第33話 過去編 源翁心昭 可毗禮山 其十二
源翁は、九尾の狐を祓う為、必死に退魔の経である妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈を唱えた。
長い文言を十数回繰り返した所で、私はお堂の中の空気が震えるのを感じた。
形而下の魂に何か動きがあったのかもしれない。そう思い、私は薄目を開けて目の前の九尾の狐の魂を見た。
祭壇の上に浮いている形而下の魂の揺れが、先ほどよりも少しだけ大きくなっていた。空気の振動を感じたのはこれが原因だろう。
そして、源翁の目はもう一つ重要な動きがあったのを見逃さなかった。
形而下の魂の中で混ざり合い揺蕩っている白と黒の魂の断片が、少しずつではあるが動き出していたのだ。この変化を見るに、私の思惑とは違った形になるが、対魔の経を唱え続ける価値はあると思えた。
よし。と、気合を入れ、私は更に経を唱えた。時間を忘れ、それは丁寧に何度も経を繰り返した。
形而下の魂は、振動の大きさこそ変わらないが、ずっと小刻みに揺れ続けている。
源翁は、形而下の魂が妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈に反応し続けていると判断し、経を唱え続けた。
もう夜なのか昼なのかも分からない。それを確かめるには、お堂の入り口を開けるしかないが、そんな事で形而下の魂を逃がしてしまってはならないので、おいそれとは開けられない。
それに、もう時間を気にしても仕方がない。
更に何度も経を唱え続けていると、突然、目の前が暗くなっていった。
どうした事かと祭壇を見れば、祭壇横の灯の油がなくなってきたようだ。火がチラチラと揺れ始め、ただでさえ小さな灯りが赤い点が見えるだけになってしまった。それから間も無く、お堂の中に灯の光がなくなった。
九尾の狐の魂は、少しずつ変化はしているが、未だ私の望む状態になっていない。そんな魂が目の前に在るのというのに、また光のない世界になってしまった。もう闇の恐怖は味わいたくないが、この作業を止めるわけにもいかない。
再びお堂の中が異世界になったように感じる。
人間は闇に対して恐怖を感じるようにできているに違いない。こればかりはどれだけ修行しようとどうにもならないからだ。先ほどの精神的な攻撃を思い出し、全身に鳥肌が立つ思いになったが、私は、経を唱え続けている限りは大丈夫だと自分に言い聞かせ、恐怖に抗った。
そうやって、ひたすら九尾の狐の魂に妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈を唱え、私は少しでも場を正常化させようとした。もちろん極力余計な事を考えないようにもした。
真っ暗な中、私は声が擦り切れるほど経を唱えた。
流石に喉が痛くなってきたなと思っていた時、ん?と思った。今確かに何かを感じたのだ。
それは、更なる空気の揺れだとすぐに気づいた。今までの揺れとは明らかに違う形而下の魂の揺れを私は感じたのだ。ここぞとばかりに、私は、経を唱えながら形而下の魂の様子を探る事にした。この魂が決して自発的に動く事はないと確かめなければならないからだ。
経を唱えながらも手印を作り、体内で成生した気を手に持ってきた。
手に溜まった気を形而下の魂に送り、彼の魂に意志がまだ残存しているのかを確認する。それを何度か試みた結果、形而下の魂からは一切の意思を感じないし、更に言えば意志を生ずる事もないだろうと私は結論付けた。断言はできないが、突然九尾の狐が蘇って攻撃される事もないし、魂がここから逃げ出す事もないだろうと思う。
ただし、油断はしない。
それでも、できるだけ素早くやれる事はやらねばならない。私は、経を唱えながら祭壇の横に走った。袋から灯明油を素早く取り出すと、祭壇上の空になっていた器に入れて紙縒りを浸し、火打石を打った。紙縒りに再び灯が点る。
