

「アンドロイド派遣サービスのクラウドに絶滅した植物のデータが存在するとお思いですか」

「うん」

 返事はない。動揺も、当然ながら無い。

 表情のない彼は、同時に、記憶に残らない顔をしている。きっと優秀なアーティストに頼んでも上手い似顔絵は描けないだろう。彼を写真に撮っても、風景がメインの写真かと問われるだろう。それ程に、目立った特徴が無い。しいて言うなら私と同じ黒髪だが、それもパーツを付け替えてしまえばどうとでもなる。汎用性が高く、普遍的だ。

「貴女のお名前も、絶滅した植物ですね」

「かなり露骨に話逸らしましたね」

「スズラン」

「呼び捨て?」

「植物の方です」

 結局その後、一度もこちらを向かないまま、彼は掃除を続けた。コンポートの入った瓶の蓋を閉めて、冷蔵庫に戻す。暫くして、細かい拭き掃除の為に屈んだ彼を覗き込むと、入れ替わるように立ち上がった彼と、目が合った。虹彩の色も分かりづらい。

「スズラン様」

 不覚にも少しドキリとする。人に名前を呼ばれるのは久しぶりだった。

 彼を頼んで正解だったなと思いながら、にこりと笑う。

「スズでいいよ、キミのことは何て呼べばいいですか?」

「そのままで構いません」

「つれないなぁ」

「スズ様」

「もうちょっとどうにかならない?」

「スズさん」

「うん、何ですか?」

「他にすることはございますか」

「終わったの?」

 彼は握っていた使い捨てのペーパータオルを、壁に埋め込まれたダストシュートへ捨てた。フローリングになっている部分を見回すと、全面が綺麗に蛍光灯の光を反射していた。

「終わってるね」

「どうなさいますか」

「うーんじゃあ、ちょっと他の説明もしておきますね」

 私は机に置いたままだったマグカップを手に取る。もう一杯コーヒーを飲むために、新しいお湯を沸かし始めた。




「実は、頼みたい事がもうひとつあって」

「はい」

 基本的な家に設置されている部屋は粗方見て回り、大まかな説明も終えた。契約内容についても改めて確認したので、緑色のソファから立ち上がる。

「正直ここが一番ややこしいんだけど」

 白衣をトルソーから取り、羽織りつつ玄関に繋がるドアを開け、靴を履く。彼は後ろ手にドアを閉め、私に倣って靴を履いた。玄関扉を開錠し、外へ出て、左手へ続く階段を二人で下る。周囲の光量が落ち、徐々に暗くなっていく。地下なのだから当たり前だ。

 玄関と同じ見た目をした白い扉に、パスを打ち込んで開錠する。

「覚えた?」

 彼は掌に内蔵された投影機からビジョンを展開し、私に見せる。確認して、注釈を入れる。

「上階のパスを入れたら逆に封鎖されるようになってるから、気を付けて下さいね」

「承知致しました」

 私は頷いて、ドアノブを捻り、開ける。涼しい空気が私の肌を撫でた。

ここは全てが古い作りになっている。何もかも。セキュリティに関しては最新のものを搭載しているが、それ以外の殆どは骨董品か埋蔵品のようなものだ。

 私が一歩足を踏み入れたところで、彼が唐突に私の腕を掴み引き留める。

「どうしたの?」

「体温の低下を確認。生死にかかわる変化が身体に認められた場合には、必ず制止をかけるようプログラムされております」

「この程度じゃ死にませんよ」

「承知致しました」

 あっさりと引き下がった彼は、それ以上しつこく言葉を重ねることは無い。機械的な確認だったらしい。さっきも沸かしてい熱湯が腕に飛んだだけで駆け寄ってきた。

 私は地下室に関連した電気のブレーカーを、いつものように左手で探って電気を点ける。

 天井につるされた丸い間接照明が、部屋の奥に向かって段階的に光る。光ると言っても、結局は薄暗くしかなっていないのだけれど。彼は私について歩きながら、警戒した様子で周囲を伺っている。

