37話 グラグラ

「……颯太はさ。まだ江奈ちゃんのこと、忘れられない?」


 単刀直入にそう切り出され、俺は視線を水嶋へと戻す。


 俺を見つめる凛とした翡翠色の瞳が、心なしか揺れている気がした。


「……忘れられない。忘れられるわけないだろ」


 だって江奈ちゃんは、彼女との出会いは、俺の人生の中で起こっただったんだ。


 モノクロでサイレントだった「佐久原颯太の青春」という映画に、江奈ちゃんはにわかに音と色を与えてくれた。


 大げさかもしれないけど、本当に世界が一変したようだった。


 劇的な出会いも、刺激的なイベントも、およそ青春恋愛ドラマやラブコメ小説みたいな出来事はなかったかもしれない。


 だけど、忘れられない。


 江奈ちゃんと過ごした数か月を、俺はきっと、死ぬまで忘れることはできないだろう。


「今の恋人であるお前に言うのも変な話だけど……やっぱり、まだ好きだよ。江奈ちゃんのこと」

「それじゃあさ」


 俺の言葉に被せるように、水嶋が言葉を挟み込む。


 暗に「それ以上は聞きたくない」と、そう言いたいかのように。


「この二週間は、どうだった?」

「え?」

「私と颯太が『お試し』で付き合うことになって、今日でだいたい半分くらいでしょ? 契約期間の。私と過ごした半月は、江奈ちゃんとの四か月と比べて、どう?」


 挑発するように、けれどどこか不安そうな表情で、水嶋が俯きがちに聞いてくる。


「それは……」


 言われて、俺はこの半月ほどを振り返ってみる。


 さっきの映画の例えで言うと、思えば水嶋との出会いは劇的どころの話ではない。


 なにしろ俺たちの初対面シーンは、「彼女を奪われた少年」と「少年の彼女を奪った張本人の少女」というとんでもない構図である。


 こんなボーイミーツガールがあってたまるか。少なくとも俺は、そんな始まり方をする青春映画は見たことがない。


 それだけに飽き足らずこの女は、あろうことか本命は俺の方だったなどとのたまい、江奈ちゃんを奪っておきながら俺に告白をしてきたのだ。


 めちゃくちゃにも程がある。これが本当に映画なら、この時点でシアターを後にする観客がいたってまったく不思議じゃないと思う。


 そうしていざ「お試し」で付き合い始めてからも、こいつには振り回されっぱなしだった。


 こんな濃い二週間を過ごしたのは、佐久原颯太を十五年間やってきた中で初めてのことだ。


 そういう意味では。


「……アホ。こんだけ色々あった二週間だぞ? 忘れたくても早々忘れられねーよ」


 俺はせいぜいウンザリした顔でそう言ってやった。


 途端に、水嶋の顔から嘘みたいに不安の色が消える。


 代わりに浮かんできたのは、何がそんなに嬉しいんだか、ゴンドラを照らす夕陽にも負けないくらいに眩しい笑顔だった。


「……そっか」

「おう」

「ねぇ颯太。もいっこ、聞いてもいい?」

「なんだよ、改まって」

「今日のデートは……楽しかった?」


 いつにも増してあざとい口調でそう聞かれ、俺はドクンと心臓を跳ねさせる。


 それは、これまでにも何度となく投げかけられた問いだった。


 水嶋とのデートは、あくまでも「勝負」のためのもの。水嶋と一緒にどこへ行って何をしようと、それは変わらなかった。


 水嶋との時間には特に何も感じることはなく、だから俺はいつも、その問いかけに頷くことはなかった。


 だけど……だけど、今日は。


 あくまで「恩返し」の為とはいえ、初めて水嶋と「お試し」ではない本当の恋人のように過ごしてみて……認めたくはないが、たしかに、いた。


「水嶋との時間も悪くない」と……そう考えてしまっていた俺が。


(……わからない)


 こいつは俺の宿敵なんだ。


 こうしてデートをしているのだって、最終的にはこいつの告白を突っぱねて、綺麗さっぱりこいつとの縁を切るためのもののはずなんだ。


 なのにどうして、俺は心の片隅で「楽しい」なんて思っているんだ?


 そんな感情が芽生える土壌なんて、俺の心には一片だってないはずなのに。


 なかった、はずなのに。


「俺は……」


 まるでゴールの見えない迷宮にでも迷い込んでしまった気分で、俺は答えに窮してしまう。


 言葉なんか出ないくせに、取り繕うように口を開けて。


 しかし、その一瞬の葛藤が、俺にとってはどうしようもなく命取りだった。


「颯太」

「へ? ……んんっ!?」


 にわかに鼻腔を埋め尽くす、甘い金木犀きんもくせいの香り。


 次には馬鹿みたいに開けっ放しだった俺の口が、何か柔らかくて暖かいもので塞がれる。


 それが水嶋の唇だったと理解したのは、ゆっくりと顔を離した水嶋が、夕陽を反射して光る湿った唇をそっと指でぬぐってからのことだった。


「やったね。今度はちゃんと狙い通りだ」

「おまっ……いまっ……キッ……!?」


 恥ずかしさと驚きでロクに舌も回らない俺に、水嶋はほんのりと頬を染めて笑いかけた。


「これね、ファーストキスだから。私の」

「な、なん、なんで……?」

「これで忘れないね? 今日のデートのことも」


 いつの間にか、俺たちの乗るゴンドラは観覧車の頂点に差し掛かっていた。


 床も天井も透明だからか、まるでみなとみらいの上空に俺たち二人だけで浮かんでいるような錯覚に陥る。


「今日みたいな日がこの先もずっと続くように、颯太のこと、絶対に攻略して見せるから」


 水平線の向こうに沈みかけた夕陽が、俺たちの姿をオレンジ色に染め上げる。


 何もかもが、世界のすべてが、まるでそれ一色に変わってしまったかのようだった。


「覚悟しててね──私の大好きな《ソータくん》?」


 水嶋の、火の玉ストレートの愛の囁き。


 こいつは最初からそうだ。

 最初から何も変わらない。


 だから、今まではただの妄言で、虚言で、俺を罠にハメるための口八丁でしかないと思っていたその言葉に、どういうわけだか打って変わってドキドキしてしまうのは。


 俺の方が、俺の中の何かが、変わってしまったからなのかもしれない。


 江奈ちゃんが好きだというその気持ちは、今でもけして変わらない。


 だけど……。


(なんなんだよ、その目は)


 すぐ目と鼻の先で、この世の何より愛おしいものを見るような目を俺に向けてくる水嶋。


 そんな彼女の表情に、俺は否が応でも自覚し始めてしまっていた。


 俺の中で、水嶋に貼り付けていた「宿敵」というレッテルが、少しずつ、しかし着実に剥がれていっていることを。


 本気で俺のことなんかを好いてくれているかもしれない変わった女の子、と。


 彼女のことを、そう思い始めている自分がいることを。


 これは……マズい。かなりマズい。


 非常によくない流れに乗ってしまった気がする。


 だって俺は、あろうことか、こう思ってしまっているからだ。


(俺は──本当に、!?)

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