紫堂文緒(旧・中村文音)

第1話

 その若い鷹は空を飛ぶことが何より好きでした。

 毎朝、まだ暗いうちに目覚めると、もうその胸は今日も高く舞い上がる歓びに高鳴るのでした。



 一羽きりで暮らしている鷹でした。

 巣立って幾年かが経っておりましたが、つれあいをめとってはおりませんでした。



 鷹は日々を生きぬくことに夢中で、昔のことを思い出すこともありませんでした。

 ただもう今を生きることだけに懸命で、その一瞬一瞬のつながりで一日がなりたっておりましたので、かつてを振り返る暇も必要もなければ、未来のことに思いを致す余裕もありませんでした。

 彼にあるのは、ただ空を飛ぶこと、お腹が空けば獲物を捕まえることばかりで、その繰り返しのままに一生が過ぎていくように思われました。



 山を越え谷を渡り、野を斜めに滑り、時には海にまでたどり着いて、鷹はいつも風の中におりました。

 自在に空を翔けるとき、若い鷹の堂々としたさまは、まるで王様のようでした。



 全く、若い鷹はその雄々しさや勇猛さで鷹たちの、いえ、全ての鳥の中の若き王だったのです。



 ところがある日、いつものように伸びやかに空を飛んでいた鷹は、ズドンという大きな音と共に硬く鋭いものが自分の体を貫くのを覚えました。

 そしてそのまま、つぶてが落ちるように、迷いなく真っ逆さまに地上へと落ちていきました。



 黒い地面に叩きつけられて力なく横たわった鷹のくちばしの奥から、赤い血がたらりと垂れました。



 一体、何が起こったのか、自分がどうなっているのか、鷹にはまるっきりわかりませんでした。

 しかし、それっきり鷹のあれだけ自在に空を巡っていたその体は、二度と自分の意思で動くことはなかったのです。





 落ちた鷹は人間の手によって運ばれ、吐いた血を拭われ清められると、腹を裂かれて薬と綿を詰められました。

 裂かれた腹は再び元のように縫い合わされ、その縫いあとは白い羽毛で巧みに隠されました。

 

 

 そしていつのまにか鷹は生きていた時と同じように、すっくと二本の脚を踏みしめて立っていたのでした。

 ただその脚元は、切り立った岩山でも太い幹に確かに繋がった木の枝でもなく、札の貼られた木の台にしっかりと留め固められていました。



 そこはある学校の研究室で、鷹ははく製にされて標本になっていたのです。

 しかし鷹の魂は、その自由の利かなくなった体を離れることなく、そのままそこに留まっていました。



 鷹は何度もそこから飛び立とうとしました。

 力を振るって翼を広げようとしました。

 けれど二本の脚はびくともしません。

 それどころか、羽根の一枚すら動かすことができません。



 …もう二度とかつてのように飛ぶことはできないと悟るまで、若い鷹は幾度羽ばたこうと試みたことでしょう。

 しかし、幾度試しても、無駄でした。

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