第3話 過去編 【おりん】 其之二
あれからどれだけ経ったのか。
気がつくと、おりんはお堂の中にいた。どうやらうつ伏せで寝ていたようだ。おりんは、身体を起こし、ゆっくりと立った。
とても小さなお堂で、人が四人も入れば満員になってしまうだろう。
その造りは丸太を組み合わせた簡素な物だが、丸太の接合はしっかりとされていて、雨が洩る事もないようだ。それが証拠に、お堂の中に水の染みは一つもない。
最奥には板で作られた簡素な祭壇があり、そこにはおりんの背丈の半分ほどの大きさの立派な岩が置かれていた。その岩には立派な注連縄が巻かれている。他には何もなかった。ここがどこのお堂なのかは分からなかったが、そう言えば、兄が山の上にお堂があると言っていた。
「ここ、山の…上…なのかな?」
声に出して言ってはみたが、その疑問には誰も答えてくれなかった。
お堂には窓がなく、中は暗かったが、祭壇に灯油の入った皿が二つ置いてあり、その皿に炎がゆらゆらと揺れていた。それで色々見えたのだ。
誰が照明を点けてくれたのかは分からないが、自分以外にも誰かいるのかもしれない。
おりんは、ここまでの経緯を思い出してみた。
夕方、薪を取りに行った帰りに、真っ黒な何かに包み込まれた。その後の記憶はない。まずはお堂を出て、少しでも情報を収集すべきだと思った。
おりんは祭壇を背にして、お堂の入り口に手を掛けた。
お堂の引き戸には鍵も何もなく、スッと開いた。
外は真っ暗だった。
目を凝らすと、周りの木々は、おりんのいる集落の木々と重なった。という事は、ここは山の中腹よりも上という事になる。おりんの集落は山の頂上近くにひっそりとある。だから、植生が山の麓の方とは少し違うのだ。
ただ、ここが山の上だとしても、この暗さで下に降りるのは自殺行為だ。夜の山は地獄へと通じる穴の中のように暗い。魑魅魍魎の中に突っ込んで無事でいられる訳がないのだ。
おりんは仕方なく、お堂の中へと引き返した。
ここにいるのも怖いが、山の中はもっと怖い。
出来る事のなくなったおりんは、お堂の真ん中に座って頭を抱えた。
何故、私はあんな事をしたのだろう?
おりんは、兄の五平の言いつけを守らなかった事を悔やんだ。いつもいつも兄はおりんの安全を見守ってくれていた。薪拾いなど、言いつけに逆らってまでする事ではなかったのだ。
ああ、私の馬鹿…とおりんは今更ながら頭を抱えた。
その時、あの時の女性の声がした。おりんは総毛だち、腰を抜かしてしまった。
おりん。さっきはよくやったね。ああやって私を守るのだよ。
え?何のこと?とおりんは思った。
ふふ。覚えていないかい?まあ、それはそうだろうね。ほとんど私がやってしまったからね。でも、これからはあなたが自分の判断でやるのよ。
おりんは、やはり意味が分からない。
「な、何のことですか?」
あなたは私を守るために戦ってくれたのよ。あなたの手を見てごらん。戦いの勲章があるよ。
おりんは戦いなんて大嫌いだ。おりんの集落は、元々漁民であった人々が、戦争で村を焼かれ、もう二度と戦いに巻き込まれないようにと、誰に知られることもな山奥に作ったものだ。だから、集落の人間は、無益な戦いを忌み嫌っている。山の動物を狩る事だけが唯一の例外と言っていい。
おりんは、炎の側に行って、恐る恐る自分の手を見た。
「ひっ!!」
思わず叫んでしまった。おりんの手にはべっとりと血が付いていたのだ。
あなたは勇敢に戦ったわ。相手もなかなかの使い手だったけど、最後はあなたの炎の霊力と青龍刀に散ったわ。
意味が分からない。人間は炎を出せないし、おりんは刀など持ったこともない。
あら、覚えていなさそうね。じゃ、見せてあげるわ。
