第44話 殺生石 其之十一
とうとう殺生石を乗せた輿が、白い大地で作った台に乗せられた。
人夫たちはやり切った笑顔でいっぱいであったが、これからが本番だということも弁えており、全員が声一つあげず騒ぐことはなかった。練達もここまでくれば立派なものだ。
思い起こせば、小三郎が常に微調整をしてくれていたおかげで、輿はいつも平行が保たれていた。輿の中を覗くまでもなく殺生石はお堂にあった時と同じ姿のはずだ。そして、驚嘆するのは、安隠寺を出発してから長い長い道のりを経たにも関わらず、未だに輿に傷一つない事だ。荒れた山道、狭い切り通し、雨、風と困難は無数にあったが、それらを物ともせず運び切ってくれたのだ。
これほどの仕事を完璧にやり遂げたこの人夫たちは賞賛に値する。今すぐ労いたいところだが、私はこれから九尾の狐を祓うという大仕事がある。それをやり切る事で彼らに応えたい。
私は最後の祓いの儀式へと心を切り替えた。
まずは、この輿から殺生石を取り出す作業だ。
「では、皆様。これから私は殺生石を祓う儀式に入ります。手順は先日お伝えした通りです。よろしくお願いします」
「分かった」
小三郎が低い声で答えると、人夫たちの顔が再び引き締まった。
その間に、弟子たちは手早く道具を置く台を作り、その上にこれから必要になる呪具を置いていった。最後に、焉斎が儀式が滞りなく進むよう、使いやすい位置に呪具を配置した。今回の儀式は焉斎が儀式の補佐を務める。彼の緊張も相当なものだろう。
焉斎が納得した顔をしたので、弟子たちはお互いの顔を見合わせて全員で頷いた。来るべき本番に向けて呪具の用意は完了したようだ。
次はいよいよ殺生石の用意だ。人夫もいよいよ緊張してきたように見える。まずは、殺生石を取り出せるようにしなければならない。私は弟子たちに「では、結界を緩めます」と呼びかけた。
弟子たちは若干緊張気味に「はい!!」と返事をした。
先ほどの怪異にも対応できたのだ。自分たちの実力を信じ、弟子たちには自信をもって臨んでもらいたい。
「焉斎はここに」
「はい」
私はゆっくりと輿の前に立った。同時に焉斎も私の横に立った。
焉斎以外の三人は三角形を作るように輿を囲んだ。
輿の中には九尾の狐の存在を感じる。魂は落ち着いているので、危険を感じているものの、輿の外がどうなっているのかは分からないのだろう。
最悪、九尾の狐を道連れにしてでも祓うと心に決め、私は先陣を切ってゆっくりと真言を唱えた。弟子たちがそれに続く。九尾の狐との因縁は、ここで確実に断ち切らなくてはならない。その思いを真言にぶつける。いつもよりも真言に気が乗っていると感じる。
暫くすると、白い大地から漂う死の空気感に生の空気感が混ざってきた。この場に祓いの場が出来てきた証拠だ。
私たちの出す気が輿の周辺を包みこみ、簡易ではあるが禁足地が形成されてきている。それに加え、先ほどのように各自がお札を持ち、そのお札に霊力を込めている。
「焉斎。角に木をお願いします」
「承知しました」
焉斎は設置された台に置かれた檜の棒を四本取ると、輿を乗せた台座の角に一本ずつ棒を立てた。
「では、皆さん。棒にお札を付けてください」
四人の弟子たちは、それぞれのお札をその木に貼り付けた。これで四枚のお札が輿を囲み、結界がさらに強化された。
焉斎以外の三人は、輿の中点を囲む隊形を取った。これで輿の四隅のお札で正方形型の結界を、私と弟子たちで菱形の結界を配置できたことになる。
こうして結界も完成したので、私は最後の仕上げに入った。
曹洞の悪魔祓いの経を唱える。その力を上げるために、弟子たちも私に続いて経を唱えた。
あのお堂では、この経をずっと唱え続けた事で九尾の狐の封印を成し遂げることができた。ここも同じように何度か唱えていれば、禁足地が更に安定してくるはずだ。