真っ暗だった部屋に小さな光が灯り、形而下の魂が薄らと見えた。
魂の姿を見た瞬間、私は驚愕した。そして、このやり方が間違っていなかったのだと確信した。
もともと形而下の魂の中では、白と黒の魂が混ざって揺蕩っていた。これは前に分析したように、狂気と理性が混合したものだと思う。しかし、今はと言うと、その白と黒がハッキリと分かれ始めているのだ。狂気と理性が、妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈を唱えることで分かれ始めたのだ。宙空で水と墨汁が完全に分離するように白と黒を分けながら、形而下の魂は二つに分裂しようとしていた。それぞれ白と黒の球形へと形を変えていっている。
これを分けることができれば、かなり精度の高い封印ができる事になる。これは是が非でも成功させなければならない。
私は、この分裂を完全なものにする為、先ほど経を唱えた位置へと戻った。
封印への指標ができ
たのは大きい。先ほどまでの恐怖と疲れは、私の脳の奥底へと仕舞われた。
そして、私は、一心不乱になって妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈を唱えた。
「世尊妙相具 我今重門彼 仏子何因縁 名為観世音 具足妙相尊 偈答無尽意 汝聴観音行 善応諸方所 弘誓深如海…」
身体の水分という水分が外に出てしまったようで、もう汗もかかない。これほどまでに集中する事は、生涯もうないかもしれない。その集中のおかげで、次の数時間も経を唱えることができた。
形而下の魂は明らかに変化している。それを感じられるが故に、私の疲れもどこかへ飛んでいってしまってい、喉の痛みもほとんど感じなくなったほどだ。
すらすらと口から経が迸る。
あまりに心が研ぎ澄まされていくので、私は、何かに突き動かされているような感覚を持った。いや、考えてみれば、突き動かされているのだと思う。私が使命のために頑張っているのではなく、多くの御霊が私に力を貸してくれているのだ。そう考えないと、この切れない集中力と湧き上がる活力は説明できない。日本は霊の国だ。先祖の霊から怨霊までそれは様々ではあるが、あれほど多くの神社があり、数えきれないほどの霊が祀られているのだ。日本という国を無くしたくないと考えている霊が、私を応援してくれたとしても何らおかしい事はない。その中には九尾の狐にやられた者もいるはずだ。
私は、数多の霊に報いるために、経に集中しつつ、頭を次の作業へと切り替えた。
九尾の狐の魂を完全に滅する事はできない。そしてできるだけ長く復活しないようにしなければならない。頭の中で概ね納得できる計画が立ったが、どれだけ綿密に計画したとしても不測の事態というのは必ずある。それを含めても、封印は確実に成功させなければならない。
こうして、私は九尾の狐の魂をどう扱い、どうするかについて腹を決めた。決めた以上、あとは心を空にして経を唱えるだけだ。もうこれ以上考えることはない。
源翁は、目を瞑って経を唱える事だけに集中した。
———ついに、その時がきた。
形而下の魂が、完全に割れたと気で感じたのだ。
目を開け、祭壇へ顔を向けると、九尾の狐の白と黒の二つの魂が、それぞれ完全な球体に分かれているのが見えた。
完全なる白と完全なる黒。これほどまでに対照的な色を私は見たことがない。綺麗だと思う反面、あまりに純粋すぎて恐怖を感じる。
ここまで長かったが、これで狂気の魂と理性の魂を違った入れものの中に封印できる。
私は、石で造られた狐の像を祭壇の一番下の段に置いた。祭壇の上部にはあの御神体の岩がある。実に立派な岩で威風堂々としている。海燕がこのお堂に運び入れたのも納得の素晴らしい岩だ。
この岩を使わせてもらう事に良心の呵責があったが、この状況では仕方がないと思う事にした。
