シルクス!!

雪野ユキノア

序幕 迷子の紙風船

 これではまるで心ここにあらずで、ならば俺の心はいったいどこにあるのだろうか。



 探しても手元には見当たらない。きっと、身体と繋がる凧糸一本で、自分の後ろの中空あたりを、ゆわりゆわりと漂っているのだろう。


 生まれる大きな感情は、送るにも受けるにも、凧糸一本じゃまったくもって心もとなくて、ノイズだらけの糸電話方式じゃ心の動きがてんで身体に反映されない。生意気な上に、これで無愛想まで追加されてしまったのだから手に負えない。


 けれど、こうなることで、ほんの少しだけ、一欠片にも満たないだろうけど、あの人の辛さが分かった気がした。相手に伝わらないもどかしさとつまらなさ。


 最期には、もう意思疎通もあったもんじゃなくて、こちらからの一方通行だった。

 それでも、少しだけでも、心だけでも笑っていてくれたなら。


「ありがとな」


 色あせたベンチに並んで腰掛けている親父は、そう言って俺の頭に手を乗せた。落ち着きなく何度も跳ねる手を、邪険に振り払う。礼を言われる覚えはなかった。


「別に、二人で決めたことだろ」


「ああ、そうだったな」


 俺はこっちにいる。親父はどこかにいる。それが俺たちに出来る数少ない役目だった。

 そしてその役目も今日をもって終わりだ。薄情だが、ようやく終わったと思ってしまった自分がいる。下ろすつもりのなかった肩の荷が下りてしまった。ずっと背負ってもよかったのに。全然気を抜くと涙が滲み出すというのに。難しいものだ。


 ベンチの背にもたれかかり、しばらく空を見上げた。動いてるんだか動いていないんだか分からない雲を眺める。そんな雲を払いのけるように口から洩れ出るタメイキに気づき、逃さないように深く息を吸う。そうすると、先程までいたところから漂ってくる、微かな煙の匂いに気付き、目に染みた。


「どうすんだ、これから」


 そんなこと聞かれたってこっちが聞きたい。どうすればいいんだ。もうすっかり疲れ果ててしまった。知らない内に色んなものが零れ落ちていたのかもしれない。俺はいつの間にか上手く笑えなくなった。上手くというか下手くそな笑顔すら振りまけない。


 笑顔こそが俺たちの商売で、それはどうしようもなく致命的だ。そんな人間が、どうして舞台の上で誰かを笑わせられるだろう。

 いっそ、なんだか笑顔というものがひどくズルく思える。少しくらい分けてくれても良かったじゃないか。お前らはつまらないことで笑えていいよな。

 なんて、笑えない考え事をしているといつも終着駅は恨み言駅だ。

 だから、途中下車してそのまま目をつむってしまう。答えはいつもの自問自答と変わらない。


「さっぱり分からん」


 いっそうベンチに体重を預けそう答えるしか出来なかった。


 俺は最近、少しだけ高校生をやってみていた。そんなに毎分毎秒顔を見てても仕方ないと、渋る俺を母が無理矢理通わせた。

 高校生活を送ってみたいという気持ちが無かったと言えば嘘になる。だけど実際やってみると、どうにもしっくりこないというか、うまくいかないというか微妙というか。座りが悪かった。


 これまで何十回も転校してきた。人気者になるなんて当然のことだったのに。今の学校には自信を持って友達と呼べる人間は一人もいない。

 勉強だってそれほど得意ではなくて、高校で初めて受けたテストの点数はそこそこ酷かった。入学出来たのすらダイスの女神が微笑んだからだ。

 クラブだって時間的にも精神的にも入ってる余裕もなかったし、今から入るっていうのもなんだか違う。

 つまり、学校にこのまま通いたいかと聞かれると頗る微妙だ。でも帰って商売の手伝いをするかと問われると、俺がいても邪魔になるだけだ。


「あーあ、何もしたくねえぁ……」


「重症だなぁ」


 それはそれは大層呆れた目を向けてくる。いつだったかの、馬鹿な酔っ払いを警察に引き受けに行ったときもこういう目をしていた。


「よし分かった。働きたくないなら学校行ってろ。ガキはガキのうちに遊んどけばいいんだ」


「なんだよ、親父は遊んでたのかよ」


「遊べなかったから言ってんだろうが」


「部屋を一人で占領したいだけだろどうせ」


「バレた?」


 バレバレの嘘を自分でも嘘と忘れたかのように簡単に吐く。こういうところは親子だなぁと嫌々実感させられる。

 まあどうせ向こうに戻っても、状況は変わらない。俺はまだ飛べず、そんな状態で飛んでる人間を見ることは結構辛かった。だから逃げ出して、母と一緒にこの街に来た。

 けれども、コトが落ち着いて再び飛べるようになったかと言われると、それどころ飛べない理由を増やしてしまった。


 もしかしたら、もう戻ることはないのかもしれない。あの眩しい狂騒の中には。

 そんな風に、ここ数日は考えていた。

 親父も分かっているはずなのだが、それでも寄越したのはこんな言葉で。


「帰ってくるときは笑って帰ってこい」


 もう一度俺の頭をくしゃくしゃにかき回した。ガキの頃はよくされていた。失敗して泣いていたとき、こんな感じだったっけ。


 戻れたらいいな。


 子どもみたいに、ただそう祈ってみた。


「……やっぱ一人は寂しいからよ」


 母さんはもう帰ってこない。一緒にあの狭いトレーラーハウスに帰ろうと、出発の日に交わした約束はもう果たせない。


 ちっちゃいちゃぶ台に広がる料理を三人で囲んだことや、洗濯物を三人で干す日の青空や、自分用の寝床を欲しいと文句を言いながら三人で並んで寝ていたこと、三人で手を繋いでステージに立ったこと。


 そんなことを思い出してしまう。そんな思い出の中に親父が一人で立っていることを思ってしまう。そうなるともう駄目だった。


 ここの上にある火葬場から漂う、母さんが消えていく煙の匂いが、やはりどうしても目に染みて、親父と一緒にしばらく泣いたのだった。

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