ケース2 プール㉗
背中に卜部がする読経の気配を感じながら、かなめと反町ミサキはプールの真ん中の方へと泳いでいった。なぜかそうしなければならい気がしたのだ。卜部の敷いた陣が水面に揺れている。かなめは陣の要になる桶に結ばれた赤い紐をくぐり抜けるために水中に顔を沈めた。
とぷん……
もったりと重たく纏わりつく水は、かなめに羊水を連想させた。底なしの闇を足下に感じると途端に恐怖が心の中を支配する。かなめはパニックに陥るまいとすぐに水面から顔を出した。
かなめは赤い紐の向こう側にいる反町ミサキに目で合図を送った。それに応えるようにミサキは頷いたが、その顔には恐怖が張り付いている。
赤い紐はまるで結界のように二人の間に横たわっていた。
そう。この紐は結界なのだ。そして安全なのは結界の外側だ。結界とは邪悪が外に溢れぬように張るものなのだから……
ミサキは恐る恐る水中に顔を沈めた。すると目の前に大きく眼を見開いた赤ん坊がいた。水中であることも忘れて叫び声を上げた。陸よりも自由に動けるはずの水中が、今は自由を奪う鎖のように纏わりついて離れない。
無我夢中で赤い紐をくぐってかなめが待つ場所に泳いだ。そのとき水を蹴る後ろ足が赤い紐に触れて結界が
「ひぃいいいっ!!」
水面に顔を出して大慌てで息を吸う。過呼吸になりそうなのを堪えて大きく息を吐き出しながら前方のかなめに目をやると、かなめはミサキの背後を見つめて硬直していた。その表情からは血の気が失せて絶望の色が色濃く伺える。
強烈な悪寒が背中から骨にまで響いてくる。本当は怖くて振り向きたくなかった。それなのに身体は意志とは裏腹に恐怖の元凶に向かって舵を切っていた。
体ごと振り向くと、まず目に飛び込んできたのは紐が撓んだ拍子に転覆した桶と供物の小刀だった。小刀はキラキラと光りを反射しながら闇の底に沈んでいく。
そしてその先に視線を移すと、奇妙な姿勢を保った黒い人影が水面に立っていた。
左手を右の頬に添え、右手は左の太ももに絡ませるようにして立つ人影は、痩せこけて真っ黒に煤けておりピクリとも動かない。
「オン アミリタ テイ ゼイ カラ ウン」
卜部の叫び声がプールに木霊した。
卜部は文様の陣から立ち上がって両手で印を結びその手を痩せ焦げた人影に向けた。それに呼応するようにカッと化け物の眼が見開かれた。白眼が真っ黒な顔面にギョロリと浮かび上がって見える。
卜部の真言が黒いヒトガタを縛ったのか、身動きが取れないと言った様子でヒトガタは身を捩って縛りをふりほどき始めた。その口元は愉快そうに嗤っている。
「かなめ!! 鋏を桶に供えろ!! 急げ!!」
かなめは卜部の叫び声で意識を取り戻すと慌てて桶に向かって泳ぎだした。しかし無数の赤ん坊が浮かぶプールを進むのに手こずってなかなか前に進むことが出来ない。
「反町ミサキ!! あんたは水に潜って赤ん坊たちに償いをしろ!!」
「どうやって!?」
「知らん!! 赤ん坊に聞け!!」
卜部は叫ぶと数珠を取り出して手に握った。しかしその瞬間に数珠紐が切れて数珠はあたりに散らばった。
「くそっ……!!」
卜部は座禅を組むと左手人差し指と親指で輪をつくり腹の前に構えた。そして右手の人差し指と中指を化け物の方に向ける。まるで見えない刃の切っ先を突きつけるように。
「早くしろ!! 長くは持たない!!」
反町ミサキは意を決して水中に沈んだ。待ち構えていたように粘土のような赤ん坊達が何体も何体も纏わりついてくる。
赤ん坊達は小さな口を目一杯開いて、歯のない口でミサキの身体を齧り始めた。
指先、肩、肘、膝、肌の露出した部分に齧り付く赤ん坊達。歯の無い口とは思えないような力で、ミサキの皮膚は食い破られて赤い血がプールに滲んでいく。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
