ケース2 プール⑬

 反町ミサキは人の気配が消えた閉館後のプールにいた。騒がしい生徒達の声は消え、薄暗い天井にはゆらゆらと水面の影が揺れている。

 

 手が滑って持っていた水中メガネを床に落としてしまった。コーン……とプールに反響する落下音を合図に、赤ん坊のすすり泣くような声がどこからともなく聞こえてくる。

 

 発情する猫の甘ったるいような、あるいは神経を逆撫でる、生理的な嫌悪と不安感を煽るような、そんな声。

 

 やがてそれはミサキを取り囲むように空間全てを埋め尽くすように聞こえてくる。

 

 ミサキは俯いて耳を塞ぎ、なんとか声をやり過ごそうとした。

 

 ビクっと腹が痙攣した。

 

 目をやると自分の下腹部に小さな手形が浮かぶ。内側からミサキの下腹部を押す小さな手。

 

「ひぃぃいっ……」ミサキはそれを刺激しないように息をひそめるが、ミサキと繋がるその存在には無意味だった。

 

「ぎゃああ!! ぎゃああ!! ぎゃああ!! ぎゃああ!!」

 

 自分の内側から聞こえる、火が付いたように泣き叫ぶ声、赤ん坊の声、ミサキはただひたすらに腹の中に巣食う存在に向かって謝罪する。

 

「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」

 

「ぎゃああ!! ぎゃああ!! ぎゃああ!! ぎゃああ!!」

 

「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」

 

「ぎゃああ!! ぎゃああ!! ぎゃああ!! ぎゃああ!!」

 

「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」

 

 すると突然ミサキを取り囲む赤ん坊の声がピタリと消えた。腹の中から聞こえる声も。

 

「反町さん?」

 

 その声に顔を上げると、そこには榛原大吾の甘い笑顔があった。少しとぼけたような表情でミサキの肩をさり気なく触る。その手は柔らかく心地良い力加減だった。

 

「大吾くん……」

 

「大丈夫? 思い詰めた顔してどうしたの?」男はそう言うと、優しく肩を抱きながら自然に隣に腰掛けた。 

 

「ううん! なんでもないの。気にしないで」そう言ってミサキは男に笑いかけた。トクンと下腹部で何者かが脈打つ。

 

「話って?」男は本当はさっさと次に進みたかった。しかしそんな素振りは出さずに落ち着いた物腰で言う。

 

「噂になってるよ。高校生に手を出したって。大丈夫なの?」ミサキは出来るだけ責める素振りを見せないように、慎重に言葉を選んだ。

 

「ああ。そのこと。大丈夫だよ。うちの病院で全部世話することになってるし、ちゃんと渡すものも渡してあるから」

 

 榛原大吾は悪びれる様子もなく白々と言ってのけた。事実この男にとっては何も特別なことはない、平生のことであった。

 

「それに弱みを握ってるから裁判沙汰になることもないさ」そう言い終わると榛原大吾はミサキを抱き寄せて顔と顔を近づける。するとミサキはフイと横を向いた。

 

「どうしたの? 何か怒ってるの?」男はヘラヘラと言う。面倒な女だと思ってもそれは一切表に表さない。

 

「ちゃんと私だけ好きなのかなって」ミサキはふくれっ面でそう言った。下腹部がビクビクと脈打つ。

 

「もちろんだよ。他は遊びだよ。結婚してから遊ばないで済むようにって話したろ? 俺はどうしようもない奴だから……でもミサキのことは本気なんだ」 

 

 男はミサキの顔を覗き込んで完璧な笑顔を浮かべる。引き締まった身体に、甘いマスク。父親は総合病院の経営者で、おまけに産婦人科医だった。

 

 最悪な人格に最高の外見を被せて、地位と金まで与えるとは神様は一体何を考えているのだろう? それとも彼は堕落した神の使徒なのだろうか? 神に逆らい地に落とされた堕天使のような。

 

 ミサキは頭の中でそんなどうでもいい妄想を繰り広げていた。しかしそれとはまったく別のことを脳はフル回転で考えている。

 

「証明できる?」ミサキはとうとう切り出した。

 

「もちろん。君の為ならなんだってするよ」男は心にもないことをまるで本心であるかのように熱弁する。

 

 たくましい腕に肩を抱かれながらミサキはその目を真っ直ぐに見つめてつぶやいた。

 

「じゃあ今日はここでして……」

 

 ミサキは思う。彼が悪魔だとすれば、私もまた悪魔にそそのかされた邪悪な女なのだ。

 

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