まずは呼吸を整え、左手に月詠神社、右手に大甕倭文神宮のお札を持った。もちろん、このお札を使うのには意味がある。月詠神社は、不死との関わりが強い月の神が祀られ、大甕倭文神宮には、関東最強の天津甕星を宿魂石に封印したという逸話を持つ倭文神が祀られている。それぞれが違う役割で、かなり強い封印ができると思う。
このお札も、時間のない中、安倍有重に揃えてもらったものだ。彼には本当に感謝しなければならない。ここには自分一人しかいないが、さまざまな人が私を応援し、励ましてくれた。あとは、それに応えるだけだ。
私は、中空を揺蕩う白と黒に分かれた形而下の魂を見た。
相変わらず白、黒どちらからも、人間には理解できない大きさの力を感じる。
では、始めよう。私は頭の中で号令をかけた。
まずは黒い魂を狐の像に入れる作業をすることにした。
黒い狂気の魂を封印してしまえば、残りは理性のある白い魂だけになる。そうなれば、ここまでの道のりの最後が見えてこようというものだ。
私は右手に持つ倭文神のお札に気を注入した。
倭文神武葉槌命は天皇家の血筋であり、女性神ではあるが、荒ぶる甕星香々背男を宿魂石に封印したという神様だ。天鈿女命と猿田彦のような事があったとは推察はされるが、力のある神様には違いない。封印にはもってこいのお札と言える。
私は、気の注入されたお札に祈りを捧げた。しばらく祈ると、お札からは、溢れるような強力な霊気が出てきた。私は、倭文神の力強さを感じつつ、封印の作業へと移った。
右手に持った倭文神のお札で黒い魂を包むようにして、狐の像へと黒い魂を運んでいく。
この小さな狐の像に、黒い魂を封印してしまえば運ぶのも楽だし、誰にも発見されない場所に永遠に封印しておく事もできるはずだ。
お札の力で黒い魂を狐の像へと入れると、私はすぐにお札を狐の石像に貼り付け、お札が取れないように紐で巻いた。これで九尾の狐がここから出る事はない。
大きく息をして、心を鎮めた。狐の石像を見ながら倭文神社の宿魂石のように、九尾の狐の狂気をここにずっと封じ込めていてほしいと願った。
ようやく、ここまで辿り付いたと、私は何とも言えない安堵を感じた。
だが、まだやることが残っている。
祭壇に目を向けると、白い魂が宙空に浮いている。この白い魂を、この山の御神体に移さなくてはならない。次に使うお札は月詠神社のお札だ。知性、理性を司どる魂であれば、ずっとそこにあってほしいからだ。
黒い魂と同じように、私は月詠神社のお札に気を注入したあと、お札で白い魂を包み込みながら、岩の御神体へと魂を入れた。そして月詠神社のお札を岩に貼った。
終わった。と思った瞬間だった。
白い魂を封印した御神体の岩から、思いもよらない程大きな邪気が溢れ出てきた。私は焦った。一瞬何が起きたのか理解できなかったほどだ。
その邪気には毒性があり、触れただけで肌はヒリヒリとした。何らかの神経毒を含んでいるのか、酷い頭痛と吐き気もしてきた。そして、あの死臭が私の鼻をついた。ここまできて、ようやく私は何が起こったのかが理解できた。であれば、この岩をこのまま放置できなくない。
しかし、まずはこの神経毒のような邪気から自分の身を守らなくてはならない。
私は飛ぶように岩から離れ、丹田の気で身体を覆った。ほんの気休め程度だが、この後の作業が終わるまでの間保ってくれればいい。
御神体の岩からは煙のようにもくもくと黒い邪気が溢れ出ている。まるで岩が火事になったみたいだ。
このままこの御神体の岩を放置すれば、賀毗礼山の一帯が邪気に包まれた怪異の世界と化すのは間違いない。このお堂が闇の世界に堕ちた時、その闇はすぐさま山一帯に広がり、この辺りの小さな怪異でさえまともに祓えなくなるかもしれない。
やはり九尾の狐が只でやられる訳がなかったのだ。
私は己の甘さにふうと息を吐いて、御神体の岩から邪気が黒い煙のように昇っている様子を見た。このままでは、間も無くお堂はこの邪気で充満してしまう。
