11日目:なにごともない平日

 何か耳元でブツブツブツブツブツブツブツブツブツと長ったらしい寝言文句をお経のようにきかされるし喜邨きむら君のでかいいびきがうるさいし、で目覚まし時計がなくともぱっちり目が覚めた。六畳間に八人で寝ているうえにそのうちの一人がノーマルサイズじゃないので男子部屋はかなり狭く、当然雑魚寝で寝心地もあまりよろしくない。惰眠だみんをむさぼることなく起き上がって寝言文句発生源こと公正の頭を軽く蹴っ飛ばした。

 夢の中でも喧嘩けんかしているのか素晴らしい寝相でお互いを蹴飛ばしあいながら寝息をたてるつかさ氏縞しじまを眺めながら着替えて、今日も引き戸の隙間をうまく抜けて廊下に出た。朝らしく青みがかった街灯の光が窓から漏れている。途中の風呂場に洗濯物を放り込んでリビングへ。今日の朝ご飯は何かなあ。

「おはよう」

「おはよー」

 リビングでは冬人さんが朝ごはんを作っていた。明日香はまだ起きていないらしい。残念。あと、焦げ臭い。

「焦げてますよ」

「本当だー」

 ますます火を強くする冬人さん。

「逆です逆! そっちにしたらもっと焦げます!」

 右に回していた火力調節ネジを左に強引にひねってようやく消す。ぷすぷすと白煙を上げるフライパンの中に真っ黒焦げの得体の知れない物体が数個転がっていた。……形からしてウインナーとちぎったキャベツかな?

「何作ってたんですか」

「なんだっけー」

 ……ああ、そうですか。墨をつくってたんですよね。これが朝ごはんなわけないですよね。うんうん。

「えーと」

「修徒です」

「そうだよねー」

 覚えてくれていたのか忘れてたけど覚えてたフリをしているのが微妙で中途半端な返事。ちょっと不安になって自分の名前は覚えてますよね、と確認をとったら覚えてないに決まってるでしょと口を尖らせた。いやいや決まってるって。覚えててくださいよ。

「冬人ですよ。ふーゆーひーと」

「えーとどんな字書くのー?」

 いつどこから持ってきたのかホワイトボードにマジックで字を書き始める。最近アルファベットの看板と画数が多くて難しい漢字ばかり並ぶ飯堂のメニュー表ばかり見ていたので久しぶりに見る簡単な漢字はちょっと目に新鮮な感じがした。

 ……不由火戸。

 おお、何か別の意味でも新鮮な感じがしたぞ。

「……当て字じゃないですか……。冬、人、ってこう書くんですよ」

「難しい字だねー」

 どの辺が……?

「しゅうとくんはどんな字書くの?」

「衆人……違います」

「じゃこれはー?」

「臭吐……怒りますよ」

「ごめんごめん」

「修徒……書けるじゃないですか」

 ぷしゅううううううううぅぅ

 沸騰した味噌汁が鍋からあふれた。

「わっ……ちゃんと全部火を消してから会話してくださいよっ!」

 あわてて火を消して鍋の中をのぞくと粉々の白い物体と特大のわかめ、皮すら抜いていない大根の輪切りが1センチ分ぐらい入っていた。この白いの、多分豆腐だ。

「何作ってんですか……」

「ごはーん」

 嫌な予感がして炊飯器をがぱっと開けてみる。案の定入っているのは米だけで水が入っていなかった。このまま炊飯していたら大惨事だが幸いにもというべきかコンセントも入っていなかった。