私を含めて五人が経を唱えているのだ。その効果は間も無く出てくることだろう。
全員で経を唱えていると、薄らと台座の周辺の空気が安定してきた。これほどすぐに効果が出てくるとは思っていなかったが、弟子たちの練る気が私の想定よりも大きかったということだ。
こうして、更に結界が強化された。
経は三巡し、すでに小さな神社の封印くらいには結界が強くなっているが、もう少し強くしたいと言うのが本音だ。相手は九尾の狐。前にも思ったが、本来なら天照大神を封印している伊勢神宮並みの結界にしたいくらいなのだ。
長い経を読み続けること五度目。私はこの結界に手応えを感じた。
この結界ならば祓いの儀式にも耐えられる。
「では、小三郎どの。我々が輿の結界を緩めます、その後、速やかに殺生石の取り出しよろしくお願いします」
「分かった!!いくぞ!!」
「うっす!!」
小三郎と人夫たちは台座の周りを囲んだ。
私と弟子たちも慎重に少し輿へと近づいた。今のところ九尾の狐の様子に変化はない。
それではと、私は弟子たちに目をやった。弟子たちは頷き、輿の真横まで進んだ。
まずはお札を外す作業だ。
私が真言を唱える中、焉斎と円来が、輿の周りの注連縄を解いた。注連縄を照海に渡すと、照海はその注連縄を素早く台に置き、燕相がその注連縄を清められた袋へと入れた。
注連縄が外れたことで、一気に九尾の狐の黒い気が噴出し、肌がビリビリと刺激された。
それでも慌てずにお札を外す作業に移る。今回は弟子がいるので効率良くできる。
私は輿から一歩後退すると、燕相からお札を受け取った。それを掲げ、私が真言を唱えると、急激に九尾の狐の黒い気が輿に押し込められ萎んでいく。それを感じ取った焉斎、円来、照海、燕相が、輿に貼られているお札を同時に剥ぎとった。
また少し九尾の狐の黒い気が上がったが、私が真言に集中できている分、黒い気は完全に抑え込めている。
輿に施した結界が剥ぎ取られたので、今度は人夫たちの出番だ。
お札を持った弟子たちが輿を離れ、お札を台に置いた。
「では、小三郎どの。お願いします」
「いくぞ!!」
「うっす!!」
いつもの号令で気合いを入れると、小三郎たちは輿を囲んだ。
まずは、小三郎が音頭をとって人夫たちが慎重に屋型を外した。輿から屋型が外れると、あの真っ白な殺生石が姿を現した。久方ぶりに見る殺生石は陽の光を浴び、透き通るような白さが眩しい。これに気高さすら感じるのだから、悪とはいえ頂点にいる者は凡人とは何かが違うのだろう。
石の形は相変わらず立派な山のような形をしており、お堂で見た姿と寸分違わない姿であった。
この立派な佇まいをもう少し見ていたかったが、残念ながら時間がない。
輿から少し離れたところに敷かれた茣蓙に屋型が置かれると、今度は輿の下段から殺生石を持ち上げる作業だ。
殺生石の周りを、十六人の人夫全員が囲んだ。輿をずらす為の人員と殺生石を持ち上げる人員に分かれ、万全の態勢で最後の作業へと入る。
「これから殺生石を持ち上げる。用意はいいか?」
「うっす!!」
持ち上げ要員から元気な返事が飛んだ。
「うっし。行くぞ!!みー、ふー、ひー…それ!!」
人夫は十人がかりで殺生石を持ち上げた。お堂にあった時の倍は重くなっていたが、人夫たちは殺生石をゆっくりと確実に持ち上げた。下にはしゃがんだ人間が通れるほどの空間ができた。
歯を食いしばりながら小三郎が号令を出す。
「よし!!輿を引け!!」
輿の周りに立っていた六人の人夫がしゃがむと、輿の持ち手を肩にかけた。「ひー、ふー、ひー、ふー」という掛け声を合わせ、六人の人夫たちは、しゃがんだまま歩いて輿を運んで行った。
それを見た円来が、退魔の紫布を殺生石の下に敷いた。
「下すぞ!!」
