第31話

「どうしたんだ?」

 いつの間にか考え事をして、床を眺めていた。視界に靴と足首がはいっていた。

 声でわかる。レイだ。なんとなく今は顔を見たくない。

「なんでもない。興奮してちょっと疲れたみたい」

「外にでようか。ここは熱気ですこしむんむんする」

「いいよ」

 レイは、プラスチックのコップにコーラを注いで歩き出した。手にもったコップを見たら、いつの間にかサイダーを飲み終わっていた。わたしはコップをテーブルに置いてレイのあとにつづいた。

 廊下はすぐ突き当りになり、左につづいている。右側の壁にガラスのはまった金属ドアがついて外にでられるようになっている。レイが力を入れてドアを開けながら外にでて、閉まらないように押えていてくれる。

 建物のこちら側は中庭になっていて、照明がついていない。日は完全に没していて、建物の窓から漏れた光が芝や土を照らしているだけだ。余計な光がないから、すっかり暗くなった空が宇宙に向かって全開だ。

 中庭にはレクリエーション用のテニスコートとフットサルコートがある。わたしも何度かテニスをやった。お父さんともレイとも。お父さんは自分の会社だから、ずっとこのテニスコートでテニスをやってきたのだ。お母さんともテニスをしたといっていた。

 テニスやフットサルを観戦するためのベンチがそばにある。わたしはベンチにすわった。レイは立って、空を見上げている。

「高校のころさ、宇宙の研究がしたいと思ってたんだ」

「高校の頃かー」

「天の川銀河の腕のひとつに太陽系があって、太陽系の中に地球があって、地球の表面にピトッてくっつくように、人間とかほかの動物とかが短い命を生きてるんだ」

「グーグル・アースみたい」

「そうだね。でもね、ちょっと勉強しようとしたら数学なんだよ。すっごいむづかしい数学。数学が苦手というわけではなかったけど、得意ってわけでもなくてさ。

 次に興味があったのがサルなんだ。ヒトとつい最近まで同じ生物だった。

 そのころ古い人類化石がいっぱい発見されていた時期だっていうのもある。とにかく、サルの勉強をすることにしたんだ」

「諦めちゃったんだ。でも、いまこうしてここにいる」

「そう、ちっちゃい存在が短い命を生きてるんだ、サルを勉強しようと宇宙を勉強しようと大差ない」

「ふふふ」

「へへへ」

「なあに?」

「結婚してくれないかな」

「なにその冗談」

「冗談じゃなくて。今日まで待ってたんだ」

「そういうことは彼女にいいなよ」

「じゃ、彼女になってよ。そしたら結婚しようってもう一回いうから」

「じゃってなに?そんなこといわれてオッケーする女なんていないよ」

「失言でした。あらためまして、彼女になってください。結婚してください」

「続けて言っちゃうんだ」

「言っちゃう」

「でも、ごめんなさい」

 中庭にきてはじめてレイの顔を見た。

「そんな。いや、うん。フラれることはある。仕方ない」

 レイはコップのコーラをグイッと飲み干そうとして、ブホッとなってむせた。

「ごめんなさい。わたし」

 ベンチから立ち上がる。服をたくしあげ、下着のワイヤーを引き上げてカップをずらす。

 レイは鼻からコーラを垂らした。さっきより苦しそうにむせる。

「なにしてんの!」

 近寄るなとわたしを手で制しておいて、顔をそむけている。そのあいだもむせつづけている。

「はやくしまって」

「ううん。暗いけど、よく見て。わたしのいいたいこと、体を見ればわかるから」

「どういうこと?」

「見ればわかる」

「本当に見ていいんだね」

「見て、早く。こんなことするのは、わたしでも恥ずかしいんだから」

 レイは目を閉じていた。ゆっくり目を開けて、すぐに空を見てしまう。

「それじゃ、わからないでしょ」

 痺れをきらして、レイに近寄って手をつかんだ。胸に押し当てる。

「わあっ」

 レイは手をひっこめる。

「どう?」

「やわらかくて、あたたかかった。って、まだおれたち付き合ってもいないのに。というか、いまフラれたのに」

「レイが冗談じゃないっていうから。断った理由をちゃんと知ってほしい」

 わたしは下着をなおしながら話す。

「いまのに理由があるの?」

「そう。わたしアンドロイドなの。乳首がないの。さっき触ってわかったでしょ?」

「は?アンドロイド?乳首?」

「そう。アンドロイドは法律で、乳首と性器を作っちゃいけないことになってる」

「へえ。それは知らなかった。たしかに、いらないよね。ところで、よくわからなかったから、もう一度さわらせてもらってもいいかな」

 キッと睨みつける。

「ですよね。もう大丈夫」

 わたしはもう胸をしまって、服をおろしていた。

「アンドロイドが開発され、三十年ちかく前に普及しそうになった。でも問題が起こって普及しなかった」

「ふーん、おれが生まれるかどうかのころの話か」

「問題が起こったせいで、アンドロイドには乳首も性器も作っちゃいけないって法律ができたの」

「そんなことが」

「わたしが生まれる少しまえ。わたしのお母さんは、国のプロジェクトで一緒になって、お父さんと知り合ったの」

「ああ、リーダー」

「お母さんは人間の脳と同じ機能をもったシステムの開発が研究課題だった。お父さんは体。いまと変わらない」

「お母さんも研究者だったんだ」

「そう、わたしを育てるために引退したんだけど」

「引退しちゃったのか」

「プロジェクトでお父さんとお母さんがつくってくれたのが、わたし」

「へ?」

「それまでのアンドロイドは人間が作ったアルゴリズムにしたがって行動していた。

 そのプロジェクトは、人間の脳と同じ機能をもったアンドロイドをつくるプロジェクトだったの。お母さんの研究テーマそのもの。

 生まれたときは何も知らない、考えられない。人間の赤ちゃんと同じ。すこしづつ成長して、勉強してこうなった」

 わたしは手を広げて自分を示した。

「おれたちが最初に取り組んだチンパンジーの赤ちゃんアンドロイドの人間版か」

「そう。あれは、わたしのチンパンジー版」

「普通だったら、プロポーズを断る口実かと思うところだけど。本当なんだね」

「うん、本当」

 わたしがアンドロイドだって知らされた日、お母さんが心配してたっていったことが現実になってしまった。わたしはレイを傷つけてしまった。

 わたしも傷ついている。レイのことが好きだというわけではない。可能性の問題だ。もし、わたしがレイのことを好きだったらと考えてしまった。

 レイのことが好きであっても、わたしはセックスができない。レイの赤ちゃんを産むことができない。でも、そういう人間もいる。病気のせいだったり障碍のせいだったりして。わたしにとって、自分がアンドロイドということは、障碍のようなものだと思えばいいのかもしれない。他人にとってはそうではないだろうけど。

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