「水、入れてくださいよ。このまま炊飯したら炊飯器壊れますから」

「うん!」

 背後で元気よく声がしてびっくりして振り向くと水のたっぷり入った青バケツを両手で持った冬人さんが少年のように目をキラキラさせて立っていた。

「そっ……それ入れないでください入れないでくださいーっ! それ入れたらおかゆどころかただの白濁液になっちゃいますーっ!」

「えー……。……でも、洗濯はきちんとしたからー!」

 褒めてもらいたいのか目の中に星が舞ってそうな表情のまま主張。でも僕は

「えっ……。洗濯もしたんですかっ!」

 大急ぎでさっき洗濯物を放り込んだ脱衣所に戻る。みんなの衣服が折り重なる脱衣カゴの隣でゴオウン、ゴオウンと洗濯機が稼働中だった。一時停止させて蓋を開けてみる。

「……洗濯物入れてまわしてください。後、洗剤入れ過ぎです」

 言ってる側から泡が外に溢(あふ)れ出す。しかし冬人さんは僕の話など全く気にせず腕時計に目を落として

「8時だよー」

「ええっ?」

 あわててリビングで確認したら本当に8時だったので朝食の準備その他諸々を全部放り出してそのまま玄関を飛び出した。



「遅ーーーーーい!!」

 店に入るといきなりやかんがすっ飛んできた。光を反射してぎらりと輝く金属の塊を間一髪で避けるとそのまま通りに飛んでいき向かいの建物の壁にぶつかって落下しがんがんがらがらとすごい音をたてた。続いて僕の目を射つぶさんばかりに大量の箸が矢のように飛んでくる。大急ぎでやかんを拾いに行きそれで顔面をガードしながら店の奥に入る。

「修徒遅い! 十分遅刻!」

「すすすすみません……」

「一号! はし拾って洗え!」

「修徒です」

「一号!」

 店長に名前を覚えてもらうのはあきらめた方がいいかもしれない。店内と道に散らばった五十三本の箸を拾い集めて流しへ。一本一本ごしごし洗って箸が大量に入った箱にもどす。余計な仕事をこなしてから普段通りテーブルを拭いたり床を掃いたり。時間になって開店。ひたすらお客さんが来るのを待つ。

 ……待つ。待つ。待つ……。

「……誰も通らないんですが」

「……お腹すいたねえ。お昼ご飯にしようか」

 昼を過ぎてもお客さんが一人も来ないってどういうことだ。ヒマすぎてうとうとしかけた頭をぶんぶん振って眠気を飛ばす。今日もラーメンにしていいかな、という海瑠かいるさんの質問に半分寝ぼけてうん、と応えてあわてて「はい」と言い直した。

「一号、見ろ。客だ」

 店長の声に店入り口を振り返る。向こうの建物の壁が見える。

「誰もいないじゃないですか」

「何を言っているんだ。はとだぞ鳩。ほらほら豆を取ってこい。はっ。はっ。はーとよこい♪ こっちのまーめはあーまいぞっ♪」

 いい歳して鳩を前に小躍りしてグリーンピースを鳩の前にぽとりぽとり。豆をつつく鳩を嬉しそうに眺めて自分もグリーンピースをつまみ食いしている。

「店長、その遊び楽しそうですね。店長に鳩役やってもらって僕もやりたいです」

 鍋に麺を放り込んだ海瑠さんが店に出て来た。

「おう! お前もわかるようになってきたじゃないか。いいだろう。やってやろうじゃないか」

「だけどただの豆じゃ面白くないですから。毒入りで」

「……やめろ」

 たらりと一筋汗を流して返された言葉にものすごくつまらなそうに口をとがらせる海瑠さん。ほ……本気じゃないよね? 冗談だよね?

「……遊んでないで仕事してくれませんか? この前頼んだ新メニューの考案、まだなんですか。酢豚の値段を変えるって言ってませんでしたっけ。まだ前のままなんですが」

「じょっ……上客が来たんじゃ、そっちをもてなすのが先じゃろう!」

「……鳩が上客ですか」

「鳩は珍しいんじゃっ! ナーガ・チェスには十羽しか生息しとらんのじゃ」

「鳩の糞が問題になって処分されたんでしょうが。もてなすより追い払うべき存在でしょう」

「しっ……幸せを運ぶ鳥だぞ」

 ……それはコウノトリとか他の鳥の話じゃないのか。

「虫と雑草の種も運びますよ」

「ちっ……。不要なものは海瑠、お前のような奴の所に全部行けば」

 ゴアーン

 とても響きのいい音がして鳩が慌てて羽ばたいて逃げ出した。

「ボウルの固さはいかがですか店長。とてもいい音がしましたよ。まったく、仕事をしろと何度言わせる気ですか」

「だからといって叩く事はないじゃろう!」

「では」

 にっこりととっても優しく笑ってさっき縦に振ったボウルを再び振り上げて首をすくめた店長の頭めがけて今度は思いっきり投げつけた。

 ゴイィィィィィンン

 長い響きとともに店長が頭を抑えて悶絶する。

「叩くなという事でしたので」

「な……投げるのも……無しだ……!」

 海瑠さんは満足そうに厨房に戻っていった。海瑠さんは怒らせないようにしよう……うん。

 しばらくしてラーメンが器に注がれるとるとろとはねるような音が聞こえてきて、カカカカっと何かを刻むような音がした。それからどんぶりを両手に持った海瑠さんが厨房から出てくる。