小三郎がこれ以上ないくらい気合いを入れて叫ぶ。「うっす!!」と更に気合の入った返事があった。もう全員が血管が切れそうなほど顔が歪んでいる。
それでも人夫たちは、誰一人慌てることなくゆっくりと殺生石を紫の布の上に下ろした。
殺生石を置いた瞬間、人夫たちは声にならない雄叫びを上げた。このためにここまで頑張ってきたのだ。全員が目を血走らせ荒い呼吸で拳を固めている。力も入るというものだ。
しかし、彼らは騒ぐことなく結界から素早く出ると、我々の後ろへと回り整列した。
小三郎はこの難しい仕事を完璧にこなしてくれた。感謝の他ない。小三郎は、見込んだ以上の男だった。
後ろを向いて、上気して真っ赤になっている人夫たちに頭を下げ、私は最後の作業へと入ることにした。
九尾の狐を威圧せんと、私は殺生石に向けてありったけの気を放った。気持ちで負ける訳にはいかない。殺生石も負けじと黒い気を吐いてきた。敵も然るものだ。しかし、敵の気にもう勢いはない。
両手の指を組んで手首を回す。手首がほぐれたところで焉斎へ声をかけた。
「焉斎。あれを」
「はい。分かりました」
焉斎は静かに返事をし、懐から小刀を巻いたような布を取り出した。
その中にあるのは、出雲の地で創られ、杵築大社で清められた特製の金槌だ。今回はこれを使って殺生石を砕き、少しずつ九尾の狐の魂を削って祓うのだ。
私は布を解き、金槌を取り出した。金槌は初めに見た時よりも遥かに輝いて見えた。より洗練されたとも言える。
少し触っただけで黄泉の国を治める大国主の神気に覆われ、この日の為に祈りを捧げてくれた焉斎の気が満ちているのが感じられた。
この金槌であれば、必ずや九尾の狐を祓えると断言できる。
神に近い妖を祓うには、こちらも神を味方につけなくてはならない。
私は仏僧であるので、本来なら菩薩の力を借りるのが筋ではあるが、この日本という国においては、仏の力よりも国津神の力を借りるべきだ。大国主は、元々日本に住み、この国を造ったとされる神だが、天皇家に戦争で敗れて殺された。そして、怨霊にならないよう出雲の地に封印された。封印と同時に厚く祀られたこの神が天皇家に力を貸すかは微妙だが、日本の民にはこうしてその大きな力を貸してくれる。どこまでも優しい神だと思う。
それに、出雲の玉鋼は特別で、鉄の質も群を抜いている。その昔、朝廷が出雲の地を真っ先に侵略したのは、この鉄があったからに他ならない。
その大国主の神威を帯びた出雲製の金槌に、我々人間の気を入れ続けたものがこの金槌だ。
私が焉斎にお願いしたその日から、焉斎はこの金槌を肌身離さず気を注入し続けてくれた。そして、焉斎はこの金槌に膨大な量の気を溜めてくれた。これだけの気があれば、私が使う気の量をかなり減らすことができる。長丁場の祓いにおいて自分の気の消費が抑えられるのは、非常にありがたい。余力がなくなってしまえば、祓うものも祓えないからだ。
源翁は、この金槌に自らの気を送った。
これからよろしくという挨拶だ。金槌は私の気に反応してぶるぶると振動した。どうやら期待に応えてくれそうだ。
弟子たちは、それぞれが四隅の棒の前に立ち、今か今かと儀式が始まるのを待っている。
私は殺生石へと一歩踏み出した。心を落ち着かせる為、立ち止まって今一度周りを見た。
見るほどに荒涼とした場所だ。
この真っ白な丘陵地には、人も動物もいない。こんな殺伐とした場所に好き好んで来る物好きもなかなかいないので、万が一のことがあっても他の地よりは安心だ。そして、この場所なら、万が一祓いの余波で土地に副作用が出ても被害は最小限だし、数百年経った後でもここに人が入って来る可能性は低い。
この地は、それほどに生命の香りがしない。形容するなら、全てが消失した大地といった所だ。
『獣狩り』は、普通の大地であったこの地を、どうやってここまでの状態に変容させたのだろうか?
