第56話 好きだから

「────水嶋っっ!!」


 倒れこむ水嶋を支えながら、俺はトイレの床に座り込む。

 そして。


「う……そ、だろ……」


 水嶋の右横腹、ニットの生地をじわりと赤く染めながら突き刺さっていたカッターナイフを目にして、俺は全身から血の気が引いていくのを感じた。


「あ……あ、あ、あ、あああ……あああ……なん、な、なんで……?」


 カッターナイフから手を離した吉田さんが、にわかに青ざめた顔を両手で覆いながら後ずさる。


「嘘……そんな……なん、なんで……わたし、わた……ち、違うっ! こんな……こんな、つもりじゃ……!」


 はぁ、はぁ、と荒い呼吸をしながら唇を震わせ、次にはガバッとフードを被ると、逃げるようにして男子トイレから走り去ってしまった。


「あ、おい! 待てっ! ……くそっ」


 俺はすぐさま追いかけようとして、しかし膝元で横たわる水嶋の姿に思いとどまる。


 今はあいつを追いかけるより、水嶋を助けるのが先だ。


「と、とりあえず、救急車っ……!」


 自分でもびっくりするくらい震えてしまっている右手でスマホを取り出し、俺は人生で初めて119番をコールした。


「もしもし! あのっ、俺の……俺の連れが、刃物で刺されて!」

《落ち着いて。現在地と、患者の容体を簡潔に教えてください》

「は、はい! 現在地は──」


 電話越しの救急隊員の指示に従いながらどうにか救助の要請を終え、通話を切る。もう数分後には救急隊員や水族館の職員がここに駆けつけてくるだろう。


「うっ……そう、た」

「水嶋!? し、しっかりしろ! 今、救急車呼んだから!」


 なるべく体が動かないようにと、俺は水嶋の肩に手を回して体を支える。


 痛みからかその端正な相貌を歪めながら、しかし、水嶋は俺の顔を見上げてうっすらと笑みを浮かべた。


「……颯太……ケガ、してない?」

「え?」

「……大丈夫、そうだね……ふふ……良かった」

「水、嶋……」


 なんで……なんでだよ。


「……っか野郎」


 お前、自分の状態わかってるのかよ。

 刃物で腹を刺されたんだぞ。

 なのに……なんで第一声が、俺の心配なんだよ!


「お前……何やってんだよ!」


 こんな状況でもクールぶって見せる水嶋に、俺は思わず責めるような口調でそう言ってしまう。


「なんで……なんで俺をかばってこんな、になるみたいなこと……」

「…………だって、言ったじゃん……颯太のことは、私が守るって」

「っ!?」


 たしかに、そのセリフは昨日今日と何度も聞いた。


 一体なんの根拠があるのかもわからなかったけど、俺が不安がったり、ビビったりする度に、水嶋はいつもそう言っていた。


 気休め以上の何でもない──正直、今の今まではそう思っていた。


 まさか、本当に身を挺してまで俺を守ろうという覚悟が……そこまでの覚悟がこいつにあるなんて、俺は夢にも思っていなかったのだ。


「……だからって! なんでこんな、無茶なことを……!」


 思わず顔をしかめて俯くと、水嶋が緩慢な動きで左手を上げ、そっと俺の頬を撫でた。


「それも……いつも、言ってるじゃん……」


 蚊の鳴くような小さい声で。


 俺の目を真っすぐに見つめながら。


「──颯太が、好きだから」


 何度も何度も耳にした、その言葉を絞り出した。


(……どうして)


 照れ臭いだとか、胡散臭いだとか、そんな感情よりも前に俺の心が抱いていたのは、ただただ「なぜ?」という疑問だった。


 簡単に言うから。

 

 いつも息をするくらい簡単に、こいつは俺に「好きだ」と言うから。


 それを「下らない」と蹴り返すのも、息をするくらい簡単だった。


 だけど……。


(どうして……そこまで……)


 鮮血に染まる横腹と、この期に及んでも自分に笑顔を向け続ける彼女の姿を見てしまったら。


 もう、だ。

 何も知らないまま、何も考えないまま、こいつが向けてくる想い重みを一蹴するなんて。


 俺には無理だ。


「お前は、どうしてそこまで……俺なんかのことが?」


 どうせ答えちゃくれないだろうと、今まで心の中にしまっておいたその疑問を、気付けば俺は水嶋にぶつけていた。

 

 細めていた目を微かに見開いた水嶋は、けれどやがて、どこか遠くを見るような目をすると。


「……だって……颯太は、わたしの……ヒー、ロ…………」


 ほとんど声にならない声を漏らし、次にはそのアクアマリンのように澄んだ瞳を、ゆっくりと瞼の裏に隠していった。


「……! おい、水嶋? おいっ! しっかりしろ! 水嶋!!」


 気を失った水嶋を抱きかかえて俺が叫ぶのと、男子トイレの入り口から数人の救急隊員が突入してきたのとは、ほとんど同時のことだった。

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