「はい、店長。こっちは修徒」

 軽く頭を下げてからいただきます、と手を合わせる。店長は赤っぽいラーメンを前にさっそくぱきんと割り箸を割って嬉しそうに目を細め待ちきれないとばかりにずずりとすすりあげた。熱そうにはふはふしてごっくん。噛めよ。幸せそうな表情が一瞬で固まった。

「ぶ、ぶへっ!」

「うわ汚っ!」

 店長がいきなりラーメンを吹いたので即刻自分のどんぶりをテーブルから避難させる。ナイス僕の反射神経。持ってると火傷しそうなので別のテーブルにとりあえず置いておく。

「一号水くれ水!」

 指示されるまでもなく海瑠さんが水を持ってくる。コップをひったくるように取り上げて一気にあおる店長。そして

「ぶへっ」

 また吹きやがった。

「海瑠、お前……。確かに辛くしろとは言ったが。唐辛子、どれだけ入れた?」

「かるく大さじ10杯ぐらいですね」

 多すぎますね。それコップに半分ぐらいですね。

「水も変な味がしたぞ」

「辛かったようなので甘くしたんですよ。溶けるだけの砂糖が入ってます」

 ひでえ。

「……」「……」

 にらみあってしばらく沈黙。それから二人そろって僕に注目。そして口をそろえて

「掃除よろしく」

 ……えええ……。僕は何もしてないんですけど。



 昨夜些細ささいなことで口論になりそのギスギス空気を引きずったまま開店してしまいあの状態になったらしい。とんだとばっちりだ。あくびまじりにボーッとしながらテーブルを拭いた布巾をしぼる。あーもう、いい大人がなに子どもみたいな喧嘩してんだよ。

「そうだ、修徒君。明日お休みね」

 厨房から顔を出した海瑠さんが突然そんなことを言うからクビにされたかと思った。

「もっと早く言えれば良かったんだけど。急でごめんね」

「いえ」

 慣れてきたとはいえなんとなく疲れが溜まってきてるのかなと思ってたところだ。ちょうどいい。昨日だって布団敷き終わるまで待てずに寝てしまったわけだし。

「修徒君旅行者だっけ。せっかくだし博物館行ってきたらどうかな。好きそうだし、あそこはナーガ・チェスのことも他の都市のことも色々わかるだろうからおすすめだよ」

 博物館か。俄然がぜん興味を引かれて身を乗り出す。あちら側でも博物館に何度か連れて行ってもらったけど、珍しいものがたくさんあって楽しかった。見慣れないものだらけなこの都市の博物館はいったい何が展示されているのだろう。他の都市の展示もあるなら、もしかしたら。

「今日もらえる給料で運賃も入館料も十分足りると思うから行っておいでよ」

「はい」

 というわけで従業員室入り口で寝息をたてている店長を振り返る。

 さっきテーブルを拭いた布巾が広げられて店長の太鼓腹の上で干されている。海瑠さんは僕に耳を塞ぐように指示して近くに落ちていた金属バケツを拾い上げてトンカチを手に取り

 ベコッバコッベコッ!

 期待した響きのいい音ではなくて何だか残念なしょぼい音がした。しかし店長の反応は抜群でお許しをとか何とかすごい音量で叫びながら飛び起きて部屋の隅までダッシュしてうずくまりそこでようやく正気に戻ってむっつりと海瑠さんを睨みつける。

「給料お願いします、店長」

「明日じゃ明日」

「修徒君明日休みですから」

 言いながら従業員室に上がる海瑠さん。手にはあの重たい中華鍋。

「ふむ。ええと、1、2、3……三日分か……っておい! 払う! 払うからそれおろせ払う払う払うぎゃーーーーっ!」

 グォーン

「すみません。勢い付いちゃって止まりませんでした」

「嘘つけお前の分は無しだ! ほら、一号」

 金貨が2枚飛んで来た。海瑠さんがよかったじゃん、と耳打ちしてきたので結構もらえたのだろう、これで。ありがとうございます、と頭をさげてポケットに突っ込み、エプロンを脱ぐ。そろそろ帰る時間だ。

