第45話 冒険を続けなければならない
「時田、悪いが今日からイースト店の店長業務メインでやってくれ」
突然の黒沢課長の言葉に時田あおいは暗い瞳をいぶかしそうに上げた。
「あれ……、春田店長は?」
「それがさ、9月末までのはずが今朝突然来て、今日で辞めるって言うんだ。このあと東京に立つことになったからって……」
「え……」
話を聞いていた清野マリアが怪訝そうな顔をした。
「どうもあやしい」
向いの氷川主任が銀縁の眼鏡を拭きながら言った。
「有給申請も何も事前にありませんでしたよ」
小田桐このはが誰にも聞こえないほど小さい声でつぶやいた。
「外にタクシーを待たせていたのは春田さんだったのね……」
黒沢課長は朝一番で淹れたまま飲んでいない冷めたコーヒーをがぶりと飲んでから言った。
「まったく突然すぎる。俺は社長に伝える。時田はとにかくイースト店に行って店長業務よろしく頼む。アルバイトたちに引継ぎメモは渡してあるのだそうだ」
あおいの胸中は複雑だったが、突然のことに心の反応が追い付かずとにかく「わかりました」と言って作成中の文書を保存し、立ち上がった。
階段を何段か駆け下りてから、ふと立ち止まり、回れ右をして給湯室へ向かった。
食器棚を開けるとそこには赤いマグカップだけがあった。
「行くぞ」
あおいは今朝、持ち歩くのをやめようと決めたばかりだったがやはり思い直してまたマグカップをバッグに入れた。
足早に会社を出てイースト店に向かう。
抱えたバッグから、マグカップの振動があおいに伝わる。
「ぶるるるる……、ぶるるるる……。あおいくん、あおいくん、嬉しい」
「ごめんな……。やっぱり一緒に行こ。今日からイースト店だ」
「あおいくん、ありがとう……、でもどうしてさっき、ボクを手放そうとしたの?」
地下鉄駅の雑踏の中で、バッグを抱えながらあおいは自分の気持ちを振り返ってみた。
「そうだな……。冒険を、やめようと思ったんだ……」
「冒険をやめる?」
「うん……。冒険者として、統括の仕事を進めていこうと思っていたんだけど、やっぱりほどほどでいいかなとか……。そもそも会社辞めようかなとか……」
「じゃ、なぜいま、ボクを連れてくの?」
「うーん……」
ブルーのラインの入った地下鉄車両が、ホームに入ってきた。平日の午前中、座席はいくつも空いている。あおいは隣の車両との連結部分のすぐ横の角の席に体をうずめた。
そして唇の先だけを動かしてかすかな音で会話を続ける。
「そうだな……」
あおいの言葉が出てくるのをマグカップは静かに待っていた。
しばらくして、あおいは言った。
「冒険を、続けるかもしれないんだ……」
あおいは本田美咲のことを考えていた。
春田店長の突然の退職。アルバイトの本田美咲と長谷川多津子は今頃途方に暮れているかもしれない。
「冒険を、続けなければならないのかも……」
天野碧社長に内示を受けたあの6月の会議室を、いまあおいは思い出していた。
――あなたは、よりどりぐりーんが、いいえ、みどり食品がこれからしなければならない冒険の、中心的英雄役として、いま召命されたの。
――冒険。それは前例を覆していく恐ろしいものかもしれない。勇気も必要だし、反乱の恐れもあるわね。大切な冒険に挑む英雄には守護が必要ですが、守護役は私です。何かあれば私があなたを守護します。よりどりぐりーんは、新しい考え方のお弁当屋さんになっていかなければならない。そのために、これまで内部の人間には当たり前だとしか思えないものを打ち砕き、本質に沿ったものに変容させていく冒険が必要なの。
――「ど、ど、どうして僕が」
――「あなたの絵を見ました。あなたのその眼が、冒険に必要なたった一つのことだからよ」
「社長の欠点がわかったとしても、召喚された事実は事実なんだよな……」
まもなく降りる駅だ。あおいはバッグを抱えたまま立ち上がった。
開いたドアから踏み出す足に、やや力が宿る。
「僕は召喚されたばかりで、そして冒険はまだまだ始まったばかりなんだ……」
あおいはまた本田美咲のことを思った。
自分がショックを受けた要因は美咲と碧社長のことだ。当事者である美咲は、もっとずっとつらいだろう。
――美咲さんの、心からの笑顔が見たい。
そう思ったとき、この冒険は途中で辞められないのだと気づいた。それと同時に、ずっと曇天のように心にかかっていた暗い影も、すべてを投げ出してしまいたい辞意も、すうっと消えていくのをいまあおいは感じた。
「僕は冒険を続ける。だから、またキミを持ち歩きたいんだ」
マグカップの振動は最高潮に達した。
「ぶるるるる……、ぶるるるる……。嬉しい! それって、ボクを冒険の仲間だと認識しているってことだよね!?」
「ほら、キミと深緑の手帳と僕は、召喚チーム一心同体なんだろ?」
その瞬間、バッグの中の手帳の革の匂いが少し増したような気がした。
「あ、手帳くんも喜んでるよ。あおいくん」
「まじ?」
あおいは地下鉄のコンコースを歩きながら少し大きな声で言った。
「まじ」
マグカップが当たり前のように返した。
地下鉄の出口から、イースト店の方角へ歩く。だんだんあおいの胸の鼓動が強くなってくる。美咲はどんなに傷ついているだろう、美咲はどんなに困っていることだろう。多津子さんだって、途方に暮れているかもしれない。
「早く行って、助けてあげなきゃ……」
思わずあおいがそう言うと、バッグの中のマグカップが静かな口調で返してきた。
「あおいくん、そうじゃないよ。助けられるのは、よりどりぐりーんイースト店。助けるのは、仲間のみんな。あおいくんがあの二人を助けるんじゃないよ。一緒にイースト店を助けよう、だよ」
あおいははっとした。
冒険者は、弱者を庇護するものなのだと思い込んでいた。
弱者なんかじゃない。
共に冒険する仲間なのだ。
イースト店に着くと、てきぱきと清掃をする二人の姿が見えた。
あおいは「大丈夫ですか」と声を掛けようと思っていたが、その言葉は二人を喜ばせないことがわかった。その言葉は二人と自分に距離を作ることがわかった。
だからあおいはこう声をかけた。
「おはようございます。今日から一緒にイースト店を盛り上げる時田です。よろしくお願いします!」
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