おりんは意識が遠くなっていくのを感じた。眠いのとは違う、起きているのに自分の意識が何処かへ行っている感じだ。説明はうまくできない。
何を見せられるのだろう?おりんは不安で押し潰されそうになった。
気づくと、おりんはお堂の外に立っていた。周りをキョロキョロと見回すも、ちょっとした平地と木が見えるだけだ。
いきなり、目の前に美しい女性が現れた。唐突すぎて、おりんはひっくり返りそうになった。
その女性は、見たこともない高級な異国の着物を身にまとい、腰を抜かしているおりんを見て笑っていた。彼女の後ろには、何か動くものが見える。よく見れば、それは尻尾だった。九本の大きな尻尾ががその女性の後ろで揺れているのだ。
この人は九尾の狐なのだと、おりんは、ようやく理解した。
お堂の外はさっきまで夜だったのに、今は太陽が煌々と照っている。
女性は「私が誰だか分かったかい?じゃ、これからが本番」と言うと、姿を消した。
おりんの目の前には、修験とおりんが立っている。自分を自分で見るというのは何とも心地が悪い。
おりんはこの修験を知っている。彼は、おりんの集落に入る事が許されている数少ない人物だ。彼は山の上で修行をさせてもらう見返りに、塩や干物といった貴重な栄養源を集落へと持ち込んでくれる。
「お主は誰だ?」
険しい表情で修験がおりんに問うてきた。
おりんは「私はおりんよ!!分からないの!!」と修験に叫んだが、どうやら修験には聞こえていない。彼には私が見えていないようだ。
修験の問いには、目の前にいるおりんが答えた。
「うふふ。私は九尾の狐。ここのお堂は私が貰い受けるわ。この山、霊気がたくさんあるから私の回復に丁度いいし、この娘も使い勝手がいいから居心地がいいのよ」
目の前にいるおりんが喋っているが、自分はこんな喋り方はしない。違和感があるが、おりんはその様子を見ているしかない。
「ふん。私の修行場を乗っ取るだと?見るに、お前はまだ魂だけの存在のようだ。よろしい。わしがお前を祓ってくれよう」
修験は、指を不思議な形に組んだ。途端に、何かの力が修験に宿ったように感じる。しかし、目の前のおりんは全く動じない。
「あなたが?冗談でしょう?まあいいわ。人間の非力さを知りなさい」
そう言うと、おりんは一歩前に出た。
修験に両掌を向けると、「業火!!」と、冷たい声を放った。
驚いた事に、おりんの両掌から巨大な炎が巻き起こり、中空に巨大な炎の球体を作った。実際感じている訳でもないのに、途轍もない熱を感じる。
修験は驚き、半歩後退った。顔が青くなっている。
おりんは「まずは、足からね」などと言い、左手で修験を指差すと、巨大な炎の球体を修験に放った。
慌てて飛び退いた修験だが、避けきれず、炎の球体は彼の足に直撃した。
思わずおりんは目を瞑って頭を反対に向けた。
何故か肉の焼ける匂いがして、修験の叫び声が聞こえた。もう怖くて見る気になれない。そんなおりんに、あの女性の声がする。
目を背けちゃ駄目。あいつはまだ死んでないのよ。息の根を止めるまでがあなたの仕事。
そんな事を言われても、嫌なものは嫌だと思ったが、おりんは強制的に戦いの場を見るように前を向かされた。
修験は足を焼かれ、地面に突っ伏していた。
「さっきまでの威勢は何処に行ったのかえ?」
九尾の狐に操られたおりんは、恐ろしく残忍な声で高笑いしながら修験に詰め寄った。
修験は歯を食いしばって痛みに耐えていたが、何とか半身をおりんに向けると、何かを叫んで印を切った。
何か不思議な力が飛んできたが、おりんは「笑止」と嘲笑いながら、人差し指一本でその力をかき消した。
力の差は歴然だった。
「おのれ。九尾の狐。再び現世に現れ、世を乱すか」
「世を乱す?それは人間から見た世の中よね?でも、戦争ばかりして世を乱しているのはあなたたちじゃない」