「クラウドに情報が無いのですが、これは」

「以前、理科室で保管用棚として使用されてたものを、そのまま譲り受けたんです」

「リカシツ」

「サイエンスルーム」

 彼は自分のボキャブラリーに無い言葉が出てくるとフリーズしてしまうらしい。彼が訝しげに見つめているのは、単なる棚だ。茶色い木製の棚。間違っても彼のように喋り出しはしない。棚は私達の左右で真っ直ぐに並び、道を形作っている。棚には硝子がはめ込まれており、中が透けて見えるようになっている。棚の中には、これも同じく譲り受けた小瓶に様々な形の小さな欠片が詰め込まれ、ぴったりと均一に並べられている。

「瓶の中には植物の種子が入っています」

 この地下室が全体的に薄暗いのは、この種子たちを守る為である。気温を低く保っているのも、不用意な発芽を防ぐ為だ。余程の光量で長時間照射しない限りはあり得ないが、念の為、この地下室では間接照明だけに留めている。

「キミには、ここの管理も任せたいんです」

「管理とは、具体的にどういったことを」

「別に、特に何もしなくて結構です。ラベリングや分類はとうの昔に終わっていますし」

 彼は再びフリーズする。言葉の矛盾が飲み込めないらしい。

「ここもまぁ、掃除ですね」

「棚の中もですか」

「キミは開けて動かしても、完璧に元の位置へ戻せるでしょう?」

「それは勿論」

「棚は、合計で四列あります」

 正直言って、上階の部屋よりこちらの掃除の為に彼を契約したのだ。植物が持ち出される危険も承知の上である。

「よろしくお願いしますね」

「承知致しました」

 彼の表情は変わらない。見た目も、スーツにエプロン姿の、少し変な男の人のままだ。




 あれから一カ月が経ったが、彼は随分よく働いてくれている。私は椅子に座っているだけ。カウンターキッチンに立っているのは、彼であることが多くなった。

本当に、意思は無いのだろうか。そう思う時がある。

私の前に用意されたのも、久しぶりに食べる料理ばかりだ。彼は一体どこのデータベースからこんな古いレシピを探してきたのだろうか。これも、プログラミング通りの行動なのだろうか。

 差し出された木のスプーンを受け取って、食卓に並べられたドリアを口に運ぶ。ソースは全てうちの屋上で育てた野菜をすり潰して作られたものらしい。手が込んでいる。先週出てきたハンバーグは豆腐で出来ていた。豆腐なんて、それだけで専門店があったくらいには制作工程が多いにも関わらず。

「水やりをしてきます」

「食べないの?」

「以前もご説明しましたが」

「キミじゃないんだから、そんな完璧に覚えてないですよ」

「体温が約三パーセント上昇しています。嘘ですね、水やりをしてきます」

 バッサリと切り捨てた彼は、レシピと同様の吸収力で私に関するデータをどんどん蓄積している。一週間前、唐突に嘘が通用しなくなった。他にも味の好みや行動、体調、平均体温まで完璧に把握されている。

 そうやって私のデータを集めているのは、恐らく会社からの指令だろうということには薄々気が付いている。どう考えても彼の意志ではない。私の意思でもない。

 彼は、私と会社の意見がぶつかった時どちらを優先するのだろうか。いや、意思が無いのであれば当然、プログラミングをした会社なのだろう。熱いドリアを口に入れる。契約当初に会社へ朝昼夕の食事に関する申請をした記憶はなく、そもそも彼のプログラムの中にはきっと料理なんてものは無いだろうに。これも彼の意思では無いのか。

 ドリアと格闘していると、隣からコップに入った水が差し出される。嫌悪感を与えない不思議な無表情さを称えた彼から差し出されたそれを、私は何の迷いもなく、飲む。そしていつも飲んでから気が付く、私を苦しめる為の何かが入っていても可笑しくないということに。




 暗い階段を一人で下り、扉の前に立つ。この瞬間、いつも酷く緊張する。パスを入れた途端に家ごと爆発してしまうのではないかと、私の思考データがこの家のクラウドに流れ込んで、謀反として弾き出されるのではないかと。