分かっている範囲では、『獣狩り』は武器を手足のように使える上、軍師の如き戦術眼を持ち、呪術や気の術式をも使ったと言う。しかし、ここを見る限り、彼らの力はそんな生やさしいものではない、人間には及びもつかない強い力を持っていたはずだ。この白き大地は、人間の能力では決して出来ない。
その『獣狩り』を創り上げた陰陽寮は、『獣狩り』を今に受け継いでいない。
有重の言葉を借りれば、『獣狩り』となった人間が、その強大な力を使って朝廷の敵に回る事を防ぐ為だったという。しかし、『獣狩り』と言う名称は、その余りの強さに巷にも伝説として残った。朝廷がどんなに隠蔽しても残ったのだから、それだけ圧倒的な力があったということだろう。その隠蔽が過ぎて、実際彼らがどんな事ができたのか、そして、どのようにすれば『獣狩り』を創れるのかは、残念ながら今の陰陽寮に伝わっていない。
陰陽寮は、少しでも参考になる文献が見つかれば、それを後世に受け継がせるべきだ。そうしなければ九尾の狐のような強力な妖が現れた場合に対処できない。かく言う私も、これを契機に受け継がれるべき『業』を残さなければいけない。
やらなければならない事が山積みだ。人生五十年と言うのに、これではいつまで経っても隠居できない。
さあ、もう祓いに集中しなければ。
殺生石の前に立ち、私は再び悪魔封じの経を唱えた。その音に重ねるように弟子達も同じ文言を唱え始める。
風が騒めいた。金槌が更に震えて鳴動する。九尾の狐も殺生石の中で黒い気を吐き続けている。また結界内が黒い気で覆われてきた。
私は宙空で一回金槌を振った。その金槌の通った軌跡に沿って闇が祓われた。やはり金槌にして良かったと思う。
もう一歩殺生石に近づくと、金槌が眩く光った。その瞬間、私の中に何かが入ってきた。それは九尾の狐でもなければ、怪異でもない何かだった。
気がつけば、私は二百年前のこの地を見ていた。
これは夢ではない。日本の行く末を案じた二百年前の誰かがこの土地に宿り、私にその時の様子を見せてくれているのだ。『獣狩り』に従っていた重臣の思念ではないかと推測する。
驚くべき事に、この那須の地には、同じ場所とは思えないほどの緑があった。大地には茶色い土があり、雑草などの緑も抑え目だが結構生えている。所々に密集している落葉樹の葉がヒラヒラと落ちているのが見える。その葉は赤い色が目立つ。季節が秋から冬なのだろう。夢見心地で、寒さを一切感じないので、季節がどちらかは分からない。
「まったく人数が多ければ勝てると思っているのですから、人間はお間抜けですね」
唐突に、私のすぐ横で九尾の狐の声がした。
驚いた私は思わず身構えたが、九尾の狐は、何故か私には気づいていない。
やはりこれは夢なのだろうと理解して、私は続きを見ることにした。
九尾の狐は、やる気無さそうな眠い目をして、指を動かし呪文を唱えると何かの術式を放った。少し離れた場所で焼き栗が破裂したような音がして、何かが吹き飛んだ。よく見れば、吹き飛んだのは多くの人間だった。今の爆発で相当数の兵士がやられたようだ。
どうやら九尾の狐は、ここで人間の大軍と戦っている。
人間達は、刀や槍といった武器を片手に突っ込んではくるが、何ができるという訳もでもないので、九尾の狐の術の前に手も足もでない。突っ込んできては術式に弾き返され、次々と命を失っていく。
「人間とは、げに弱々しい。ククク」
九尾の狐は薄笑いしながら手で口を隠し、あろうことか欠伸をした。余りに非力な人間との戦いに飽いたようだ。実力差がありすぎて張り合いがないのだろう。
この九尾の狐は実体を持っている。二百年前はこのような姿をしていたのだ。
九尾の狐は顔こそ狐だが、人間と同じように二本足で立ち、それこそ京の貴族が着ていそうな服装をし、小粋に小袖を羽織っている。これを見て、玉藻前の姿を借りたのは偶然ではなく、心は女性なのだと納得した。全身を覆う毛は真っ白でふわふわしており、まるで元国の綿のようだ。後ろには大きくて長い尻尾が九本見受けられる。
人間達は一矢報いようと、人数をかけて九尾の狐に突っ込んでくる。
