第13話 過去編 【室町時代 山城国 陰陽寮 安倍有重】其之十

 あれから数日が経った。


 本来の仕事である陰陽寮の雑務の全てを土師勤介に任せ、有重は人探しに奔走していた。勤介には後で耳にタコができるくらい文句を言われるだろうが、そもそも協力すらしてくれないのだから、それは筋違いというものだと思う。

 何度も言うが、これは日本の危機なのだ。


 そして、『獣狩り』の書籍調査は、頼子に任せる事にした。

 本来なら自分が少しずつ探すべきなのだろうが、失敗を決めつけた同僚たちが完全に手を引いてしまった状態なので、人材探しと同時並行とはいかない。自分の人探しが不発に終わった場合、『獣狩り』を復活させなければならない状況になるのは目に見えている。だから、九尾の狐を祓える人材探しと『獣狩り』の研究は同時にやらなくてはならない。


 助かったのは、頼子が陰陽寮の書庫をえらく気に入ってくれたことだ。

 前回の調査の後、「あそこいいね。毎日入り浸りたいよ。私の職場は天皇家と貴族の本ばかりで、ここみたいに日本中のことが書かれている本がないのよねえ」などと言うのだ。

 頼子の知的好奇心で普通に日本を救えるのではと思ってしまう。あんな酷い匂いの場所など普通の子女であれば即座に逃げ出すはずだ。有重は頼子に甘える事にして、頼子が陰陽寮の書庫に自由に出入りできる許可を得た。

 目眩く魅力的な書物に囲まれた頼子は、『獣狩り』の資料探しを全力でやってくれるはずだ。

 ただ、頼子は夢中になると、自分の好きな事を優先する気があるので、本来の仕事に穴を開けないよう重々お願いはした。彼女は飛び抜けて頭が良いので、仕事に穴を開けるようなヘマはしないと思うが、釘は刺しておいた方がいい。


 そんな有重は、陰陽寮から南へと向かい、京の河原町を歩いていた。

 今日も今日とて人探しだ。


 燦々と輝く太陽の下、子供達が街道を走り回っている。その笑い声は重責を背負った有重の心を自然と和ませてくれる。ふざけ過ぎて、長屋の扉に突っ込んだ子供が、その家のオヤジにゲンコツをくらってしまった。ああやって、理不尽な災害が降ってくる事があるという世の中の現実を、子供は一つ一つを学んでいくのだ。

 そんな長屋街も有重には目新しく映る。この辺りは祇園祭で有名だが、まず用事がないので行くことがないのだ。思ったよりも多くの人々が住んでいて、商店も数多くある印象だ。

 大通りから鴨川方向に入ると、更に長屋が多くなった。どうやら川の近辺が住宅街の中心地のようだ。その鴨川の橋向こうは田畑が広がり、ここまでの京の街とは別世界だ。詳しくは分からないが、京に張られた結界の端が鴨川なのかもしれないと何となく思った。


 この祇園の雰囲気と鴨川の向こうの長閑な風景は、絶対に残さなければならないと有重は思った。街の熱気と郷愁を同時に感じられる場所など、日本中探してもほとんど見当たらないだろう。

 それはそれとして、こんな悠長に風祈を眺めている場合ではなかった。

 有重の足は自然と速くなった。

 野菜を背負う女性、桶に汲んだ水をよろけるように運ぶ少年、重そうな荷車を運ぶ男性を追い抜き、その前を歩く人々もどんどん抜き去った。

 そうやって有重は足早に、反対岸へと渡る橋の袂へとやって来た。

 そこには茶の店や着物の店が点在し、それぞれの店に多くの人が訪れ、行列すらできている。京は文化の発信地だ。最先端の流行りものを多くの人が求めているのだろう。


 今度、ここで頼子に何か買っていこうと思いながら、有重は心地よい風の吹く橋へと足を踏み入れた。横を見れば、漁師達が竹製の竿を振って川に糸を飛ばしている。彼らの腰に揺れている篭の中では魚が跳ねている。どうやら大漁のようだ。