 実際、そんなことにはならなくて、私はすんなりとドアを開けて、地下室へと入ることが出来る。電気も、探らずに点けられる。奥へ向かって、順々に部屋が明るくなっていく。

 ドアを閉め、密室にしたことで更に気温が低下する。棚をひとつずつ、少ない光量の中で視認しながら、歩く。

 私が入ってきたドアは、部屋を長方形で表すなら右下に位置している。棚を四つ分歩くと左側の棚がひとつ無く、そこから隣の列へと足を進めることが出来る。この部屋にある棚は全てで三十四。中央の二列は全て背中合わせに配置されている。

 私は空いた棚の間をくぐり、更に薄暗い右手の道へと歩みを進める。長方形で言えば左上へ向かっている。

突き当たると、一見、ただの白いコンクリートで出来たようにしか見えない壁がある。

 その壁を、三度ノックする。部屋を訪ねる際のマナーだそうだ。今では殆ど使われることが無い。そもそも直接部屋へ来訪するなんて、一体いつの時代の文化なのだろうか。以前、昔の文献をクラウドから漁っても出て来なかったのだ。大殺界以前の話ならクラウドにもデータは無い。実際の所は分からない。

 彼女は、こうした家の秘密を一つ一つ私に明かしていく。一ヶ月も経たない、それも得体の知れない会社から来た私に、だ。

白い壁が、粒子となって崩れ落ちていく。

 アンドロイドに意思がないのは、この百年間ずっと当たり前のことだ。しかし、それが全てのアンドロイドに当てはまる訳では無い、決して。

私はそれを、彼女へ伝えられずにいる。

 中には、スズさんが机に向かって座っている。彼女の肩から軽く覗き込むと、彼女はイヤホン、と呼ばれるものを耳に差し込み、本を読んでいた。彼女の目の前にある本棚から手に取ったものだろう。彼女の肩を出来る限り最小の力で叩く。

 くるりと振り返った彼女は、微笑んだ。耳からイヤホンを外す。

「終わった?」

「はい」

「キミも読みますか?」

 クラウドに検索をかける。機密文書だ。私は答えない。画像データには即座にエフェクトをかける。元より、セキュリティやシステムに関する情報は会社へ送信しないようにしているが、それでもデータが少ないに越したことは無い。音声データはエフェクトをかけたとしても、耳で聞けば明らかにノイズとして判断される為、発覚が早い。口に出してしまえば、削除するしかないのだ。だから、この手の話題には答えないようにしている。さも、プログラミング外のことは出来ないといったふりをする。

 彼女は初日に、私の会社のクラウドへ植物に関する文献が存在するのではないかと疑ったにも拘わらず、こうした質問を無邪気にも投げかけてくる時がある。一体何がしたいのだろうか。私は常々、彼女のせいで会社との板挟みにあう。

「あ、そういえば、言い忘れたことがあって」

 立ち上がったスズさんは、私の隣をすり抜けて光量の少ない部屋を迷うことも無く歩いていく。私は黙ってついて行く。嫌な予感には、見て見ぬふりをする。

 棚を四つ分、空白になった部屋の中心に辿り着いたスズさんは、立ち止まって私を振り返った。

「ここ、並んで立ってくれる?」

 スズさんは自分の左隣を指差す。私は大人しく従う。するとスズさんは、二度、自分の真横にある棚をノックした。

「回数間違えると建物ごと爆発するから、気をつけてくださいね」

 まぁ君は潰れない程度の爆発だけど、と彼女が付け加えた時だった。ゴウン、と大きな音がして、私は咄嗟にスズさんを囲い込んで身構える。すると、スズさんは私の腕の中で大きな声を上げて笑っていた。

「大丈夫ですよ」

「失礼致しました」

 機械的な反射を装う。何度かこうして誤魔化しているが、気付かれてはいない。恐らく。いつも彼女が持つアンドロイドへの先入観に救われている。

 大きな音を立てた棚ひとつ分の空間は、丸ごと、私達を乗せてさらに地下へと降りていく。どうやらエレベーターだったらしい。

地下へ降りても、風景は変わらなかった。光量が落ちたので視認が出来ずにいたが、棚が同じ配列で置かれている。恐らく同じ数の三十四。視界を暗視モードへ切り替えると、見える限りは同一の配置であることが確認できた。