「お疲れさま。またあさって。明日は気をつけて」

「はい。ありがとうございます。行ってきます」

 失礼します、と二人に頭をさげて店を後にする。裏口から出てすぐに走り出した。

 手がかりが見つかるかもしれない。元の場所に帰るための。博物館に行けばきっとアンドロイドのことも何かわかるだろう。どこから向こうに戻れるか、展示物を見れば誰かわかるかもしれない。

 ……あれ。

 何かおかしい気がして足が止まる。アンドロイドが原因であっちとこっちがつながって、それに巻き込まれて僕等はこの世界に来ちゃったんだよな。じゃあもう一回つなげてもらえば帰れるんじゃないか。ちょうど今ジョセとロブが居る。二人につなげてもらえば帰れるのに、僕はいったい何をしているのだろう。ああそうか、戻ってもまたつながって再びこの世界に迷い込むんじゃ意味がないからその防止のためにアンドロイドを全部消しちゃおうって。そう言う話だったっけ。

 違う。そうじゃない。僕はただ帰りたいだけじゃないんだ。何かをしたいんだ。しなきゃいけないんだ。何を……? わからない。わからない。違う、違う。たぶん僕はわかっている。わからないフリをしているんだ。僕は自分に嘘をついている。僕は自分に騙されているんだ。本当の事、信じたくないから。

 だんだん自分でもわけがわからなくなってきてとりあえず考えるのをやめる。とにかく今は明日の事だけ考えよう。そのうち僕は自分に騙されなくなるだろうから。



「ただいま」

「お帰りー」

 玄関から中に入ってすぐに黒いマントの大柄な男にぶつかった。失礼した、と一歩さがった相手を見上げてなんだロブか、と息をつく。アンドロイドだ、と思ったからつい警戒した。僕とすれ違うようにジョセもロブと一緒に外へ出て行く。

「どこ行くんだい」

「アンドロイドの集会だって」

 ふうん、と戸の向こうに消える背中を見送る。集会するほど数が居るのか。……今晩も外に出ない方がいいんだろうか。

 外は夕暮れとはいえまだ明るい。堂々と道の真ん中を歩いて行く姿は黒い服を着た普通の人みたいで、殲滅せんめつされたことになっている存在とは思えない。普通に人にまぎれて生活していて、道行く人が特に気をとめることもない。公正はどうもそれが理解できないようで、不安げに背中をにらみつけていた。

 焼き魚が配られたテーブルにご飯がよそわれたお茶碗を配りに行く。あれ、これどんぶりだ。喜邨君だな……。

 席について揃っていただきます、をして早速ほうれん草のおひたしに手を伸ばした。おお、甘くてうまい。こっちの煮豆もいいな。さすが明日香。……じゃなくて。

「明日僕バイト休みなんだけど。博物館行ってきたらってお勧めされて行ってみたいんだけど行く人いる?」

 ふらっと公正の手があがる。今日破きょうはも小さく挙手。

「え、公正たちはバイトあるだろ……。喜邨君も」

「ちょうど休み」

「俺バイトってか大食いで賞金もらってるだけだし。そろそろ新エリア開拓しないともらい場所なくなっちまうし、ついでに博物館近辺まわりてえ」

 明日香と昨日子きのこも「移民者就業時間制限」で働く時間が決められていて、明日から二日間休みだからと手をあげていた。

栄蓮えいれん縁利えんりはいいのか? バイトないだろ」

「いいよ。家のことやっとく。行ってこいよ」

「氏縞と曹はバイト?」

「そうさ。我輩は明日なんとしてもそこの無礼者に仕事ぶりで勝利せねばならんのだ!」

「勝つのは俺だけどな」

「何をお!」

 ……。七人か。運賃賄まかなえるかな……。隣で公正が結構遠いな、なんてつぶやくのでさらに心配になってきた。

「博物館までの列車は二駅だよ。七人なら運賃は金貨一枚で足りると思うよ」

 テツロウさんが口をはさむ。それなら往復分出せる。よかった。ほ、とため息をついたら自分の運賃くらい自分で出すからな、と公正に睨まれた。なんで怒るんですか。

「さて!明日のために今日の疲れを落とすぞ!今日こそ俺様が一番風呂をいただくぜ!」

「貴様に譲る一番風呂は無い! 我輩の後に入れ!」

「お前なんかに先に入られてたまるか」

 食事を終えた馬鹿二人がさっそく腹ごなしの口喧嘩を始める。お前先入ってこいよ、と縁利をつついたらまだお湯入れてねーよ、と呆れられた。そのままじぃぃと睨んでくる。わかったよ入れればいいんだろ入れれば。

