ケース3 旅館⑱
「忌沼にお出かけですか?」
エントランスを出ると初日にトラックに乗せてくれた坂東が愛想の良い笑顔で声をかけてきた。
「えへへ。ちょうど良いところに。よかったら忌沼まで送ってもらえませんか??」
水鏡がニコニコ坂東に近づいていく。
すると卜部が水鏡の行く手を阻んだ。
「駄目だ。歩いていくぞ」
「ええー!? 腹痛先生、結構距離ありますよぉ!?」
水鏡は懇願するように卜部を見つめるが、当の卜部はそんな水鏡には見向きもせず坂東に道を尋ねていた。
「よし。出発だ」
一行は旅館を出て小さな沢沿い山道を歩いていく。とは言っても道は適度に整備されており進むことが困難な難所のようなものは一つもなかった。
ところどころに企画された植林が黒々とした影を落とし、辺りにはヒノキのいい香りが漂う。
それはかつて栄えた林業の残り香とも言える。
打ち捨てられた亡骸のように見向きもされず暗い影を落とす彼らは、今や花粉症や森林破壊の原因と呼ばれて悪者扱いされる始末だ。
そんな植林地帯も先に進むにつれて姿を消していった。
旅館の前を流れていた小さな沢は、いつしか深い峡谷へと姿を変え、谷の両脇には緋色に染まった紅葉が赤々と燃えては命を散らしている。
それは確かに血を流したような赤で、緋色と呼ぶのが相応しかった。
澄み渡った晩秋の青空がより一層、緋色を引き立てている。
美しい景色に目を奪われた一行は声を置き忘れてきたかのように無言で歩いた。
ふとかなめは峡谷を覗き込み息を飲む。
峡谷の底に翡翠色の一匹の龍が音もなく泳いでいた。
泳ぐ龍に磨かれて、角を失い真っ白になった巨石が、時折龍の体を二分する。
二股に割れた龍は再び合流し、また分かたれ、それを繰り返しながら一行を彼の地へと導いていく。
轟々と流れる水音は反響し、ぶつかり合い、断崖に染み渡り、やがて何も聞こえなくなる。
全ての音を呑み込む轟音がもたらす静寂。
「すごい……」
かなめは足を止めて思わずつぶやいた。
そんなかなめを卜部は背後から静かに見つめていた。
峡谷を抜けてとうとう一行は件の沼へとたどり着いた。
そこは忌沼という不吉な名には、まったく似つかわしくない美しい湖沼だった。
淡いエメラルドグリーンの水が満たされた丸い沼の周りに真っ赤な紅葉が立ち並び、それが水面にぐるりと映り込む様はまさしく絶景だった。
「先生……こんな綺麗な場所があるんですね」
かなめは卜部の袖を引きながら言う。
しかし卜部は目を細めて水辺を見るばかりで何も言葉を発さなかった。
「卜部先生。かなめさん。水鏡がなにやら呼んでおります」
二人は顔を見合わせると翡翠と連れられて水鏡のもとにやってきた。
「じゃじゃ~ん!!」
水鏡はそう言ってポラロイドカメラを取り出した。
「この日のためにカメラを用意しました!! ささ!! みんなで記念撮影しましょう!!」
そう言って水鏡は三人を忌沼の前に立たせてカメラを構えた。
「ちなみ、あれは取材のときにいつも使うテレビ局のカメラです」
翡翠が冷ややかな笑みを浮かべて水鏡を見つめる。
「あ、あっれー!? そうだったかな?? と、とにかく撮りますよ……」
パシャ……ジーーーーーー。
カメラの底部から現像された写真がゆっくりと出てきた。
かなめと翡翠がそれを楽しそうに覗き込む。
そこには苦虫を噛み潰したような表情の卜部、笑顔で抱き合うかなめと翡翠……
そして
血のように赤い忌沼が写っていた。
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