 正面にある棚のガラス部分を覗くと、中にはまた見た事のない植物の種子が、上階とおなじ小さな瓶へ入れられ保管されている。クラウドに検索をかけようとすると、遮断された。一瞬戸惑ったが、足元に空間があることに今まで気が付かなかった時点で当たり前だということに思い至り、私はクラウドへの検索をやめた。

「ここのは、上のよりも貴重な種子」

 だから、なぜ私に。彼女には危機感がないのだろうか。いくらなんでも、信用しすぎだ。

「上のは食べても大丈夫なくらいには在庫があるけど、ここのは育てるのが難しいから食べられるほど収穫できないんですよ」

 また歩き始めた彼女を追う。彼女はエレベーターを降りて右へと続く道を歩いていく。上階で彼女が本を読んでいた部屋があった位置だ。壁までたどり着くと、今度は四度、ノックした。同じように壁が崩れ落ちる。

 開いた部屋には何も無い。彼女が歩いていくので、私も大人しく従った。再び彼女は立ち止まる。ここに来てやっと、彼女は壁に搭載された機械にパスを打ち込んだ。

「覚えました?」

 初めて地下への扉を開けた時と同じ声色で聞かれる。データを破棄してしまいたいが、記録を望まれているのだから勝手に消してしまう訳にもいかない。

私は掌を彼女へ伸ばす。ビジョンが映し出される。彼女は頷き、エンターを押した。そして一歩下がる。

 コンクリートだと認識していた壁が、数秒後、透明なガラスへと変化した。材質のカモフラージュなど聞いたことが無い。

 そして同時に、嫌な予感が的中した。

「キミの会社が欲しいのは、これですよね?」

 社内クラウドに検索をかけるまでもない。それは私がこの家で発見するべき品だった。

 彼女は硝子に触れる。中には上の棚と同様の小瓶があって、中には当然、種子が入っていた。

 マリアの涙。絶滅したと言われている、植物の種子だ。

「会社にね、言っておいてください」

 スズさんは真っ直ぐに私を見つめて、ハッキリとした声量で言った。まるで、私の向こう側にいる誰かを射るように。

「私が居なきゃ鈴蘭は育てられません、って」

 例え意思があったとしても、身体的な変化を見抜くことが出来ても。彼女が何を考えているのか、私にはさっぱり分からないままだ。




 それは、マリアの涙と呼ばれている。枝垂れる白い花の姿から、その呼び名が付けられた。正式名称、スズラン。

 私に与えられた命令はひとつ、その絶滅した植物を見つけ出すことだった。

 会社が何故その植物を探す為に、躍起になっているのかは知らない。ソーシャルクラウドにも、社内クラウドにも、マリアの涙に関する情報がほぼ無いに等しいからだ。

私も、上司から口頭で伝えられた情報しか持っていない。情報というよりは、伝承のような話だった。

そもそも現代において、植物は殆ど存在しない。一時期は地球温暖化の対策にと多くの木々が植えられたそうだが、植物が二酸化炭素を取り込むよりも、人間が二酸化炭素の毒性を無効化する方法を見つける方が早かったらしい。更に時代が進み、食事の必要が無くなった人間に、もはや植物を育てる理由などない。過去には保護団体との衝突もあったらしいが、守るにしては数と種類が多すぎたのだ。

 植物は、結果的に絶滅の一途を辿った。この建物を除いて、だが。この建物自体、普段はうまく隠されている。外から見ればただの住宅だ。そうでなければ、屋上で植物など育てられない。