 橋の先は見たままの田園地帯だ。有重は、夏野菜が植る田畑を眺めながら街道を南へと進む。

 さて、本日の目的地にまもなく到着だ。

 有重は懐の入れ物から紙の名簿を出し、そこに書かれている人名をもう一度確認した。祇園社(八坂神社)の社僧の名前を間違えないよう頭で反復した。

 祇園社は、延暦寺の傘下の祇園感神院とも言われ、寺とも見做される神社で、地元の産土神社であり、牛頭天王を祭神に——要するに素戔嗚尊を祭神としている。

 あの有名な祇園祭は、四百年程前から毎年この祇園社が開催している。


 名前を確認した後、有重は名簿を丁寧に懐にしまった。


 この名簿は有重と頼子が作成したもので、朝廷の名簿を頼りに、名のある寺社仏閣の僧侶、神主や占い師から目ぼしい数名を選んだものである。

 今確認した祇園社の社僧もその中の一人だ。

 九尾の狐と渡り合える人材を探すのなら、まずは名のある人物が良いとの判断だ。

 しかし、当初予想した通り京には人材がおらず、行き詰まってしまっているのが現状だ。昨日一昨日と、人選した僧侶や神主に当たってみたが、九尾の狐の名前を出した途端に祓いなどできないと、軒並み断られてしまった。

 そもそも高明な僧侶と言えども怪異と戦った事がない事が多く、あっても憑物を祓った程度というのが現実だった。これでは話にもならない。それが一人二人ではなく、全員が全員そうなのだ。


 まだ数人に話を聞いただけだが、有重はもう諦めに似た思いを感じていた。


 京の周辺には多少なりとも怪異が闊歩しており、その怪異と日々戦う人間がごく少数はいるはずだと予想した自分の甘さに腹がたつ。今の京都は中も外も大きな怪異が出ず、経験が積めないのだ。この程度の人材しかいないのでは、とてもではないが九尾の狐など退治できない。この状況を知る陰陽頭は、無理だと分かって自分にこの仕事を押し付けたのだ。


 要するに、京には九尾の狐を祓える人間はいないと陰陽頭自ら思っているのだ。


 九尾の狐が退治されてから大凡二百年が経つ。

 人材がいなくなってしまったのは陰陽寮だけではなく、京の寺社も同じようだ。

 人間という者は面白いもので、危機がなくては人材が育たない。だからと言って、諦める訳にもいかない。

 有重は、内心祈るような気持ちで、目の前に迫った祇園社を眺めた。

 境内の外側からでも広大な土地に整備された庭園が見え、社殿も屋根しか見えないが非常に立派な社殿に見えた。


 有重は姿勢を正して、祇園社へと足を踏み入れた。

  

 程よい感じに植っている木々と大きな池。その池には魚もそれなりにいて、それ目当ての野鳥も見られる。本堂へと伸びる参道では、祇園社の庭師達が汗を流しながら木を剪定している。

 そんな木々の下を歩けば、暑さも忘れる。

 この見事としか言いようのない庭園を見ただけで、祇園社が殷賑を極めているのが窺える。

 祇園社の本堂が見えてきた。

 面白いのは他の社と違い、仏僧と神主が入り乱れて動いていた事だ。神仏習合が進みすぎてこのような形になってしまったのだろう。


 このような仏教と神道が混ざった場所だからこそ、少し期待している自分がいる。


 頼子が言うには、怪異退治というのは、一つの事を極めた人間よりも雑食の人間の方が向いているのだそうだ。

 確かに当時の陰陽師を考えればそうかもしれないと思う。あの安倍晴明は通常の陰陽師の仕事もしていたし、式神(と言われた人間の部下たち)をうまく使い京の治安にも貢献していた。それでいて怪異も祓っていた事からも、様々な事に通じていた事が分かる。

 もしかすると、人間ではない式神が本当にいたのかもしれないと思わせられるのが安倍晴明という陰陽師の凄いところだ。晴明の言う式神は、紙の依代に宿って彼の命令に従うものだ。

 そして、ここ祇園社は、その安倍晴明の子孫と行円の子孫が交互に運営してたいた場所でもある。残念ながら、お互いの仲が悪く、南朝側と北朝側に別れて争う事になり、南朝側についた安倍晴明の子孫が破れた事で、今は行円の子孫しかいない。