そして、こんな時だが、私は一瞬だけ笑みを作ってしまった。切羽詰まったこんな時に、私は九尾の狐の天邪鬼ぶりに感心してしまったのだ。
まさか白い魂に邪が宿っていようとは思いもしなかった。勝手に勘違いした私が悪いのだが、白い魂が善、黒い魂が悪ではなく、白い魂が悪で、黒い魂が善だったのだ。
どれだけの怨念が篭もればこうなるのか、もうすでに岩が見えにくくなっている。
人間の怨霊も一筋縄ではいかないが、伝説級の妖は更に次元が違うということだ。唯一助かった事は、海燕がこの岩に注連縄を付けていてくれた事だ。これがなければ、すでに手がつけられなかったかもしれない。私は日本の神に感謝をして手を合わせ、二礼した。
もう祭壇は邪気で曇ってしまいほとんど見えない。
私はこの岩の周辺に簡易的な結界を張る事にし、袋から清められた紐を出した。そして、えいやっと闇の中へと突っ込んだ。鋭く小さな針が全身に突き刺さっているような痛みが襲ってきた。目も耳もほとんど効かないが、何とか祭壇の前にたどり着いた。
黒い邪気を吐き続ける御神体が設置されている段の板の隅の突起部分に紐を引っ掛け、まずは四隅を紐で囲った。強烈な邪気が思い切り私の顔にかかり、痛みと共に思考が低下してくる。気を失って倒れる前に結界を貼らなければならない。
素早く袋からお札を四枚取り出し、それぞれの角に貼った。簡易だが準備は整った。
私はすぐさま祭壇から離れ、お堂の入り口付近まで下がると、岩に相対した。
すでにお堂の中は邪気で満ち、視界はほとんど効かず、死臭のような匂いで吐き気も酷い。この匂いは黄泉の世界の匂いだ。私は死の世界へと片足を突っ込んでいるのだろう。
さて、ここからが重要だ。私は慌てず再び悪魔封じの経を唱えて祈りを捧げた。
この酷い邪気の中、何とか喉から声が出たのが救いだ。
もくもくと吹き出す邪気の活動領域を祭壇の中へと狭める為、まずは心の中に聖域を思い浮かべる。私は、自分の精神世界に邪を寄せ付けない巨大な寺院を造った。その寺院の中へ九尾の狐の邪気を吸い込ませようと、お札に霊力を発するよう念じた。効力を解放したお札は、早速寺院の中へと九尾の狐の邪気を吸い込み始めた。当然、邪気は逃げようと抵抗した。しかし、吸い込まれるばかりで逃げられない。そこで、敵はより多くの邪気を吹き出してきた。量でお札の力を上回り、場を制圧しようというのだ。お堂の中には更に多くの邪気が撒き散らされた。しかし、本体はすでに封印されている。この邪気だけで、私の結界に抗えるはずもない。
一時的に体積を倍にした邪気だったが、お札の力の前に身体を千切られるように次々と寺院に吸い込まれていった。この精神世界の攻防は現実世界に干渉する。現実も、邪気は同じようにお札へと吸い取られ、その規模を小さくしていった。
最後の邪気がお札へと封印される寸前、私の精神世界の中に、あの真っ赤な目が浮かび上がった。もう意志もないというのに九尾の狐の恨みが、この目を映し出したのだ。恐怖の象徴とも言うべき真っ赤な目には、怒り、恐怖、嘲りなど、言葉では言い表せない負の感情が全て内包されていた。こんな目をした怨霊が再び肉体を得、万全の態勢で人間を攻撃してきたらと思うと、その先の未来があるのかと絶望してしまう。
ただ、先のことはどんな人間にも分からない。今は、ここに結界を張ることに集中しなくてはいけない。
黒い邪気の濃度は薄くなり、結界内に止まるほど小さくなったので、私は経を読むのを止めた。
もう出し尽くしたと思っていた汗が頬を伝った。
この痛恨の判断間違いを生涯悔やまない為に、できる事をしなければならないと源翁は汗を袖で拭った。
油断ならないのでしばらく御神体の様子を伺ったが、結界も充分に機能しており、もうお堂内は安全だと判断できた。
