第44話 過去からの手紙
みどり食品2階の会議室。
窓の外からはバス通りを車が行き交う平日の午前中の喧騒が聞こえる。
この会議室の中はしんと静まり返っている。
いつも営業販売会議で使うこの部屋にいるのは今二人だけだ。
頭を下げているのがイースト店店長の春田一彦。
腕を組んで低い声で唸っているのが総務課の黒沢健二課長だ。
「まあ、そこまで謝らなくても、わかりましたよ……」
「本当に、本当に、申し訳ございませんっ!」
「いや、春田くんが今朝血相を変えて来た時には驚いたけれど、話はわかりました」
「すいません……」
さらに頭を下げる春田店長を、黒沢課長はいぶかしそうに見つめる。
「それにしても、ずっと9月末だと聞いていたからそれで引継ぎなども進めていたので、まさか明日から突然来ないということになるとちょっと困っちゃいますね」
「アルバイトさんたちに、引継ぎメモを残してあります。それにあの、明日からではなくて、このあとすぐに東京へ行くことになってまして……」
「ええっ、ずいぶんと慌ただしいなあ……」
「とにかくそういうことですのでっ」
話を終わらせるように春田店長はそう言って傍らのリュックを背負った。
なんだかすべてに違和感を感じる、と黒沢課長は思った。
誠実でまじめなタイプだと思っていた春田店長がこんなふうに突然今日会社を辞めると言ってくる。しかもその足で東京に行くという。
詮索するつもりはないがつい黒沢は心配になって訊いた。
「その、東京行くっていう話は、大丈夫な話なの?」
その言葉に、春田店長の顔は赤くなった。そのことに自分でも気が付いたようで、さらに耳まで真っ赤になった。
春田店長の反応に黒沢課長はますます心配になる。
「なんでまたこんなに急に東京に……」
「いやあの……。ちょっと急きょ、大きな展開がありまして……」
「大きな展開?」
何だろう、と黒沢課長はなんとなく聞き返す。
すると春田店長の顔はさらに真っ赤になった。
「いえ……。何でもありません……。ただ……」
「ただ?」
「ただ……、本当の自分の人生を、始めることにしたのです」
春田店長はそれだけ言うと、もうこの会社には用はないとでもいうように黒沢課長に背を向けた。
「おい」
会議室のドアのところで春田は立ち止まって黒沢課長を振り返った。
「一個だけ、聞いていいすか?」
「なんだ?」
「ひょっとして黒沢課長……。『おなかすいた』っていう言葉に特別な意味があるかどうか、ご存じですか?」
今度は黒沢課長の顔がみるみる赤く染まっていった。
「さ、さあ? わからん……」
春田は首を傾げて言った。
「あれ? 読みが外れたか……。いや、すいません。実はイースト店にときおり、なぞの郵便物が来ていたんです。白い封筒に、白いコピー用紙がたたまれて入っていて、開くといつも『おなかすいた』とだけ、ひらがなで書いてありました」
「そ、それは何回くらい来たんだ? いつからだ?」
「ここ数年で、数回だけです。いつも黒沢課長にこのことを言おうとして、忙しさにまぎれていたんです」
「なぜ、俺に言おうと思ったのだ?」
「それは……」、春田は黒沢課長の眼をまっすぐと見つめて言った。
「『けんちゃんへ』って書いてあったからですよ。いったい何のことだろうと思っていましたが、黒沢健二さんですもんね……。ひょっとしたら、と思ったのです」
「そうか……。差出人の名前は?」
「書いてないんです。心当たりあるのですか」
「いや……、残念ながら……」
春田は「もう行きます」といってリュックを背負いなおし、もう一度深々とおじぎをした。
そして見たことのないような奇妙な顔で、「また……」といって歩き去っていった。
会議室にぽつんと残された黒沢は、このあとの予定の時間が迫っていたが、力なく椅子に座り込んだ。
――時田を呼んで、事情を説明し、すぐにイースト店に行かせなければならないな……。
――碧社長に頼まれていたことを、午前中にやらなければならない……。
――清野に丸投げしていた「#みどりちゃん」を使ったノベルティプレゼントつき顧客アンケート企画、あれの戻りはどうだったかな……。把握しなければならない。
――そうだ、来週の会議の準備をそろそろしなければならないな……。
黒沢課長の脳裏に迫りくるタスクが次から次へと浮かんだが、今はすぐに立ち上がることができなかった。
――けんちゃん……。
あれはもうずっと前のことだ。
まだ、今の家庭をもつ前。まだ、大学生だった頃。
あの寒い日。
11月の大学構内は銀杏の黄色に染まっていた。その銀杏の葉に雪が積もっていた。足元は融けた雪でぐじゃぐじゃしていて歩きづらかった。
小柄な彼女に、黒沢は腕を差し出した。
大学時代ずっと彼女に恋をしていた。いや、もしかしたら彼女のほうもこちらに恋をしていたのだろうか。それともまるっきり勘違いだったのだろうか。
彼女は黒沢の友人の幼馴染ということもあり、しょっちゅうグループで行動を共にした。
黒沢の友人は大学のオーケストラに所属していたので、彼女と一緒に演奏を聞きに行ったことも一度や二度ではなかった。そこで演奏された曲について、大学構内を歩きながらいつまでもおしゃべりはつきなかった。
音楽にはさほど興味がなかったが、彼女の感想をいつまでも聞いているのが黒沢にとってとろけるように幸せな時間だったのだ。ドビュッシーの『月の光』のことを彼女はこんなふうに言っていた。
「ねえ、けんちゃん。私ね、この地球上に、まだ誰も知らない湖がきっとあると思うの。そして夜になるとね、その湖面が、月の光に輝くの。私、ドビュッシーの『月の光』を聴くと、その誰も知らない湖の情景が浮かんできちゃうの」
彼女は在学中に病気を患い、入院をすることになった
その最後の登校の日は11月で、辺り一面が白くなる初雪の日だった。
足元の悪い銀杏並木の道を、彼女に腕を貸して歩いた。通りへ出るまでのほんの少しの間だったが、二人は突然の雪で音を失ったように静まり返った構内を、無言で歩いた。
そのとき彼女は体調の悪化によって食欲を失っていた。
黒沢がお菓子やらおにぎりやらをすすめてもいつも彼女は首を振るだけだった。
初雪にぐずつく道を歩きながら、彼女はぽつりと言った。
「おなかすいた……」
黒沢は「えっ!」と驚いて言った。
「冗談よ。おなかすいた……、って言ってみたいなあと思って。けんちゃんはいつもやさしかったね。いろんな食べ物私に食べさせようとしてくれたね。一度でいいから私からおねだりしたかったな。おなかすいたよ、けんちゃんって」
黒沢は胸がいっぱいになって何も言えなかった。
「いつか、身体が治ったら、いっぱい言うんだ。けんちゃん、おなかすいたよって」
もうずっと昔に置いてきたと思っていた、自分だけの宝物にしまってあった言葉を、黒沢課長は誰もいない会議室でつぶやいた。
「マヤ……」
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