 有重は、社務所を訪ねた。


 社務所には、老齢の社僧がいて、何やら忙しそうに物を運んでいた。その社僧は有重を見ようともしない。このまま無視を決め込んで帰らせようとしているのかもしれない。

 そんな圧力に屈せず、有重は社僧に話しかけた。

「すみません。陰陽寮から来た安倍有重と申します。紀顕生どのに面会をお願いしたい」

 何かの掛け軸を巻きながら老齢の社僧は、あからさまに嫌な顔をした。

「は?安倍の一族が何のようだ?ここはお前らが来る場所ではない。帰れ帰れ」

「そういう訳にはいきませぬ。今、日本を揺るがす大事件が起こっているのです。その解決に向け、紀顕生どのにお話があります」

 老齢の社僧は、こいつは何を言っているのかという顔をして、深いため息をついた。

「日本がどのようになるのか知りませんがな、私どもは、安倍氏の為に動くことなどありませぬ」

「そのような小さな事でお断りになるのは、天下の紀氏の名が泣くというもの。まずは話を聞いていただきたい」

 なかなか有重が引き下がらないので、社僧はしかめ面になって、再びこれ以上ない大きなため息をついた。

 自分が安倍氏というだけでこのような扱いを受けるのはどうかと思うが、これが権力闘争に敗北した者の末路というものだとは思う。

 もう話もしたくないとばかりに、老齢の社僧は有重を憎々しげに睨んで言った。

「では、何が起きたのか私が聞こう。聞く価値のある話なら紀顕生をここに連れてこよう」

「分かりました。では」


 有重は、現状を包み隠さず丁寧に話した。老齢の社僧の表情も段々と真剣なものに変わり、最後は目を瞑ったまましっかりと話を聞いた。


 有重の話が終わると、社僧は腕を組んで上を見上げた。しばらくその格好をしていたが、やがて頭を下げてこう言った。

「九尾の狐か。たとえ霊体であったとしても、単独でそれを確実に倒せる者は京にはいない。もしかすると外にはいるかもしれないがな。では大勢で挑んで勝ち目があるかと言うと、そうでもない。霊体との戦いは、基本一対一の戦いで、その霊力の強い方が勝つ。もちろん戦術次第では互角にも戦えようが、それも中々に難しい」

「そ、そうなのですか…」

 霊体との戦いについて、初めて言及してくれたのは大きい。つまり、大きな霊力を持つ人間を一人見つけるという作業に特化すれば良いのだ。

「霊体の中でも怨霊となると、大きくなればなるほど人の言う事など一切聞かぬ。そして、その恨みの大きさであらゆる天変地異を引き起こし、人間達を駆逐しようとする。鎮めるためには、彼らの力を凌駕する力を示すか、その遠因を解決するしかない」

「怨霊の力を凌駕する…のですか」

 これを聞くと、小さな怨霊ですら祓える人物は少なそうに思える。

「霊具を使う、真言で屈服させる、怨みごとの根本を無くすなどのやり方はいくらでもあるが、最後はその術師の心の大きさだな。それに怨霊が納得するか屈せば、自然と祓われるのだ」

「なるほど」

「九尾の狐はまだ魂の状態——霊体の状態と言ったな?」

「はい。そう聞いています」

「ふむ。では、妖とは言え、怨霊を祓う方法で祓えるかもしれぬな」

「本当ですか?」

「まあ、それだけの力量を持った人間がこの時代にいればだが」

「……」

 有重は、次の言葉が出てこなかった。この社僧が言っているような人物を本当に見つけられるのか不安になったのだ。

 霊力者にして器の大きな人物。

 それを何としてでも見つけ出さなければならない。


 そんな有重を諭すように社僧は話を続けた。

「怨霊祓いは経験が物を言う。

 但し、今の京都は怨霊を祓うという経験ができる下地にないのだ。京に蔓延った大きな怨霊は粗方祓われているからな。だから、豊富な経験を積んだ術師が今の京にはいない。九尾の狐を祓うには、その経験に加え、英知、胆力、霊力、狡賢さが求められる。

 何故なら、九尾に狐は普通の怨霊と違い怪異であるので、自分自身の意志を持っているからだ。九尾の狐が仕掛ける術に一回一回対処できる者———要するに、術式で九尾の狐を上回る人間を探すしかないのだ」

「そ、そのような人がいるのですか?」


 沈黙がその場を貫く。


「世の中は広い。探せばきっといるはずだ」

 老齢の社僧はキッパリとそう言った。

 そう、自分は希望を失ってはいけない。負の方向に考えてはいけないのだ。京の外にはまだまだ悪霊、怨霊を祓う事案が多数あるはずだ。

 老齢の社僧は話を続ける。

「ただ、時間がないのは確かだ。九尾の狐も自身の身体を求めているはずだ。どうしても霊体の間に祓うのであれば、あと二月、三月がいいところだろう」

「ありがとうございます。大変参考になりました。ところであなたは?」

 まだ分からないのかという顔で、社僧は言った。

「私が紀顕生だ」

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