仕方のない事だが邪気は完全には治らず、まだ僅かに岩から湧き出ていた。湧き出た邪気は結界の中で対流するように循環している。まあ、この程度の量なら結界を破って出てくる事はないだろう。
御神体の岩は、白い魂の封印により元々の黒からその色を白に変えていた。これは悪の魂がこの岩に完全に封じられた事を示している。私は、簡易ではあったがこの結界が充分に機能していると判断し、バタバタした時に床に転がしてしまった狐の石像を探した。後回しになってしまったが、狐の石像も御神体の岩と同じくらい重要なものだ。
祭壇近くの暗闇に目を凝らすと、狐の石像は祭壇のすぐ側に転がっていた。灰色だった石像は真っ黒になっていた。これも九尾の狐の黒い善の魂が入っている証左だ。
私は、真っ黒になった狐の石像を拾いに祭壇の側へと向かった。
向かいざま祭壇の真っ白な御神体の岩が目に入った。岩の中心部分の目立つ場所にお札が貼ってある。あの御神体の岩に月詠神社のお札を貼ってしまったのはまずかったと唇を噛む。狂気の魂を封印するというよりも、その状態のまま生きながらえる感じになってしまった。
モヤモヤした気持ちで、狐の石像を拾った瞬間、肌を伝って石像から温かい何かが伝わってくるのを感じた。心が安らぐというか、疲弊した精神を慰めてくれるような感覚だ。心なしかモヤモヤが少し治った気がする。
心を軽くしてもらい、私は思った。九尾の狐の魂が、真逆の属性に分かれたのは間違いない。この狐の像に入っているのは紛れもなく善の心だ。ただ、九尾の狐がまさかこのような感情を持っていたとは、さすがに驚きだ。
私は、この狐の像を袋に入れた。袋から暖かい波動が伝わってきた。九尾の狐には驚かされてばかりだ。
袋の中の温かい波動を感じながら、この像に倭文神の封印のお札を貼ってしまった事を後悔する。
ただ、後悔してばかりではいけないので、私は、敢えていい方に考える事にした。この封印はちょっとやそっとでは解けない。逆に言えば、次に九尾の狐が復活するまでは確実に解けない。そうであれば、この狐の像こそは、その時の切り札たりえるかもしれない。この魂はきっと私たちに味方してくれるはずだ。
残る懸念は、あの御神体の岩だ…
本来ならこの小さな狐の石像に悪の魂を封じ、どこか人里離れた場所に封印しようと思っていたのだが、そうはいかなくなってしまった。あんな大きな岩では、いつ誰の手によって封印が破られるか分からないし、月詠神社のお札が九尾の狐の魂を守るような形になってしまっている。私の心情としては、なるべく後世に禍根を残さないようにしたいと思っている。しかし、その為の完全な対策はすでに難しい。
私は腕を組んで天井を見上げた。
天板が薄らと見える。それを見ている私の顔はきっと悔恨に満ちているだろう。そんな自分の顔を想像しながら、私はふうと息を吐き出した。そして、顔を下ろしてじっと岩を見た。
源翁は、真っ白になった岩を見ながら何とか知恵を絞り出そうとした。
九尾の狐を封印し続ける事はもう難しい。となれば、この魂をどうにかして復活できないようにしなければならない。そんな方法があるのだろうか?ここに御神体を埋めてしまうのは愚策だ。何しろ紙のお札は読めなくなってしまうし、紐も腐ってしまう。では、ここに神社を作って見張るのはどうか?人間が管理する以上不測の事態が起きかねない。
ああ、このまま御神体をバラバラにしてしまいたい。
そう思った時、源翁は閃いた。
そうか。であれば、この御神体を細かく砕けば、さしもの九尾の狐も復活するまでには数百年はかかるはずだ。
私は、その方法を考えた。ここまでくると様々な方法がいくつも思いつくのだから面白いものだ。うん。これなら九尾の狐のいない数百年を創り出せる。ただ、その為にはこの御神体の岩を運び出さなければならない。それができるかは、有重に応相談だ。
源翁は、この御神体の岩を破壊することで、九尾の狐の魂を祓うことにした。完全には祓えないが、やり方次第で九尾の狐がすぐには復活できないようにはできる。
