ケース3 旅館⑩

 

 卜部の爆弾発言を受けてか、水鏡は慌ててその日の夜の宴会をお開きにした。かなめの目にも分かるほど水鏡は狼狽していた。

 

 

 つまりそれはこの温泉旅行がことを意味している。

 

 

「は、腹痛先生!! ここの温泉は最高なんです!! 酔をさましに温泉行きましょ!! ね? 温泉!!」

 

 

 水鏡の赤ら顔は見事に青ざめて冷や汗までかいている始末だった。そんな水鏡を見かねてかなめも助け舟を出す。

 

 

「わ、わたしもちょっと飲みすぎたのでお風呂で汗でもかいて酔をさまそうかなー。翡翠さんも一緒にどうですか!!」

 

 

「はい。ご一緒します」

 

 翡翠はいつもの無表情に戻って丁寧に頭を下げた。

 

 

「せ、先生も行きましょう!!」

 

 かなめの援護射撃が功を奏したのか、卜部はくくっと笑って立ち上がった。

 

 

 

「部屋に着替えを取りに行ってくる」

 

 

 こうして豪華な晩餐はなんとも不穏な幕引きとなった。

 

 

 部屋に戻ると浴衣とタオルを手に持って、卜部とかなめは温泉へと向かった。かなめは思わず聞いてみる。

 

 

「先生……本当なんですか? 気が空っぽって……」

 

 

「ああ。本当だ」

 

 卜部は手をヒラヒラとさせながら言った。

 

 

「ここ……ヤバいんですよね……?」

 

 かなめは低い声で耳打ちした。

 

 

「ああ。死ぬほどヤバい」

 

 

 卜部はさらりと言ってみせた。酔っているからなのか、いつも通りなのかいまいち判然としない。

 

 

 かなめが次の言葉を吐き出す前に、二人は男女に別れた暖簾の前に到着した。

 

 

「俺は長湯する。部屋の鍵はお前が持ってろ」

 

 そう言って鍵を手渡すと卜部は暖簾の奥へと消えていった。

 

 

 独り取り残されたかなめは暖簾の脇の長椅子に腰掛けて翡翠を待つことにした。

 

 

 

 

 

 ーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

 

 調理場ではその日も女将の千鶴が若女将であり娘の千代に結婚の話を持ち出していた。ここのところ何日も同じようなやり取りが繰り返されていたが、従業員は誰も口出しをしない。

 

 

「千代ちゃん。この前の話考えてくれた?」

 

「え……?」

 

 千代は咄嗟に分からないふりをしてとぼけた。しかしそれが何の意味もなさないことは自分でも分かっていた。

 

 

「夏男さんの話」

 

 

 千鶴はわざとらしい笑みを浮かべて手を振った。

 

 

 

「その話はやめて……」

 

 

 千代はうんざりした様子で視線を皿に落としぶっきらぼうに言って退けるが、彼女の母親がこんなことで自分の話を中断したことは一度たりともなかった。

 

  

 

 

「そうは言ってもね……千代ちゃんだって分かってるでしょ? ウチでは皆そうしてきたのよ? ここにいる皆のためよ? あなたの我儘と皆とどっちが大切なの?」

 

 

「分かってる……分かってるから。ただもう少しだけ時間が欲しいの……」

 

 

 そう言う娘の顔を覗き込むと、千鶴は娘の手を取って両手で力強く握りしめた。

 

 

「ありがとう。分かってくれてお母さん嬉しい。そうよね。時間が必要よね。千代ちゃんの準備が出来るまでお母さん待つわ」

 

 そう言って千鶴は綺麗な白い歯を見せてにっこりと笑った。

 

 

 

 千代には自分を覗き込む母親の顔がまるで化物のようにおぞましく見えた。

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