第10話

「美結ちゃん、かわって。今度わたしが抱っこする」

「うん」

 愛音ちゃんはリビングのソファにすわった状態で赤ちゃんを抱っこした。赤ちゃんの顔が徐々にくもっていって、とうとう泣き出した。

「あー、ごめんごめん。揺れていたかったのかな」

 愛音ちゃんはあわてて立ち上がって、ゆらゆらとゆれだす。その様子がおかしい。笑わずにはいられない。

「愛音ちゃん。愛音ちゃん。もっと力を抜いて」

 必死の形相で愛音ちゃんは赤ちゃんを抱っこしている。

「こう?こうでしょ?この子けっこう重いんだよね。落とすんじゃないかと怖くなっちゃう」

 愛音ちゃんは、お茶の作法の再現のように、ロボットみたいなぎこちない動きだ。赤ちゃんは泣きやむ気配がない。

「また泣いちゃった?ミルクつくってきたから飲ませましょう」

 愛音ちゃんのお母さんがミルクのビンを振りながらもどってきた。ミルクをつくっていたのだ。ソファにすわって愛音ちゃんから赤ちゃんを引き取る。哺乳ビンの飲み口を赤ちゃんの唇につけると、すぐに赤ちゃんがくわえる。泣いている余裕なんてないとばかりにミルクをゴキュゴキュ飲みだした。

「すごい。ミルクは偉大だね」

「愛音ちゃんがヘンな動きなだけだよ。運動神経いいのに、おかしいね。お茶の作法といい、赤ちゃんの抱っこといい」

「人には向き不向きがあるの。わたしはキチッ、キチッとした動きがあってるんだよ、きっと」

「本当、そうとしか思えないよ」

「なんか悔しい」

 赤ちゃんがミルクを飲んでいるあいだ、わたしたちはほっぺやら腕やらをぷにぷにして楽しんだ。

 ミルクが飲み終わった赤ちゃんを、愛音ちゃんのお母さんが背中をポンポンと叩いてゲップさせた。これをやらないと赤ちゃんはミルクをもどしてしまうのだと教えてもらった。また赤ちゃんを抱っこさせてもらう。

「赤ちゃんのママはどうしたんですか」

「泊りがけでお出かけ」

 愛音ちゃんのお母さんの妹が赤ちゃんのママだ。今日はママとパパの結婚記念日で、愛音ちゃんのお家で赤ちゃんを預かることにしたのだそうだ。そのために愛音ちゃんのお母さんは仕事を早退していた。

 子育て中でも、たまにはおいしいものを食べてノンビリするのも必要なことなのだろう。赤ちゃんがいると手が離せなくてそれどころではなくなってしまう。

「愛音ちゃんのお母さんはどうしたんですか、愛音ちゃんが赤ちゃんのとき」

「恵令奈さん、美結ちゃんのお母さんに預けたの。かわりに、わたしも美結ちゃんを預かって、お互いさま」

「ふーん、それで赤ちゃんの頃から一緒だったんだ」

 わたしは愛音ちゃんを見る。

「え?なにか問題でも?」

「ううん。なんかマンガみたいだなって」

「でしょう?本人にはどうにもできないことだから、親が面倒みてやらないといけないの。生まれたときから一緒で、ずっと仲良しなんて、素敵なことじゃない?わたしはすごく素敵だと思う」

 愛音ちゃんのお母さんのスイッチがはいってしまったみたいだ。

「はい、愛音ちゃんと仲良しでよかったですよ?」

「ふん、わたしも悪くないと思ってるけどね」

「ツンデレか」

 愛音ちゃんのお母さんのツッコミは速い。さすが、親子だけはある。

 赤ちゃんの名前は、湊之と書いてソーシ。生後三箇月くらい。そうすると体重は八キロくらいなのだそうだ。わたしは、二時間くらい八キロの湊之くんを抱っこしていた。


 翌朝、登校しながらさっそく愛音ちゃんとオシャベリをはじめる。愛音ちゃんもわたしが帰ったあと長いこと抱っこしていて、朝になったら筋肉痛になっていたという。ロボットのような動きで、ヘンに力がはいっていたからだろう。わたしはどこも痛くならなかった。