こうなると、九尾の狐が復活した時の事が気になる。
今回はたまたま九尾の狐が魂の状態だった為、戦いは精神世界での戦いだった。次は、肉体がある万全の状態での戦いだろう。九尾の狐も『獣狩り』のいない人間なら魂でも勝てるという驕りは確実に捨てている。
しかも、次に復活するのは、純粋なる悪の魂だ。
遠い未来に、その悪の魂を持った九尾の狐が復活したとする。その頃の人々には、九尾の狐が手に負えない可能性が高い。何故なら、人間は安全な時間を過ごすとそれに慣れてしまい、対策を怠るからだ。運よく大妖怪の出なかったこの平和な二百年の間がいい例だ。九尾の狐を倒した『獣狩り』は、その力を恐れた朝廷によって潰された。おまけに怪異たちの対策も策定されないままになっている。
怪異が出なければ自ずと警戒をしなくなり、本来伝えられるべき技も継承されないという悪い例だ。そして、いざ『獣狩り』の技が必要になった時には、こうして誰も使えなくなっている。
何の対策も持たない人間が、強大な妖に勝つことはまず無理だ。
こうなるとやれる事は少ないが、その為の専門の人材を作り、受け継いでいく組織を作るしか道はないだろう。
『獣狩り』は、人間離れした力を持つが故、朝廷もその力を恐れている。恐らくはもう二度と作られる事はない。しかし、私たちはこの『獣狩り』を研究して、それを未来に引き継いでいかなければならない。人間が九尾の狐を祓えた唯一の事象を研究する事で、日本が生き延びられる可能性が出てくるはずだ。
その組織を作る事が、私の人生の最後の仕事かもしれない。
私は、様々な決意を胸に、お堂を出た。
辺りは暗く、月が高い。すっかり陽の落ちた山の冷たい風が頬を撫でた。
お堂の中の瘴気の匂いにすっかり辟易していた私は、山の緑の匂いと土の匂いで癒された。大自然の匂いがこれほど心を和ませてくれるとは思ってもみなかった。辺りの空気は、見違えるほどに澄み、あの押し潰されそうな怪異たちの霊圧も影を顰め、獣たちの存在も小さくなっていた。
山の空気が一新されたのは一安心だが、この暗さでは危なくて麓には下りられない。私は、月明かりのあるここで朝まで待つことにし、最後の作業にかかった。お堂の引き戸を閉め、お堂の入り口に封印の札を貼った。次に両端の柱に注連縄を付けて封印を補強した。これでしばらくは大丈夫だ。
朝廷に報告を済ませ、弟子たちを安心させたら、九尾の狐を封印した御神体の岩を祓いに、またここに来なくてはいけない。その前に誰かが封印を解いてしまう事だけは避けなければならない。
ふと後ろに気配がした。
私が後ろを振り向くと、そこにはおりんをおぶさった五平が立っていた。
私は五平に深々と礼をした。五平も頭だけで礼をする。
「よくぞご無事で」五平は震える声で私に言った。
ここで私が出てくるのを信じて、何時間も待ってくれていたのだ。律儀な男だと思う。
「こうしてお堂から出てこられたのも、五平どのの案内のおかげです。心より御礼申し上げます」
「そんな、勿体無い」
五平は、更に頭を下げて源翁に深々とお辞儀をした。おりんがずり落ちそうなので、ここからは座って話をした方が良さそうだ。
「五平どの。そちらで話しましょう」
最初に結界を張ったお堂の脇の草むらに五平を導き、一緒に座ると私は事の顛末を話した。
「——という訳で、九尾の狐の魂の一部をこのお堂の岩に封印したのですが、それは時間稼ぎにしかなりません。五平どの。拙僧の失態で申し訳ありませんが、私が用意を整えてここを訪れるまで、そこのお堂を見守って欲しいのです。何人たりともここに入れないようにしてもらえませんか?」
「はい。もちろんでございます。集落の皆と協力してここには人を入れないようにします」
五平は、下げなくてもいい頭をまた深く下げた。