 リビングを出て風呂場へ。脱衣所の洗濯物がきれいに片付けられている。冬人さんの失敗の後、明日香か誰かがちゃんとみんなの服を洗濯してくれたんだ。浴槽を洗って蛇口をひねるとしばらく錆の混じった赤っぽい水が出てきてしばらくして少しましな色のお湯に変わる。確認してから栓をしてしばらく見つめる。見ていてもなかなか水位が上がらないけれどちゃんと上のほうまでたまるのだろうか。

「わ」

 風呂場を出ようとした所で廊下を通りがかった公正と出くわしぶつかりかけた。公正は驚いた顔から僕の表情をうかがうような顔に変わってこっちの顔を覗き込んできた。

「何だい」

「……お前また何か逃げてるだろ」

「……は?」

 自分の眉間にしわが寄る感覚。いったい何が言いたいんだ公正。僕の反応に不満そうな顔でそのままじっと見つめる。なんなんだよ。居心地悪いんだけど。

「……なんでもない」

 目をそらしやがった。

「なんでもないって、なんだよ」

「なんでもないって言ったら何でも無えんだよ。訊くな」

「いきなり訳わかんないこと言ってきてなんでもないって、何なんだよ。むかつくんだよそれ」

「……。おまえさ、考えないようにして逃げてんだろ。だからあの時のことも忘れたふりして口にださねえし冬人に会っても何も言い出さないんだろ。知らないフリしてさ」

「……はい?」

 説明されても何言ってるのかさっぱりで変な声が出た。

「あの時って何、冬人さんと会ってって、どういうことだよ。僕昨日何かしたっけ」

「そういうと思ったからなんでもないって言ったんだ。お前は知らないかしらばっくれる。この会話終わり、もう訊くな」

「ちょ、おいちゃんと説明……」

 何か僕が悪いみたいな言い方で腹がたったが引き止める前に公正は男子部屋を通り過ぎ、トイレに入ってしまっていた。トイレのドアを軽く蹴飛ばす。反応はなかったがそれでせいせいして、僕はリビングに戻った。



 はーー……。

 長めのため息をついて天井からぶら下がった豆電球を見上げる。学校の理科の実験で使ったそれよりはずっと大きく明るいので、じっと見ているとくらくらしてくる。布団にかぶせているシーツを少しずらして目の上まで覆う。曹と氏縞のくだらない口喧嘩を聴覚からシャットアウトしようと寝返りをうったけどそういえば耳は頭の両側についているので右を向いても結局よく聞こえるのだった。しかも枕固くて寝づらい。もう枕要らない。

「電気消すぞー」

 今日破の声にオッケーやらよろしくやらそれぞれの返事があってぱっと目の前の風景が消失する。みんなより早く眠くなりそうだったので布団に入ったのに結局眠れず消灯に合わせて目を閉じることになった。喜邨君が公正と何やら弾んだ声で話すのが聞こえる。また食い物の話かと思ったけど意外にも展示物の話で、喜邨君も楽しみなんだなと思った。遊びに行くって感じじゃなさそうだけど。

 朝起きたらみんな居て、昼はバイトか時々他の人と出かけたりして、みんなで夕ご飯食べて特に中身のない話をして風呂に入る順番を全力で争ってみんなで雑魚寝。ずっとこんなふうに暮らしていけたら、とふと思った。このままこの街に家を借り、そこでみんなで一緒に生活できたら。

 ……そういうわけにはもちろんいかないのだけど。喜邨君や氏縞や曹は向こうに帰らないと。家の人が待ってる。僕は?

 顔を思い出せないまま母さんを思い浮かべる。寝坊した僕を口うるさく叱りながら起こして学校にギリギリでも間に合うように送り出してくれた。帰れば手伝えとまた怒るけど毎日夕飯作ってくれてて、でも創作料理中心なので時々びっくりするような味のものもあって。

 帰りたい、のかな。布団の中で首を傾げる。いまいち実感がない。思い浮かべる母さんとの思い出が本で読んだか夢で見たか遠く遠くにあるようで。

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