 いまごろ湊之くんは、ママとパパのもとへ帰っているはずだ。また会いたいな。

 あ、昨日は赤ちゃんに夢中になっていて、愛音ちゃんの家に行ったのにディーナに会うのを忘れていた。次の機会にはディーナと話をしないと、ディーナがわたしのことを忘れてしまう。ごめん、ディーナ。

 放課後。愛音ちゃんとわたしが家庭科室へ行くと、サオリ先輩が先にきていた。

「サオリ先輩、昨日は一人にしてすみませんでした」

「美結ちゃん、わたし寂しかったわ?」

「あれ?またコントやっちゃいますか?」

「わたし見逃したから、ぜひ」

 愛音ちゃんはパッとうれしそうな顔になる。

「そういわれると、できなくなってしまう。そんなことより、赤ちゃんはどうだったの?」

「かわいかったですよー。ぷっくぷくのぷーにぷにで」

「えー、ぷっくぷくのぷーにぷに?」

「そうですよー。ちっちゃい手で。でもちゃんと握ったり開いたりして。ミルクはゴキュゴキュ元気に飲むし」

「そうそう。元気によく泣いて」

「あれは愛音ちゃんが抱っこヘタクソなだけだよ」

「ちがうよ、お腹すいたから泣いちゃったんだよ」

「でも、ミルクのあとも愛音ちゃんが抱っこしたら泣きだしたよ?」

「サオリ先輩ー。美結ちゃんが、美結ちゃんが、とどめを刺してきますー」

「美結ちゃん、逃げ場は残しておいてあげないと。愛音ちゃんが立ち直れなくなってしまう」

「ごめんね、愛音ちゃん。わたし言いすぎちゃった。愛音ちゃんが抱っこすると、赤ちゃんお腹がすいちゃうみたい」

「そんなわけあるかー。うぇーん」

 愛音ちゃんはサオリ先輩のところに行って肩に顔をうずめる。サオリ先輩が愛音ちゃんの頭をよしよしする。

「サオリ先輩、愛音ちゃんは赤ちゃんを抱っこするときもロボットになっちゃうんです」

「まあ。お茶のときだけじゃないんだね」

「残念ながら」

「大丈夫。お茶のお稽古で滑らかな動きをマスターすれば、ロボットから人間に進化できるはず」

「そうだよ、愛音ちゃん。進化だよ。ニュー愛音ちゃんになるんだよ」

「いまはダメってことでしょ」

「ダメじゃないよ、イマイチ?」

「イマイチ愛音?」

 愛音ちゃんは自分を指さす。

「お、なんかカッコいいんじゃない?イマイチ愛音ちゃん」

「かっこよくなんてあるかー。いいよ、もう。今度はいい油さしてくるから。滑らかになってやる」

「いままでは?」

「ゴーゴーロク」

「いい油って?」

「ロクロクロク」

「すごい、百十も上だよ」

「ふっ、あとで後悔しても遅いんだからな」

「ううん。楽しみ。いい油で進化したニュー愛音ちゃんに早く会いたいよ」

 サオリ先輩が楽しそうにしている。

「ゴメン、やっぱり無理」

「あらま、自信喪失」

「愛音ちゃん、ぼちぼちやりましょう。わたしも協力するから。ね、美結ちゃんも」

「そうだよ。愛音ちゃんにはわたしたちがついてるよ」

 わたしは横を向いて、ぷふっとふいてしまった。

「あ、笑った」

「笑ってない」

「それが笑ってるでしょう」

「あはははは、笑ってないって」

 わたしは愛音ちゃんをくすぐる。愛音ちゃんも笑ってもだえる。愛音ちゃんがくすぐり返してきたから、わたしは逃げ出した。

「つぎのお茶のお稽古が楽しみだね」

「わたしは憂鬱だよ。お菓子だけ食べて帰りたい」

「ダメだよ、許しません」

 いつのまにか追いかけっこになった。

「苦手を克服するんだよ。愛音ちゃんならできるはずだよ。頑張ろう」

「うーん、頑張る」

 愛音ちゃんはしぶしぶといった感じで、自信なさそうだった。この日はこんな調子でふざけあって、勉強はしなかった。家庭科室で勉強しなくちゃいけないわけではないから、それでいいのだ。

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