この青年がいて本当に助かった。人間、やはり一人では無力なのだ。志を同じくする誰かと一緒になって物事を進めないと、全ての事柄はうまくいかない。
「では、まず、妹さんを元に戻しましょう」
何はなくとも、私を信じて待ってくれていた五平を安心させることが第一だ。
源翁は、五平からおりんの魂を封じた木彫りの人形を受け取ると、五平にお願いして、おりんを草むらの痛くなさそうな場所に寝かせてもらった。
右手に人形、左手に数珠を持ち、ゆっくりと温かい声で経を唱える。木彫りの人形に気を流すと、暖かい温もりが感じられた。この人形に命が宿っているのが分かる。黒い気は感じないので、九尾の狐の呪は消えたと考えていい。数分後、木彫りの人形が淡い光を放ち始めたので、私はその人形をおりんの横に置いた。
青白い光が人形から飛び出ておりんへと移動すると、ほんの一瞬おりんも淡く光った。これで魂の移行は完了した。
五平は、心配そうにおりんの様子を見ていたが、おりんの指が動くと、居ても立ってもいられず、おりんに駆け寄った。そして、手を握って「おりん。大丈夫か?」と声をかけた。
おりんは、まだ目を閉じたままだが、体温が戻ってきているようだ。顔に朱の色が戻り、肉体にも張りが出ている。それを見た五平の目から涙がボロボロとこぼれた。
「おりん…」
言葉にならない感情が迸るのを感じながら、私はおりんの魂を癒す経を唱えた。
しばらくすると、おりんの目がゆっくりと開いた。
「あれ?五平にい?こんな所でどうしたの?」
その後の説明は五平に任せ、私は広場の木に背を預けてしばしの休息を取ることにした。本日できることはもう全てやり尽くした気分だ。
木に寄りかかって座った瞬間、鉛のように重くなった身体に全ての疲れが一気に襲ってきた。これほどまでの疲労は今までに感じたことがない。人外の者と戦うとはこういう事なのだ。
そして、私は久方ぶりに熟睡した。
朝を迎え、音がするので目を覚ますと、集落の人々が心配してお堂へとやって来たところだった。あれほど騒がしかった山がいきなり落ち着いたので、皆で様子を見にいく事になったとのことだ。
ここでの話は、おりんと五平が集落の人々にあらかた話してくれていた。集落の人々に改めてお礼をされたが、礼を言うのはこちらの方だ。
「今回の九尾の狐の討伐は、集落の皆様の協力無くして不可能でした。本当に心より御礼申しあげます。まだ半分終わっただけですので、お堂の管理等ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いいたします。そして、おりんさん。これからはあまり無理をしないようにしてください」
「はい。わかりました」
頭を下げ、はにかみながらおりんは答えた。
そして、「本当にありがとうございました」と兄妹二人で同時に言った。本当に仲の良い兄妹だ。
「私は当たり前のことをしただけです。そして、近いうちにまたここに来なくてはいけません。その時はまた道案内をお願いします」
集落の人間をかき分けて、おじいが一歩前へと出てきた。あの歳でよくここまで上がって来れるものだと感心する。
「この山がここまで落ち着いた事は今までありません。源翁さま。ありがとうございました」
そう言って、おじいが頭を下げた。
「それもこれも五平どのを付けてくれた長のおかげです。非常に感謝しております。すでに聞いていると思いますが、お堂の管理の方よろしくお願いいします」
「ふむ。承知いたした。源翁さま。皆で代わる代わる見張ります故、ご安心を」
「よろしくお願い申し上げます」
挨拶が無事終わったのを見届けたおりんと五平は、集落の皆の元へと走って行った。大きな歓声が二人を打迎え、おりんはたちまちのうちに集落の人間に囲まれた。
いい若者たちだと思う。この集落に未来あれ。
私は、朝日を浴びた二人を眩しく見た。
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