第66話 水嶋静乃の初恋②
シワだらけのスーツを着崩してベンチに座っていたそのおじさんは、缶ビールを飲みながら私たちに怒鳴り散らした。
よく見れば、ベンチの下には空いたビールの缶がいくつも転がっている。
「ヒック……おい! このボール投げたのはどいつだ、あぁ? 誰が投げたんだよぉ!?」
ボールを引っ掴んでベンチから立ち上がったおじさんは、焦点のぶれた目で私たちを睨みつけ、フラフラとおぼつかない足取りで近づいてきた。相当酔っぱらっているみたいで、酒くさい臭いがツンと鼻についた。
「ひっ……!?」
「だ、誰って……」
おじさんの剣幕にみんな震えあがってしまっていて、まともに声も出せない状態だった。
ボールを打ち上げてしまった張本人の男子にいたっては、顔面蒼白といった様子で立ち尽くしてしまっていた。
「誰が投げたんだっつってんだよぉ!!」
バーン!
しびれを切らしたらしいおじさんが、持っていたボールを思いっきり地面に叩きつけた。派手にバウンドしたボールは宙を舞い、そのまま転がっていってしまう。
そして、いよいよ恐怖もピークに達したみんなの視線は、自然とボールを打ち上げた男子の方に向いていた。
「んんン? ……お前かぁ? クソガキこら、お前が投げたんか、あぁ!?」
おじさんに凄まれた男子は、もう目に涙さえ浮かべてしまっていた。
このままでは、彼がおじさんにどんなにこっぴどくどやされるかわからない。
そう思った私は、気付けばその男子を庇うようにして一歩前へ出ていた。
「……僕です。僕がボールを投げちゃったんです。ごめんなさい」
ボールを投げた男子含め、グループの皆が驚いた顔で私を見る。
そんな皆を尻目に、私は真正面からおじさんと対峙した。
「遊んでいるうちに、間違ってボールを高くとばしちゃったんです。おじさんに当てちゃったことは謝ります。でも、わざとじゃないんです」
いくら酔っぱらっているとはいえ、相手は大の大人だ。
こっちが誠実な態度を見せてきちんと謝罪すれば、多少怒鳴られはするかもしれないけど、それでこの場は収まるだろう。
幼かった私はそんな風に考えていた……のだが。
「そうか……お前が投げたんかぁ!!」
それからすぐに、世の中はそう単純にはできていないことを思い知った。
「うぐっ!?」
こちらの精一杯の弁明にはまったく耳を貸さず、おじさんはいきなり私の胸倉を掴んで持ち上げた。
背が高いといっても、それはあくまでも小学生にしてはの話。当然、私は地面から足を浮かせ、宙ぶらりんの状態になってしまう。
「『ごめん』で済んだらなぁ! クソ高い税金払ってまで警察を働かせてる意味がねぇだろうがよぉ!」
「うっ……」
「くそっ! くそおっ! どいつもこいつも俺を馬鹿にしやがって! 俺だってなぁ、好きで平日の真昼間にこんな公園で時間潰してるわけじゃねぇんだよぅ!!」
わけのわからない愚痴をまき散らしながら、おじさんは持ち上げた私をブンブンと前後に揺らす。
「ご、ごめんな、さ……」
「だ~か~ら~ぁぁ!! ごめんで済んだら警察要らねぇっつってんだろぉ! ガキだからってなぁ、何したって許されると思ったら大間違いなんだよっ!」
必死に謝ろうとしても、おじさんはますます激昂するばかりだ。
私はこの時ほど、「話の通じない相手」というのがどれほど恐ろしいのかを思い知ったことはなかった。
まるで理性のない野生の猛獣を相手にしているようで、さすがに恐怖を感じずにはいられなかった。
「う、うわぁぁぁぁ!?」
「きゃぁぁぁぁ!?」
いよいよ我慢の限界だったらしい。
血走った目で当たり散らすおじさんに恐れをなして、その場にいた私以外のクラスメイトたちは皆さっさと逃げ出してしまった。
「あっ……」
当然、取り残された私は、おじさんの怒りを一人で受け止めなくてはいけなくなり。
「俺を……俺をバカにすんじゃねぇぇぇぇ!」
ついには大きく拳を振り上げたおじさんを、私は恐怖で悲鳴もあげられないまま、ただただ見ていることしかできなかった。
──だけど。
「──食らえ必殺、『アデリードロップ』!!」
「ぐへぇ!?」
次の瞬間、派手に地面に吹っ飛ばされてうめき声をあげたのは、おじさんの方だった。
胸倉を掴んでいたおじさんの腕から解放され、私は地面に尻もちをつく。
「いっ……つつ」
「おい、早く立て!」
座り込む私にそう言って手を差し伸べてくれたのは、さっきおじさんをドロップキックで吹っ飛ばした、見知らぬ男の子だった。
「逃げるぞ!」
「え、あ……う、うんっ」
訳もわからないまま、それでも私は男の子の手を取って立ち上がり、そのまま彼と一緒に一目散にその場を後にした。
※ ※ ※ ※
そうしてしばらく走り続け、私たちはやがて人気の少ない静かな雑木林までやって来た。
「……ふぅ。ここまでくれば、あのオッサンも追いかけてこないだろ」
「はぁ、はぁ……あ、ありがとう。助けてくれて……」
私が息を整えながらお礼を言うと、男の子はこちらを振り向いてニッ、と白い歯を見せた。
「気にするな。ヒーローとして当然のことをしたまでだからな!」
朗らかな笑顔でそう言って、サムズアップでカッコつける男の子。少しクセのある黒髪に、やや三白眼気味の目つきが印象的だった。
「……ヒーロー?」
「おう! ちなみにさっきのワザはあれな、『
「ペンギン……なに、それ?」
「なにって、ペンギンナイトだよ。お前知らないの? テレビで毎週やってるじゃん。いま俺が一番推してるヒーローだ! このあいだヒーローショーも見に行ったしな!」
ぽかんとする私を置いてけぼりにして、男の子は立て板に水のごとく「ペンギンナイト」についてアツく語り始めた。
ついさっき私の窮地を颯爽と救ってくれた男の子の、打って変わって無邪気な様子を目にして、思わずクスリと笑ってしまう。
「あ! お前、いま俺のこと『子供っぽい』とか思っただろ!」
「ごめん、ごめん。そんなこと思ってないよ。……でも、ペンギンでヒーローって面白いね。あんまり強くなさそうな名前だけど」
「へへん、これだからシロウトは困るよ。知ってるか? 本物のペンギンのパンチでも、人間の骨を折るくらいのパワーがあるんだぜ? そしてペンギンナイトの『エンペラーパンチ』の威力はその100倍だ! 弱いわけないっつーの!」
シュッ、シュッ、と虚空に拳を突き出してステップを踏んでいた男の子は、それからガサガサと雑木林をかき分けて歩き出す。
「さてと、そんじゃ芝生広場まで一緒に行くか。またあのオッサンが来るかも知れないからな。俺がお前をゴエイしてやるぜ」
「う、うん……あれ?」
私は男の子の言葉に従って再び歩き出そうとして、しかし次にはペタンと地面に座り込んでしまった。
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