九尾の狐は仕方ないと言った感じで、またしても見たこともない妖術を放つ。地表から何本もの火柱が噴き出て、今度は数百人の武士達が一瞬で黒焦げになった。それでも怯まなかった勇敢な武士が数人突っ込んできた。すると、どこから出したか、綺麗な竹細工の扇子を振り翳した。刹那、おりんが使ったようなかまいたちが武士達を襲い、全員が真二つに切り裂かれた。
九尾の狐は高笑いした。
それを見た武士達の一団が怒り狂って突っ込んできた。しかし、九尾の狐にたどり着く前に、横から振り下ろされた大きな鉄製の杖に叩き潰されてしまった。見れば、九尾の狐の部下が数体いる。彼らもまた妖術を使い、遠くからの矢も寄せ付けず、人間をどんどんと狩っていく。
戦場には人間の屍だけが転がり、妖たちの損害は微塵もない。これでは戦いにならない。
やがて、朝廷軍は我先にと敗走し、完全撤退を余儀なくされた。
戦場には九尾の狐とその部下達の勝ち鬨が響いた。人間側の完全なる敗北だ。
すると、場面が転換した。
紅葉していた木々が青々としている。どうやら春になったようだ。場所は…やはりこの場所だ。
今回も数万の軍がこの地へと入ってきた。人間の軍隊は丘の遥か下まで続いている。
前回と違うのは、異形の武将が三人いるところだ。その異形の三人が先頭を馬で行進している。その後に一列下がって陰陽師が一人いた。
三人の異形の武将は武具を身につけ馬に乗っている。身体の殆どの部分は人間と同じだが、頭や手などが人間のそれではない。鷹のような目で手が鉤爪のように変形している者、狼のような耳が髪から覗き、目も狼のように吊り上がっている者、三角形の顔に大きな目をして手が鎌状になっている者と三人が三人、とても人間には見えない見た目となっている。
正直な感想を言わせてもらえば、三人はもはや違う生き物に見える。
その三人の武将と陰陽師が、この地に君臨する九尾の狐と対峙した。この三人の武将が音に聞く、三浦介義明、千葉介常胤、上総介広常で陰陽師が安倍泰成だろう。
馬に乗り、狼の顔をした武将が、大きな刀を抜いて一歩前に出た。
「我は上総介広常。この地を平定する者なり。いざ、尋常に勝負!!」
よく通る声で九尾の狐に宣戦布告した。
しかし、当の九尾の狐は腹を抱えて笑った。
「前回何も出来ずに逃走した武将達か。そんな動物の顔をして来ても何も変わらないよ。まあ、精々頑張りたまえ」
九尾の狐の後ろに控えている部下達も大笑いしている。
「では、この力、存分に味わうがいい」
三浦介義明と思われる人物が、見事な動作で馬を降散り、巨大な弓を構えた。そして、その鷹のような目で狙いを定め、渾身の一矢を放った。矢は風のような速さで九尾の狐の部下の一人を貫いた。フクロウのようなその妖は、苦しそうに呻くと、その場に倒れた。
とても人間業とは思えない高速の一撃を見た九尾の狐の目に怒りが満ちた。
「貴様、許さぬぞ」
九尾の狐は口角を上げ唸りながら言った。鋭い犬歯が見える。
「殺せ!!」
九尾の狐が号令を発すると、どこからともなく現れた妖の軍団が人間の軍団に向かって行った。
いきなり全軍入り乱れての戦闘となった。
妖の軍団は九尾の狐によって鍛えられていた。非常に統制が取れており、怪しげな妖術を巧みに使い、人間の戦士などものともしない。所々で武士達が倒れているのが見える。
前線の武士たちは、成す術なく蹴散らされていった。以前であれば、このまま押し切られて終わったのだろうが、しばらく経つと、驚いたことに妖の軍団が押し戻されていく。異形の三人の武将の他にも、同じような異形の戦闘員が数名いて、彼らが疾風の如く妖の戦闘員を切り伏せていったのだ。
なるほど。音にきく『獣狩り』は三人だけではなく、複数人いたのか。私はその戦闘員達を注目して見た。確かに先ほどの三浦介義明の弓のような神技ではないが、人間にはない敏捷性と力強さがある。
これには流石の九尾の狐も面食らったようだ。妖よりも強い人間などそうそういるはずがないからだ。
「一旦下がれ!!」と九尾の狐が全軍に命じた。
しかし、陣形が一回崩れると、立て直すのは容易ではない。予想外に強い人間の武士達に、妖の軍団はどんどん駆逐されていった。そして、遂には人間の軍団が押し始めた。