それは図星に思われた。おりんの家族も戦争の結果、海人族の暮らしを捨てざるを得なかったからだ。
「お前ほどの怪異が暴れれば、被害は人間の戦争の比ではない。世界の破壊だ。この事が世を乱すと言わずして、何を以って、世を乱すと言うのか?」
「あのね、私は世界を破壊するのではなく、新しい世界を創造するの。あなた達とは考えの次元が違うの。まあ、あとは私の分身に任せるわ」
修験は怪訝そうな顔をして「分身?」と言った。
おりんも九尾の狐の言っている事がよく分からなかったが、すぐに理解することとなった。
目の前で修験と戦っていたおりんと自分が重なったのだ。今まで勝手に動く自分を見ていたが、とうとう自分が当事者となってしまった。
あの女性の声が聞こえた。
いい。あなたの持っているその剣でこいつを殺すのよ。そして———いや、殺さないで見せしめにしようかな。こいつを半殺しにして麓に置いてくるのよ。私ももうすぐ力が戻るわ。その前に私が復活したと知らしめてやるのよ。
そんな怖いことできるはずがない。いつの間にか持っていたこの剣ですら重くて持っていられないのだ。
「で、でも…」
どういう訳かあなたは、私の力をうまく使える才能があるの。だから大丈夫。人間としてではなく、新しい時代の私の尸童として、人間の感情を捨てるのよ。
おりんは、そんな事ができるはずがないと思った。思ったが、九尾の狐が言っているのだ。そうならないとは限らない。
耐えきれなくなったおりんは、九尾の狐から逃げ出そうとした。しかし、あの夕刻の時のように、自分の体は言うことをきかない。手で足を叩いても足は全く動かなかった。
絶望。
そんな言葉がふさわしかった。
おりんは、九尾の狐の笑い声を聞いた。その声が頭に響く度に、自分が自分でなくなっていく感じがした。やがて、おりんは、自分の身体の中に強大な力が宿るのを感じた。その力が爪先から頭の天辺までを駆け巡ると、おりんは、その力の虜になった。
なるほど。これが、九尾の狐の力。
そして、世の中を乱す力。
今まで露程にも思わなかったが、おりんは、この力があれば自分が全ての人間の上に立てると思えた。この力を以って、九尾の狐を守り、新しい世界を創るのだと、使命にも似た感覚すら芽生えた。
おりんは、青龍刀を持ち、修験の腕に振り下ろした。
修験の鈍い唸り声が聞こえたが、それももう虫の声のように気にならない。さっきまでの自分とは違うと、はっきり分かる。
そいつを麓に捨ててきて。誰かが見つけられる所にね。
おりんの中に九尾の狐の命令がすっと入ってくる。もう、迷う事はない。
「はい。分かりました」
おりんはそう返事をすると、修験を片手で持ち上げた。そして、山を駆け降りた。
おりんは、山の麓の寺の近くに修験を捨てた。
炎に焼かれ、片腕を切り落とされてはいたが、修験はまだ生きていた。人間は脆そうだが意外と頑丈だなと思う。
修験は、身体を震わせて言葉にならない言葉を発して呻いた。これなら少しは話ができるかもしれないと思う。そうなれば、九尾の狐様の事を世に知らしめるいい機会だ。
おりんは、どうであれ、九尾の狐様が天下を取るのは間違いのない事だと確信し、山を駆け上がり、あっという間にお堂に戻ると、満足感の中眠りについた。
そうだった。とおりんは思った。
あれを自分がやったのだ。気がつけばおりんは暗いお堂の中に立っていた。
まだ、きちんと私の力が使えていないようだね。
九尾の狐にそう言われたが、おりんは「もう、大丈夫です」と答えた。
私は今までの私ではない。そして、この感覚はもう忘れない。
おりんは、髪を束ねてニヤリと笑った。
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