痛みに耐えながら心のなかでそう呟いた。しかし赤ん坊達の噛みつきは止まる気配がなかった。
「具足大悲心 皆已成仏道」
「輪界六趣中 備受諸苦毒 受胎之微形 世世常増長」
遠く水の向こうから卜部の声が聞こえて来た。すると赤ん坊達の力が少しづつ緩むのを感じる。
目を開けると先程目があった赤ん坊がまたしても目の前に浮かんでいた。
「あなた……わたしの……?」
心のなかでミサキは語りかけた。すると赤ん坊は一度だけゆっくりと瞬きして、ミサキの鼻に齧り付いた。
ミサキは痛みに顔を歪めたが赤ん坊が鼻を噛み切るのを受け入れた。
すると突然赤ん坊がミサキから引き剥がされていく。見るとあの黒い痩せ焦げた化け物が赤ん坊を掴んで口に運ぼうとしている只中だった。
「やめて!!」
ミサキはなぜか夢中で赤ん坊を掴んで化け物から取り返そうとした。赤ん坊は大声で泣き叫んでいる。
「オン マイタレイヤ ソワカ」
卜部がまたしても真言を叫んだ。すると化け物は身じろぎして動きが止まった。みさきはその隙に赤ん坊を抱くと全速力で岸に向かって泳ぎ始めた。無数にいた赤ん坊達は、いつのまにか姿を消していた。
待ちわびたご馳走を邪魔された化け物の表情からは先程の薄笑いが消えていた。代わりに恐ろしい怒りの形相を浮かべて卜部を睨みつけている。
卜部はそれでも怯まずに印を結んで化け物を縛り付けたが、身体からは血が滲み出て、白装束がところどころ真っ赤に染まり始める。
「かなめ!! 早くしろ!! もう限界だ……!!」
行く手を阻んでいた赤ん坊が消えてかなめは桶に向かって真っ直ぐ泳いだ。あと数センチで桶に手が届くところで、ぐっと後方に引き戻された。
振り向くと焼け焦げた化け物の黒い手が足首を掴んでいる。
「放して!!」
かなめはあらん限りの力で化け物の手を何度も蹴りつけた。しかし化け物の手はびくともしない。
化け物は邪悪な笑みを浮かべてもう片方の足も掴もうと手を伸ばした。化け物の手がかなめの右足に触れた時だった。
バチン……
右足に巻いた卜部のミサンガが音を立てて切れた。それに呼応するように化け物の指が弾け飛んだ。
化け物は予期せぬ痛みに耐えかねて叫び声を上げる。かなめはすかさず桶を戻してそこに鋏を供えた。
「ぁあぁぁあぁぁぁああああああ」
化け物の断末魔が響き渡った。
すると水面にあった化け物の姿が一瞬で消えた。
見ると水面を境界にして化け物の姿は反転していた。
水面に足をつけて逆立ちする形で、化け物は水中に立っていた。
化け物は水の中からかなめと卜部を恨めしそうに睨みつけるとガチガチと歯を震わせながら暗い水底に沈んでいった。
かなめは黒い顔に浮かぶ陶器のような白目とその真中に座す漆黒の瞳を見た。その瞳の深い闇に身震いした。
どうやらしばらく忘れることはできそうにない。
結界の陣を崩さぬようにそっと紐をくぐって水から上がると、血まみれの卜部と、無惨に鼻を食いちぎられたミサキが座り込んでいた。
「先生!! ミサキさん!!」
「大丈夫だ。もう終わる」
卜部はミサキのほうを顎で指して言った。
見るとミサキに抱かれた赤ん坊の霊がミサキの口からミサキの体内に入っていくところだった。いや。おそらく胎内に……
ミサキはそれを黙って受け入れた。
卜部はそれを見届けると鞄から携帯を取り出してどこかに電話をかけた。
「ああ。俺だ。悪いがすぐに来てくれ。ああ。あんた以外の人間が来ると事態がややこしくなる。場所は……ああ。よろしく頼む」
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