こんな事があってなるものかと、九尾の狐は戦場を睨みつけた。
「あの力、人間にあらず。一体どのように…」と九尾の狐の顔が歪む。
「恐らく禁呪かと…」
巨大な熊の妖が九尾の狐につぶやいた。
「禁呪か。そんなものに手を出すとは、あいつらも相当追い詰められているな」
と九尾の狐が小さく言うのが聞こえた。
なんだか、妖の方がまともな事を言っているように聞こえる。いや、人間は禁断の方法で解決を図ったのだから、この場合は妖の言い分の方がまともだと言える。
源翁は少し考えた。
敵対するものがあれば、言い分は双方にある。どこからかやってきた天皇の軍勢が、問答無用に原住民である大国主を駆逐したように、人間は数を増やし、人間以外の存在を隅へと追いやった。動物も妖も人間達の領域が広がる都度、さらに奥地へと追いやられた。彼らからしてみれば、私たちの方が侵略者だ。話し合いが可能であれば解決策も講じられるというものだが、会話もできないので、そんな話し合いが持たれる可能性はない。
九尾の狐くらいになると会話ができるが、そんな経過があればお互いに納得するような話し合いができるとは到底思えない。であれば、どちらかが滅びるまで戦うという事になるだろう。
結論としては、妖達には悪いが、やはり、妖と戦う力を後世に残さなければならないということになる。この戦場を見る限り、彼らの言う禁呪を用いなければ瞬く間に人間は負ける。悲しいがこれは事実だ。
所々で妖側の幹部と『獣狩り』がぶつかり、一進一退の戦いを繰り広げた。
私は、この戦いの行く末を注視した。
『獣狩り』の三人の武将と一人の陰陽師が、妖の精鋭達を倒しながら本丸へ向かっている。
三人の武将達は一塊になり、少しずつ前進していた。千葉介常胤、上総介広常が刀で妖を切り捨て、その後に続く三浦介義明が弓で、安倍泰成が陰陽師の術式で妖を祓っている。この四人でずっと訓練をしていたのであろう。見事な連携と言う他ない。
四人は、九尾の狐を目視できる所まで来た。
突然、どこからか巨大な猿の妖が現れ、不意打ちで炎を吐き出した。しかし、『獣狩り』はそれも寄せ付けない。狼を憑依させた千葉介常胤が氷の盾を作って炎を跳ね返したのだ。炎は猿の妖を包み、自分の放った業火で焼けてしまった。
猿の炎に畳み掛けるように着物から顔から髪まで真っ白な女が現れ、広範囲に渡って強烈な吹雪を起こすと、少し離れた場所の武士達が次々に凍りつていった。ただ、『獣狩り』は女の冷気を軽く避け、凍らなかった。
すぐさま安倍泰成が炎の術式で氷を相殺した。氷が溶け、辺りが元に戻ると同時に、千葉介常胤が白い女の前に躍り出て、釜のようになった手で女を斬りつけた。女は恨みの籠った目で千葉介常胤を見たが、やがて息たえた。
信じられない戦いだ。
こんな戦いが現実にあったとは信じられない。
私と九尾の狐の戦いは、精神世界の中での戦いだった。これは、精神力と戦略の戦いだ。しかし、このような物理的な戦いでは、精神力などほとんど意味をなさない。戦い方が違いすぎるのだ。
とうとう、三人の武士達は、九尾の狐の目前に迫った。
九尾の狐も最早本気を出さないといけないと悟ったようで、自分の分身をたくさん作った。そして、その一人一人が真っ白な炎を吐き出した。真っ白な炎は、人間も地面も石も木も、ありとあらゆる命を奪っていく。あっという間に、この丘陵地は白い炎によって死の大地へと変遷した。二百年経った今でも、この白い炎によって奪われた命はもう再生しない。なんと恐ろしい炎だろうかと思う。
それでも先頭の三人の武将だけは、その炎を物ともせず前身を続けた。何せ炎を斬り、刀の斬撃で相手を切るのだ。もう、彼らを人間と言って良いのかは私でも分からない。そして、私は、『獣狩り』がどのようなものかを知らず、安易に有重に聞いてしまった事を恥じた。
陰陽寮も、この『獣狩り』が問題ない存在であれば、きっと育成を続けただろう。しかし、これを見れば、やはり彼らは二度と創ってはいけないと思えた。この戦いの後、安倍泰成が陰陽寮にある『獣狩り』の記録と創り方を闇に葬ったのだろう。あれを間近で見てはそうせざるを得ない。