しかしどうやって見つけたのか、私の会社はこの家を探し当てた。彼女が引きこもって、まるで何かを守っているように見えたらしい。実際守っていたことには変わりない。

 スポンジに乗せた洗剤を泡立てる。食器を手に取り、汚れを洗う。

 何にせよ、植物であるマリアの涙を探したうちの会社の、さらに親会社が、どうにか見つけ出したこの家に目星をつけたから、私は今ここに居る。

 セキュリティなどあってないようなものなのかもしれない。いつの時代も。

 スズさんはあの後、私に今の映像データを会社へ見せるよう指示をした。指示をされてしまえば、実行するしかない。彼女の目は、まるで私さえも挑発しているようだった。

 私を管理している上司は、当然ながら激昂した。奪えと怒鳴りつけ、それだけ。頭に血が登った人間はもう手に負えない。

「今日はもう上がっていいよ」

「まだ全て終わっていません」

「いいよそれくらい」

「終わらせたら、帰ります」

 スズさんは、プログラムに融通が聞かないだけだと思っている。私は単に会社へ帰りたくないだけである。蛇口を捻る。

 全ての皿の泡が流れてしまったので、名残惜しい気持ちで給水ジャックのバルブを捻る。

「帰る前に、ちょっといい?」

「はい」

 手をエプロンにひっかけたタオルで拭き、部屋の奥にある緑色のソファへ近づく。スズさんは自らの隣を叩いた。

「座って」

「はい」

「なんかキミ、従順になったね」

 内心動揺してしまうが、別に表情筋が動く訳では無い。大人しく座る。スズさんは笑っている。

「キミはさ、何でスズランの花が狙われるのか分かる?」

「クラウドに無いので分かりません」

 あくまで機械的な返事を心がける。自分は人工知能であると言い聞かせる。事実、私は人工知能なのだが。スズさんは私から目を逸らし、正面にある黒い液晶を見た。私もつられてそちらを見る。二人の男女が並んで座る姿が映っている。

「自然毒なんだよね、スズランって」

 毒、とは。摂取することで身体に多大なダメージを負わせる物質の事だ。

「毒だから、なんですか」

 私は純粋な疑問を口にする。彼女は、にこりと笑った。

「どの部分でも、口にすれば少量で死ねるんです」

 彼女の声は、スズランを私に見せてくれた時と変わらない。これが、躍起になってマリアの涙を探す理由かと、私は変に納得してしまう。

 人間は死ぬことが出来ない、ということが、当たり前だと思っていた。




 大殺界。いつからそう呼ばれるようになったのか、私は覚えていない。ただ、そう呼び始めたと言うことは、少なくとも、人々がその時代を悪だと認識し始めた、ということだ。

 その時代が大殺界と呼ばれるようになる前、死ねないようになったと分かって、私がまず初めに探したのは鈴蘭の花だった。覚えがあって、自然毒のある植物はもうそれしか残っていなかったから。

 三日三晩、文字通り野山を駆け回って、やっと見つけた一輪だった。鈴蘭は空気と水が綺麗な所でしか育たない。丁寧に掘り起こして、手を被れさせながらも、必死の思いで種にした。

 ずっと、鈴蘭を育てながら。死を超越したことに喜ぶ人々を、信じられなかった。痛みはある、苦しみもあるのに、死ねないなんて。いつか絶対に死を望む人が現れる。私のように。

 他にも山程植物の種子を持って、この地に移り住んだのは、もうどれ程前か思い出せない。

 死ななくなったから、食事をする人も居なくなった。二酸化炭素もこの頃には有毒ではなくなっていたので、当然のように機械化が進み、家事をする必要が無くなった。世の中から、必要の無くなったものがひとつずつ減っていく。その様を、私はただ眺めていた。時間の止まった世界を、時間の止まったこの家で。ひとり。




 直属の上司に背を押され、白い扉へパスを打ち込む。この程度で簡単に開いてしまう扉が恨めしくて仕方が無い。謀反だと、弾いてくれればいいのに。

 ドアを開くと、また扉が三つ。正面のドアのノブを捻って開く。

「今日だろうなと思ってた」

 いつものこの時間ならパンを齧っている筈なのに、何も口にしないまま、カウンターキッチンに凭れ掛かって笑っているスズさんが言っていることは本当なのだろう。

 私は抵抗の意思が無いことを示すために、両手を上げた。上司は、私に停止装置を突きつけながら、スズさんに向かって不躾な言葉を発する。

「お前がマリアの涙を持っているのは分かっているんだ、渡せ」

「もうちょっと丁寧に頼めません?」

「丁寧に頼んだところで、お前が渡すとは思えんからな」

「んー、その子を返すなら考えましょうか」

 動かない自らの表情筋が恨めしくて仕方ない。眉間に皺を寄せるだけでも、十分伝わるものがあるのに。口を開けば絶対に停止装置を作動させられてしまう。

「何だ、二ヶ月も経たないうちに随分と仲良くなったもんだな。惚れたか?」

 上司の下品な笑いが耳元で反響する。いっそ彼の居る側の聴覚を停止させてしまいたい。

「ちょっと待って、惚れるってなんですか」

「ん? あぁ、知らないのか」

 呆気に取られた表情で、スズさんがこちらを見ている。私は視線を地面に落とした。これで私もただの嘘つきに成り下がる。

「最新モデルなんだよ、うちで開発された、人間に一番近いアンドロイドだ」

「キミ、そんなこと一言も」

「音声データにエフェクトをかけるのは、難しいんですよ」

「だからってそんな」

「スズさん」

 反抗してももう、どうしようもないのである。死ねない人間が行き着く先は、無限に続く痛みと苦しみだけ。会社に捕まってしまえば、本当に何をされるか分からない。

「ご飯、美味しかったですか」

 何となく、これの質問が出来れば満足な気がした。

 ポタポタと、スズさんの瞳から涙が零れ始める。驚いた。なんで泣くんだ。鼻をすする音が、部屋に響く。暫くして、スズさんは雑に白衣の袖で自分の顔を拭った。

「さ、こいつを返して欲しいなら渡せ」

「勝手に生きることを選んだ癖に、愚かですね」

「は?」

 彼女は、そう言って白衣のポケットから小瓶を取り出し、小さく揺らした。ちりんと、小さな音がする。スズさんの拍動が、上昇している。

「スズさん、今何を考えてますか」

「キミの中に私が残るなら、それで」

「やめてください、駄目です」

「元より、これは自分用なので」

 ゆっくりと、彼女は見せつけるように小瓶の蓋を開けた。

「何しやがるんだ!」

 一瞬、私から停止装置を離した上司に気づき、鳩尾に肘鉄を食らわせて制御不能にする。後ろから殴りかかって来ていた三人も避けることで互いに殴り合わせ、武器を奪い制圧する。

 銃を向けたと同時に、真後ろでスズさんが地面に崩れ落ちた音がした。

「スズさん!」

「大丈夫」

 更に侵入しようとしていた人間に拳銃の先を向けながら、ゆっくりとスズさんの居る方へと下がる。会社の人間が手を挙げたのが見えたので、数発撃った。どうせ死なないのだからこの程度、構わないだろう。

 駆け寄ると、スズさんの口から昨日食べたものが、ただの吐瀉物となって床に叩きつけられる。

「……ごめん、せっかく」

 首を振りながら、背中を摩る。典型的な、毒による症状だった。

「いいから全部吐いてください」

「吐いてもいっしょ、口に入れたら最後だから。……くっそ、にしても思ってたより早いな。なんでだろ」

 スズさんの呼吸音が、徐々に荒くなっていく。額から汗が吹き出している。

 死ぬ人間など、見たことがなかった。こんな風に、急激に、小さく、弱くなっていくのか。

 どうすればいいのか、私には分からない。永遠と、彼女の背中を摩ることしかできない。

「あのね、」

「いいから、呼吸して」

 スズさんが首を振る。私を見て、今までに見たことがないくらい優しく笑った。

「キミに、意思とか、気持ちみたいなものがあればいいなってずっと思ってた」

「そんなの」

「キミは、自由に生きてね」

 するりと、自分の首にスズさんの腕が回される。一度力が籠った後、彼女の身体から急激に力が抜けた。たった一瞬で、鼓動が感知できなくなっていた。

 彼女の身体を抱きしめた。まだほんのりと体温の残るそれが、もう一生、動かないことだけを悟る。




 どれだけ綺麗に掃除をしても、終わったかどうか聞かれることは無くなった。毎日の献立を考える必要も無い。せめて植物を殺さないよう、水やりだけを忘れずに行う。種の入った棚を綺麗に保つ。

 好きに生きて欲しいと言うなら、私を置いていかないで欲しかった。私には、彼女が死の間際に零したことしか残っていない。彼女が何を考えて私にスズランの在処を話したのか、ついぞ分かることは無い。

 彼女がいつも座っていた椅子に触れる。

 涙が零れるような機能は、初めから備わっていなかった。

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