第65話 すべてに時がある

 玉座に座ってから何もかもが変わった。


 この間、家で夢中になったナナカマド商店街の絵を描いていたのがずっと昔のことのようだ。


 思えばきざしはあった。


 あの絵を描いているときの、自分が世界を創り出している感覚。


 理想のビジョンを細部まで描く喜び。そこに描かれている人々への、どこか深く懐かしいところから溢れ出してくる愛情。


 それらの感覚が、いまあおいの体内に標準装備され、その感覚をもったままにどこへ行ってもいられるのだ。


 地下鉄に乗っていても、仕事をしていても、あおいはいつも玉座に乗ったままの自分でいられた。


 あおいは画用紙に描いたナナカマド商店街の絵をイースト店の入り口に貼り出した。往来の人たちから見えるところへ。


 本田美咲と長谷川多津子はいつまでもその絵に見入っていた。


 通り過ぎゆく往来の人たちもその絵に見入った。

 反応はさまざまだった。

 良い反応もあれば、悪い反応もあった。


「これ、うちの店じゃないの? 何よ、勝手に」


「本当に、こんな活気ある商店街になれたらいいけどねえ」


 そのどれもがとても良い意見であるとあおいは受け止めることができるのだった。


「なんか、風格ありますね」


 いつもと様子が違うあおいに、本田美咲が声をかけた。


 この間の夜、ひじきの横にいた本田美果と同じ顔だ。けれどもまったくの別人だ。きっとひじきもそういうだろう。


 ひじきと僕が、双子のそれぞれに恋をするだなんて、僕の楽園で起こることはなんて素敵なんだろう、とあおいは嬉しくなった。


 僕の楽園。僕の仲間。


「もしかして、このギャルソンみたいな人って春田さんですか?」


「はい、そうです。似合いそうだなあと思って」


 美咲がくすっと笑った。可憐な花が風で揺れたようだ。

 どの瞬間の美咲も奇跡のように美しいとあおいは思った。


「似合いそうです」


「本田さん」


 あおいがあらたまった口調で美咲に向き合った。


「はい?」


「春田さんがほかの店で働くようになったこと、黒沢課長は怒っていましたが、本田さんは大丈夫ですか」


 美咲はさらにくすくすと笑った。


「黒沢課長は、怒るでしょうね! 前にカイが黒沢課長にケガをさせてしまったときも、お顔を真っ赤にして怒っていましたよね。熱血漢ですもの。みどり食品のことが大好きですもんね。昔から、よくうちの母が、黒沢課長の話を話していたのでキャラクターとして納得です……。けど……」


 あんなに心を閉じていたのに、いつの間にこんなに饒舌になったのだろうか、とあおいはあらためて美咲を見た。


美咲の表情がふわりと柔らかくなった。


「私は、なんだかとっても嬉しいんです。春田店長は、あ、春田さんは、やっぱりナナカマド商店街が大好きだって思うし。ご家族だって、春田さんが東京に行かなくて地元にいてくれて嬉しいはずです」


「そうか……、ご家族も幸せだ、本当だ」


「それは多津子さんがそう言っていたから気づいたんです。あの人はとても暖かい人です」


 長谷川多津子も春田の転職に対して朗らかに笑っていた。


 春田はもしかしたらこの二人に何か信用のようなものを植え付けていたのかもしれない、とあおいは思った。


 奥にいた多津子があおいを呼んだ。


「時田さん、お電話です」


「あ、はい」


「サウス店の、江夏店長からです」


 受話器を取ると大きな声が聞こえてきた。


「おい、合同レクリエーションの件、どうなったんだよ。ったく、待てど暮らせど言ってこねえからよう、こっちから電話かけたんだよ。俺最近萩野さんとも松雪さんともあって話して、いろいろ改善案できてきてんだよ」


 あれこれと問題が立て続けに起こって、確かに自分で宣言していたはずの合同レクリエーションをみどり食品本社敷地内でやるという企画は言いっぱなしになっていた。


 これまでの自分なら、この電話に焦っていたかもしれないとあおいは思った。


 しかし今あおいの心にあるのは、ただただ、時が来たのだということだけだった。


――よりどりぐりーんの店長たちの幸せ、アルバイトさんたちの幸せ、お客さんたちの幸せ。それが、それが統括の仕事。僕の楽園のめざすものだ。


 電話に出ると、これまでの自分と全然違う質の声が腹の奥から出てきた。


「江夏店長、ありがとうございます。そうなんですね……、他の店長さんとも……」


「おう、肝心のお前はどうなってんだよ」


「すみません! 僕が立て込んでいたせいですっかり遅くなってしまいました」


「遅いぞ。あのときは今すぐ取り掛かりそうだったのによ。だからこっちもその気になったんだ」


「はい……。この電話のおかげで始められます。スタートの旗を振るのは、いつも江夏店長ですね」


「お、そうか」


まんざらでもなさそうな江夏店長の声だ。


「はい。この電話で、今スタートの旗が振られたようにしゃきっとします。ありがとうございます。ではさっそく始めましょう。江夏店長は合同レクリエーションの日程はいつがいいと思いますか? 場所は、みどり食品中央センター敷地内で。銀さんに相談してカフェのテラスみたいにしましょう。よりどりぐりーん四店舗を休みにして、思いきり楽しみましょう。そのレクリエーションは、大切な人を誰でも連れてきていいことにしましょう。江夏店長、彼女さんを連れてきてくださいね。よりどりぐりーんを、みどり食品を、見てもらいましょうね」


「お、おう。お前なんだか、前よりいい声になったなあ……」


 あおいは自分の声の粒が粒子となって新たな世界を形づくっていくのが分かった。


 すべてが何かの印であるように感じる。


 今日、江夏店長から電話が来たということは、このタイミングなのだ。つべこべ言わずに今すぐやるんだ。


 あおいは多津子と美咲に説明をし、次々と他の店舗に連絡を取り、レクリエーションの日の日程を決めた。話し合いたい内容のヒアリングもして、当日のプログラムを作成した。イメージがどんどん膨らんでいく。黒沢課長に説明して、総務課メンバーの協力をしてもらうようにして。飾りつけは銀さんに相談しよう。他の部署の人たちにも情報を伝えて、覗きに来てもらえたらいい。碧社長に、ここまでの成果を見てもらえたらもっといい。そうだ、碧社長は、この日、美咲が働いていることを知ることになるんだ。そこまで考えが至ったとき、あおいを呼ぶ声がした。


「時田さん……」


 気がつくとすぐ横に美咲がいた。


「レクリエーションの日って、社長も参加するのでしょうか」


 美咲の顔は、静かに落ち着いていた。


「そうできればと思っています」


 あおいも落ち着いて答えた。


「けれど、本田さんがもしもいやだったら……」


 美咲はゆっくり首を左右に振った。


「いやじゃありません。時田さん、当日の飾りつけを私もお手伝いさせてください」


「……ぜひ、お願いします」


「レクリエーションの日は、社長に伝えたいことがあります」


 美咲の顔は高原のエーデルワイスのように今日も清らかだった。


「母に……、社長に……、伝えたいことがあるんです。レクリエーションの日に、私は人生を変えます」


「……わかりました。最高の日にしましょう」


 イースト店を二人に任せて、あおいは中央センターへ向かうことにした。


 地下鉄に乗っていても、玉座に座っているような心の落ち着きが続いている。


 空いた席に座り込み、バッグを抱える。


 そのバッグの中にある、本田美果が貸してくれたエコバッグにくるまれたマグカップのカケラのことを思うときだけ、叫びたいような悲しみがこみあげてくる。


 大切な友人をなくした悲しみ。


――この悲しみは、ずっと癒えないだろうな。


 またあの夢を見ればマグカップと話せるかもしれないが、現実世界では割れてしまった。


―きゃらん、きゃらん。


「働くのって、本当に楽しいね! 自分が社会とつながって無限に広がっていく感じ。働くってすごいよ! 自分と星空が、つながるみたいだ!」


 マグカップが言った最後の言葉がずっとあおいの頭にあった。


 もう一生、無邪気な気持ちで星空を見上げることはできないかもしれない。


 あおいはこの喪失感をずっと抱えていこうと思った。


 これもまた、何かの印なのだ。



***



――ようやく落ち着いて、読めるわ。


 しばらくの間ずっと忙しかった天野碧は、今ようやく本社二階の廊下に貼り出された顧客の声を一つ一つ読むことができていた。


――成果の小径を作ってもらって本当によかった。


 マリアが無理をして急いでくれたのに、自分が読むのはすっかり遅くなってしまった。


 碧は一枚一枚を見逃すまいと、ゆっくり読んだ。


 どの一枚も、宝に感じられる。


 普段は知ることができない、みどり食品の従業員ひとりひとりの頑張りを顧客目線で知ることができ、そして顧客のさまざまな意見を知ることができる。


 碧はそれらを読むことに没入していった。


 そしてとある一枚の前で、立ちすくんだ。


 それは便せんに達筆で書かれていた短い文章だった。


<貴店の近くで働いている者です。

いつもナナカマド商店街の喫茶店に立ち寄って仕事の休憩をしております。

貴店で買い物をしたり、前を通るたびに模造紙を使ったディスプレイや手づくりのPOPがお見事で楽しみにしております。

聞いてみましたらアルバイトの本田美咲さんがすべてやっているとのこと。

とても素晴らしいです。

今度、弊社の店舗のPOPづくりの相談をぜひ本田さんにしてみたいと思っております。失礼でなければ今度声をかけさせていただきます。

まずは日頃のお礼を申し上げます。

昔ながらのみどりちゃんファンなので、ぜひ応募させてください>


 碧は、その場に立っていられないほどの衝撃を受けた。

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