但し、これを創り出した陰陽寮は、『獣狩り』を創り出した罪を認めなくてはならない。そうしなければ、こうまでなって九尾の狐と戦った『獣狩り』は浮かばれない。
どうやら、間も無く最後の対決のようだ。
九尾の狐の攻撃に耐え、全てを撃破した三人の武将達がとうとう九尾の狐の前へと出た。
一旦、術式を止め、九尾の狐は『獣狩り』を睨みつけた。
「小癪な、根絶やしにしてくれる」
「人間を舐めないでほしい。いざ尋常に勝負!!」
そう言うと、千葉介常胤が切り掛かった。
九尾の狐は炎、風、氷とあらゆる攻撃を繰り出したが、『獣狩り』の三人はそれらを躱し、時には凌駕した攻撃を繰り出した。一進一退の攻防は数時間続いた。これが神の領域というものなのかもしれない。人知を越えるとはこの事だ。
私は、その戦いを目にやき続けた。百聞は一見に如かず。これを見たという経験は、術や話しを伝承していく上で貴重極まりない経験だ。
見れば、お互いが身体中傷だらけで、もう術式にも力がなくなっている。
そこに一人だけ勝機を見出している武将がいた。三浦介義明だ。彼はずっとその時が着るのを待っていた。飛び道具は隙ができた時こそ有効な武器だからだ。肩で息をしている九尾の狐に気取られないように、三浦介義明は音を立てず、無駄のない所作で二本の矢を同時に番えた。
彼の鷹の目が怪しく光る。
残しておいた集中力で九尾の狐の急所を見抜いたのだ。そして、残った気を全てかき集め、あらゆる生物が避けられないと断言できる高速の矢を九尾の狐へと放った 二本の矢は独楽のように回転し、一瞬にして九尾の狐の首筋と脇腹を貫いた。あまりの事に九尾の狐でさえ何が起こったかを理解していない。
三浦介義明は用意周到に、矢を一定の速度で打ち続けた。だから、九尾の狐はこれ以上速い矢は来ないと勝手に思い込んでいたのだ。戦を左右するのは心理戦なのだとも思えた。
ようやく事の重大さを理解した九尾の狐はこの世のものとは思えない叫び声を張り上げた。矢を喉から外そうともがくものの、清められた矢はもう外れない。
疲労で動きが鈍っていた狼とカマキリの目にも希望の炎が宿った。
好機とばかりに千葉介常胤と上総介広常が一気に前に出た。慌てて九尾の狐を守りに入った妖達の幹部たちを、千葉介常胤が重い釜の一撃で九尾の狐から突き放した。
単独になった九尾の狐の前に躍り出た上総介広常は、巨大な刀を上段に構え、九尾の狐に振り下ろした。
静寂が戦場を包んだ。
九尾の狐はもう動かない。
すると安倍泰成が、前に躍り出て、九尾の狐を結界に閉じ込めた。
白い大地から急激に妖気が消えていく。
これを感じた他の妖たちも、もう勝ち目がないとどこへともなく逃走した。
ついに形勢を逆転した人間の軍団が追撃に入った。
そして、勝ち鬨が上がった。九尾の狐は人間の前に敗れたのだ。
しかし、私は見た。
九尾の狐の魂が身体から離脱したのを。身体に呪をかけ、九尾の狐の身体が触れた物は毒に汚染されるようにしていた。それを知らずに九尾の狐の遺体を引き摺った為、この地は白く死んだ大地になった上、毒を吐き出す死の地になってしまった。安倍泰成の判断で、九尾の狐はその場で焼かれ、その脇にに掘られた穴に放り込まれた。
こうして、この地は生物が住めるような環境で無くなってしまった。ただ、それが故に、不測の事態に備えた九尾の狐の祓いが可能になったと言える。
気がつくと、私は祭壇の前で経を唱えていた。
頭が少し混乱気味になったので、周りの様子を伺った。皆が緊張感を持って経を唱えているし、人夫達も食い入るようにこちらを見ている。要するに、あの幻影はほんの一瞬の出来事だったようだ。とんでもない幻影だったが、『獣狩り』の真実が分かった事で、今後数百年の備えが朧げに見えた。
いつも他の人間に感謝してばかりで申し訳ないが、私は、この幻影を見せてくれた二百年前の誰かに感謝した。全てが終わったら、彼らの碑を立てようと決心した。その前にやるべきことをやらなくてはならない。
私は、九尾の狐の祓いに集中した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます